40万人の勢力に膨れ上がった、ポーランドの地下組織、国内軍
ナチスドイツに支配されたポーランドでは、密かに抵抗組織の国内軍(ポーランド語:Arimia Krajowa 略AK)が組織され、1944年頃には40万人ほどまでに膨れ上がります。
指揮系統はイギリスに亡命した政府、軍の元にありました。イギリスから密かにポーランドに潜入した使者を通じて情報を共有して、空輸で補給を受けることもありました。
国内軍の主な活動は、諜報活動、ドイツ軍へのテロ行為、ドイツ軍の輸送網を破壊するなど戦線への補給を妨害する行為です。
以前に読んだ、当時、国内軍に関わっていた人の回想で、血気盛んな若者による、ドイツ軍、親衛隊の高官へのテロ行為は大規模な報復を招きやすいので、サボタージュで抵抗するように諭していたとありました。
サボタージュと輸送を妨害するレジスタンス
サボタージュとは、工場作業を時々休んだり、わざとミスして部品を抜いたりして、仕事を停滞させるなどして経営側に損失を与えることです。語源はフランス語ですが、現在日本でも「サボり」という使われ方をしています。起源はサボタージュにあるのです。
当時の若い子たちは、禁止されていたポーランド語を密かに勉強したり、現在のポーランド人の若者より必死に勉強、働いていた(抵抗組織として)と回想していたのが印象的でした。
フランスのレジスタンスもそうですが、彼らはドイツ軍の軍事力に直接立ち向かうのではなく、主にドイツ軍の輸送手段である、鉄道網を破壊したり、鉄道を脱線させたりすることで抵抗していました。
フランスの場合、それがノルマンディー上陸作戦の時に効果を発揮させて、ドイツ軍の移動、補給物資の輸送を連合軍が上陸してくるノルマンディー海岸に向かうのを遅延させることにつながりました。
ポーランドでも事情は同じです。独ソ戦開始以降、ドイツ本国とソ連の間にあった、ポーランドの地理的要素もあって、ドイツ軍の輸送物資を遅らせることに貢献します。
戦争では、軍事力、国力と共に補給、輸送、管理という3つの要素からなる「兵站」(ロジスティクス)という概念も非常に重要になります。
ドイツ軍が東西線戦で総崩れ
ポーランドのレジスタンス組織、国内軍はドイツ軍が弱体化したところを大規模に反撃できるチャンスを待ち望みます。そしてその時はやってきました。
ナチスドイツに支配された1939年9月から約5年、1944年夏、東西線戦と共にドイツ軍は後退して総崩れとなる様相を呈していました。
西部戦線では、1944年6月、ノルマンディー上陸作戦の大成功によって、ドイツ軍の抵抗に遭いながらも連合軍がパリのすぐそばまで迫っていました。ドイツに消極的ながらもその支配を受け入れていたフランス国民も、それに呼応するかのように立ち上がり始めます。
東部戦線では、独ソ戦が始まった国境線付近までソ連軍が盛り返します。そして、独ソ戦が始まってからちょうど3年後の1944年6月22日、ソ連はドイツ軍を圧倒する戦力で、バグラチオン作戦を発動。ドイツ軍にとどめを刺す攻撃を開始させたのです。
また、ワルシャワ蜂起が起こる10日前には、国防軍がクーデターを起こしたヒトラー暗殺未遂事件が起こります。ドイツ内部でも崩壊の兆しがあったのは、世界の目から見ても明らかでした。あと一撃を加えて、ドイツ軍を追い込もうとする心理的圧力が増します。
現在ではポーランド領となっているヒトラー暗殺未遂事件については、こちらの記事を参照ください。
【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その4
【第105回】ヒトラーが独ソ戦を指揮した前線基地、ヴォルフスシャンツェ-その5
ドイツ軍後退の状況は、逐一入手していたポーランド国内軍にも希望を大きく膨らませました。
亡命政府、ソ連、連合軍との思惑の違いが浮き彫り
ポーランド国内軍は正規軍ではありません。正規の軍隊と比較すれば、素人の寄せ集め集団にしかすぎないし、弾薬や武器も充分に行き届いてはいませんでした。そのため、ドイツ軍が劣勢になり始めたとはいえ、正規の軍隊を相手にするには、連合軍のサポートが不可欠でした。
具体的には、ワルシャワに東から迫っているソ連軍の軍事力の後押しと、ポーランドから遠く離れたイギリスからは米英軍による空輸の補給です。
そのため、イギリスに亡命しているポーランド政府は、米英ソの連合軍に援助を掛け合いますが、米英側、ソ連側からも色よい返事がもらえませんでした。
そこには進行中の戦争の推移、戦後の政治体制への各国の思惑があったのです。
カチンの森事件以降、亡命政府とソ連の外交関係は断絶していましたが、亡命政府の首相であるスタニスワフ・ミコワイチクは、ポーランド解放に向けてソ連との妥協も必要という考えでした。米英の協力があれば、ソ連とも交渉が可能と考えたミコワイチクは、モスクワに行きスターリンとの直接交渉をすることに合意できました。
しかし、スターリンは、戦後、ソ連が支配する共産主義系のルブリン政府をポーランドの傀儡政権として樹立する野望があったため、亡命政府との交渉には熱心ではありませんでした。
一方、イギリス、アメリカもポーランド国内の蜂起の支援に関しては懐疑的でした。
ポーランドは米英が主導する戦線から地理的に離れており、イギリス本土から空輸、ドイツ軍陣地を爆撃するのも非常に困難な状況でした。亡命政府と国内軍を結ぶ使者は、イタリアの連合軍支配地域から時々空輸していましたが、その間には、ドイツ軍の支配地域が大半を占めていたので、撃墜される可能性も非常に高かったのです。
空輸作戦を実施した場合、イギリス本土にしろ、イタリアにしろ西部戦線の連合軍陣地を往復する危険を冒すより、そのまま東部戦線のソ連軍陣地に着陸したほうが撃墜される可能性も低くなるし、作戦自体も遂行しやすくなります。しかし、スターリンはソ連の空港の提供を許可しませんでした。
アメリカのルーズベルト大統領もイギリスのチャーチル首相も、大戦を通じてドイツ軍の軍事力の脅威を長年受けて、形勢を逆転させてくれたソ連に対して強くは出られませんでした。
ポーランドは、1939年に続き、再び世界から見放されてしまったのです。
しかし、スターリングラード、ノルマンディー、ヒトラー暗殺未遂事件・・・
東西線戦で連合軍の目覚ましい反撃、ナチスの内部崩壊を目のあたりにしたポーランド国民はもう待ちきれませんでした。
まだ、ミコワイチク首相がモスクワでのらりくらりとかわすスターリンと交渉している最中に立ち上がってしまうのです。
1944年8月1日。
それは、現在、閑静な住宅街の一角から始まったのです。
<【第107回】人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた-その1
<【第107回】中学生の時、学校で初めてポーランドのことを知る-その2
<【第107回】戦うポーランド!20年で再び地図から消えるポーランド-その3
<【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4
【第107回】戦うポーランド!再び世界から見捨てられるポーランド-その5
>【第107回】戦うポーランド!1944年8月1日午後5時-その6
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワの旧市街地区での戦い-その7
>【第107回】戦うポーランド!蜂起軍が駆使していた地獄の地下道-その8
>【第107回】戦うポーランド!国内軍の支配地域を分断させていた難攻不落の駅-その9
>【第107回】戦うポーランド!熾烈を極めたワルシャワ中心部での戦い-その10
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 前編-その11
>【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 後編-その12
>【第107回】戦うポーランド!ソ連の支配地域だったヴィスワ川の対岸プラガ地区-その13
>【第107回】戦うポーランド!ポーランドはナチスに簡単に屈したわけじゃなかった-その14