【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4|トピックスファロー

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2024年7月18日
【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4

第二次世界大戦の開始当初に消滅したポーランドの国土は、ドイツとソ連に分割されます。ここから戦後にも続く、苦難な複雑な歴史が始まります。1944年、ワルシャワ蜂起で市民が立ち上がるまでのポーランドを追っていきます。

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ドイツに分割統治されるポーランド

123年ぶりに独立したポーランドは、わずか20年足らずで、ドイツとソ連に分割されて、地図上から姿を消します。

占領国であっても一部自治を与えていたフランスをはじめ、他の西欧諸国と比べてみても、ナチスドイツのポーランドの占領政策は大変厳しいものでした。ポーランドには一切自治を認めませんでした。

それはヒトラー自身のポーランド人に対する偏見に満ちた評価が影響しています。

「ポーランド人は人間以下の未開人である、
不潔さは想像に絶する、
彼らに知的な判断能力などできない。」

ポーランドの中でもドイツに分割された地域では、ドイツに直接併合された地域と、ナチスの親衛隊によって支配される地域に分かれます。

ポーランドの西部から北部にかけてはドイツに併合。ドイツは念願だったダンツィヒを自国に復帰させました。これによってポーランド回廊が飛び地だった東プロイセンと地続きになります。

ワルシャワやクラクフを含むポーランド中南部は、ナチスの親衛隊が全権(総督ハンス・フランク)を握って支配するポーランド総督府が置かれました。

右がソ連領、真ん中がポーランド総督府、左がドイツ領右がソ連領、真ん中がポーランド総督府、左がドイツ領

ポーランド総督府では、現行の法律がほとんど廃止となり、無法地帯と化します。ナチスの人種的イデオロギーの実験の場となるのです。ポーランド総督内には、かの有名なアウシュビッツなど、大規模な強制収容所が建設されていくことになります。

ワルシャワのど真ん中にあった悪名高いパヴィアク監獄

ナチスはワルシャワ市内でも抑圧と支配の体制を確立していきます。市内では誰もが不審尋問、逮捕、射殺される可能性がありました。

路面電車に乗っていたら、突然、親衛隊員が乗ってきて、その車両に乗っている全員を強制労働のために無理やり徴用していくことも頻繁にありました。

ワルシャワの中心部でもナチスに対する不穏分子を拘留し、処刑する場所がいくつかありましたが、その中でも最も有名なのが、パヴィアク監獄です。

現在では博物館として公開されています。監獄がそのまま残っており、中に入ると、当時の恐ろしい光景が目に浮かんできます。ドイツによるワルシャワ占領当初から夜な夜なパヴィアク監獄から銃声が聞こえてきたと言われています。

ワルシャワ市民もパヴィアク監獄で何か恐ろしいことが行われていることは察していたのでしょう。

イントロダクション

パヴィアク監獄(パヴィアク刑務所博物館)
Pawiak Prison museum


住所:Dzielna 24/26 00-162 Warszawa,Poland
入場料:20ゾロチ

ヨーロッパ各地に散らばるポーランド

決してナチスに迎合しなかったポーランド

前記事、「【第107回】中学生の時、学校で初めてポーランドのことを知る-その2 」では、中学生の時、歴史のマンガシリーズでこの時代に興味を持ったと書きました。

このマンガではドイツに占領されたフランスのパリの市民がレジスタンスとなり、下水道などを使いドイツ占領軍を翻弄して、ゲリラ戦に挑む描写が描かれていました。

以前のフランス取材の記事でも書きましたが、実際には当時のフランスは、対独協力(コラボラシオン)といって、レジスタンス勢力も積極的な行動に出るのは稀で、大半のフランス人は消極的ながらもドイツの占領政策を受け入れていました。

しかし、ポーランドの場合、表向き、占領は受け入れながらもナチスドイツに迎合するという勢力は皆無でした。彼らは地下組織を作り、ナチスドイツに対して密かに抵抗していたのです。

ワルシャワ蜂起で武器を手に取るポーランド国内軍の兵士たちワルシャワ蜂起で武器を手に取るポーランド国内軍の兵士たち

後に紹介するワルシャワ蜂起で下水道を通り、ドイツ軍と戦う市民こそ、ワルシャワ市民だったのです。

ナチスドイツ、占領下のフランスにつきましては、下記の記事も参照ください。
【第75回】2つの政権に分かれていた第二次世界大戦中のフランス
【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その1
【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その2

イギリスへ亡命して存続する政府、軍

ポーランドが降伏したからといって、ポーランドが完全に消滅したわけではなかったのです。

ナチスドイツに侵略された西欧諸国のように、ポーランド政府はイギリスに亡命して、戦いを継続していました。また、敗走しながらも国外へ脱出することに成功したポーランド軍の将兵たちも、亡命政府の元に集まります。

彼らはポーランド国内の地下組織と連絡を取り合い、ナチスドイツへの反撃を着々と進めていきました。

ポーランド軍の将兵たちは、連合軍に合流。ドイツ軍と戦います。

特に1940年のイギリス本土防衛に成功したバトルオブブリテン、1944年のイタリアのモンテ・カッシーノの戦いでのポーランド軍の将兵の活躍は目覚ましいものでした。

クラシィンスキ公園にある、モンテ・カッシーノの戦いを率いたアンデルス将軍の肖像レリーフクラシィンスキ公園にある、モンテ・カッシーノの戦いを率いたアンデルス将軍の肖像レリーフ

アンデルス将軍のレリーフの前にある、モンテ・カッシーノ戦闘記念碑アンデルス将軍のレリーフの前にある、モンテ・カッシーノ戦闘記念碑

モンテ・カッシーノの戦いについては、「【第52回】1944年、大激戦で廃墟になったモンテ・カッシーノ修道院」の記事もご参照ください。

ソ連に支配されたポーランド人政府とカチンの森事件

1941年に独ソ戦が勃発して、ドイツとソ連が敵対関係になると、ソ連側でも共産主義系のポーランド政府が誕生させようという試みが出てきます。

ソ連の目論見は戦後、息のかかったポーランド人国家を樹立させたかったからです。

そしてワルシャワ蜂起直前の1944年7月、ウクライナとの国境に近いポーランドのルブリンで「ルブリン政府」と言われるソ連に支配されたポーランド人の政府が樹立されました。

第二次世界大戦中、ナチスドイツ占領下のポーランドには、2つの政府が存在したことになります。

ルブリンの街にあるルブリン城(2009年訪問)ルブリンの街にあるルブリン城(2009年訪問)

ルブリン郊外にはマイダネク強制収容所跡(2009年訪問)ルブリン郊外にはマイダネク強制収容所跡(2009年訪問)

亡命政府とソ連が国交断交、カチンの森事件

ソ連が連合軍に加わり、東西からナチスドイツに反撃する機運が生まれていた、1943年4月13日、ナチスドイツから発表されたニュースに世界が衝撃を受けます。

当時、ドイツが占領していて、現在はベラルーシとの国境に近いロシア西部のカチンの森林地帯で、ポーランド将校ら2万体以上の銃殺された遺体を発見したと伝えたのです。

ドイツ側は、これをプロパガンダに利用して、ソ連の蛮行を非難して、米英とソ連にくさびを打ち込み、連合国の内部崩壊のきっかけにしようとします。

ソ連側は、ドイツ側による自作自演と反論して、カチンでの虐殺を否定続けます。

ソ連軍侵攻のモニュメントにはカチンの名も刻まれているソ連軍侵攻のモニュメントにはカチンの名も刻まれている

このソ連による虐殺の真相の証拠が明るみになるのは、ソ連が崩壊する1990年まで待たなくてはなりませんでした。

当然、イギリスに亡命しているポーランド政府は、ソ連に調査を依頼しますが拒否されてしまい、外交を断絶させてしまいます。

また、アメリカ、イギリス側も同じ連合軍であるソ連には強く出られない事情がありました。

当時、米英側はせいぜいドイツ国内を空から爆撃するくらいで、ナチスドイツが支配するヨーロッパ大陸で反攻作戦を展開することができませんでした。ヨーロッパ大陸でドイツ軍の軍事力の脅威を受けていたのはソ連軍でした。

カチンの報道が出る2ヵ月前にもスターリングラードの戦いで大きな犠牲を払いながらも勝利して、連合軍が優勢となる転機を作ってくれたソ連に対して機嫌を損ねるようなことはしたくなかったのです。

スターリン(ソ)、ルーズベルト(米)、チャーチル(英)スターリン(ソ)、ルーズベルト(米)、チャーチル(英)。
ポーランドの運命は彼ら大国の首脳が握っていた

これは戦争末期に起こるワルシャワ蜂起、戦後のポーランドに大きく影響することになります。

2010年、カチンの森 70周年の悲劇

カチンでポーランド将校たちが虐殺されたとされる1940年から70年経った2010年4月、ロシアのウラジーミル・プーチン首相(本記事執筆中の2024年7月現在も現職)が、戦後初めてカチンにポーランド首脳を招いて、カチンの森追悼式典が営まれました。

その背景には、反ロシア感情が強い、ポーランドをはじめとした東欧諸国、バルト三国との関係回復の意図があったと言われています。

その際、出席しようとしたレフ・カチンスキ大統領ら政府高官を乗せた専用機が、ロシアのスモレンスク付近で墜落。大統領夫妻をはじめ多数の犠牲者出すなど、大惨事となってしまいました。

観光客で賑わうクラクフ郊外通りの大統領官邸前にある、事件の碑観光客で賑わうクラクフ郊外通りの大統領官邸前にある、事件の碑

カチンスキ大統領はカチンの森事件に対して、ソ連の犯行を厳しく批判していて、当初式典への出席も拒否していました。

事故の原因は、悪天候の中、パイロットが強硬着陸をしようとしたことと言われています。しかし、ロシアの陰謀論が囁かれてもおかしくはありません。

本記事執筆中の2024年7月現在もロシアとウクライナの紛争は続いています。その背景には、ロシアのプーチン首相は旧ソ連だったウクライナを、ロシア寄りの緩衝地帯として確保したいという思惑があります。

ウクライナ紛争が始まる10年以上前のカチンの森追悼式典の開催意図も含めて、プーチン、そしてロシアの東欧、旧ソ連諸国に対する野望というのは根強いものだと感じます。

筆者もいずれカチンの森を訪問してみたいと思っています。

<【第107回】人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた-その1
<【第107回】中学生の時、学校で初めてポーランドのことを知る-その2
<【第107回】戦うポーランド!20年で再び地図から消えるポーランド-その3
【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4
>【第107回】戦うポーランド!再び世界から見捨てられるポーランド-その5
>【第107回】戦うポーランド!1944年8月1日午後5時-その6
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワの旧市街地区での戦い-その7
>【第107回】戦うポーランド!蜂起軍が駆使していた地獄の地下道-その8
>【第107回】戦うポーランド!国内軍の支配地域を分断させていた難攻不落の駅-その9
>【第107回】戦うポーランド!熾烈を極めたワルシャワ中心部での戦い-その10
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 前編-その11
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 後編-その12
>【第107回】戦うポーランド!ソ連の支配地域だったヴィスワ川の対岸プラガ地区-その13
>【第107回】戦うポーランド!ポーランドはナチスに簡単に屈したわけじゃなかった-その14

【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第101回~)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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