ヴィスワ川沿い、チャルニャクフ地区最後の拠点
ヴィスワ川沿いをそのまま南下して、イェロゾリムスキ大通りを越えると、ソレツ通りになります。
この一帯はチャルニャクフ地区で、かつては工場労働者が住む地域でした。
ヴィスワ川に近く、国内軍、ドイツ軍にとっても戦略的に重要な地域だったため、ワルシャワ開始1ヶ月後の1944年9月から、この一帯での戦闘が激しくなりました。
ソレツ通りを少し進むと、ヴィラノフスカ通りと直角に出会います。その角の緑地に十字架をバックに、戦うポーランドのPWの碑があります。
この一帯は、この地区で国内軍の最後の抵抗拠点となった場所です。9月半ばからチャルニャクフ地区の戦闘は激しくなり、ヴィラノフスカ通りの緑地の碑の隣にある5階建ての建物に国内軍は最後まで立てこもりました。ドイツ軍の激しい砲撃の中、近隣の住民にも多数の犠牲者を出しつつも抵抗します。
指揮官は最後まで降伏勧告を拒否しますが、9月下旬にはドイツ軍に完全に制圧されてしまいました。現在、国内軍が最後まで立てこもった建物は市民が住むアパートでその壁には、ワルシャワ蜂起の少年兵や兵士のストリートアートが描かれています。
反対側の建物にもプレートが埋め込まれています。
「53日間に渡るドイツの占領者との英雄的な戦いの末に終わった。」
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【ワルシャワ蜂起の痕跡を巡る➉】住宅街になっているヴィスワ川沿いの激戦地(@YouTube) |
ヴィスワ川渡河作戦
戦前、ヴィスワ川には、ワルシャワ市内とプラガ地区を結ぶ橋が4つありました。
ワルシャワ蜂起直前の1944年7月末日頃、プラガ地区郊外までソ連軍は進撃してきました。その後、ソ連軍はプラガ地区を支配下にしたものの、ヴィスワ川を挟んだ向かい側のワルシャワには進まず、進撃をストップします。蜂起後も進むことはなく、ポーランドへの援軍も出しませんでした。
そしている間に、9月13日、ドイツ軍は、全ての橋を爆破します。
プラガ地区のソ連側にいる連絡役の兵士が、幾度となくワルシャワの国内軍と連絡を取ろうと、闇夜に隠れて小型のボート、もしくは泳いでワルシャワへ渡ろうとしました。しかし、ワルシャワ側へ到達できたのはごくわずかで、その多くがドイツ軍の砲撃で消えていったそうです。
ソレツ通りをさらに南下して歩いていくと、広い緑地に6本の柱が立ち、その中に身をかがめる兵士の像があります。ドイツ軍が橋を爆破した際、しかけた地雷をワルシャワ解放時に撤去した工兵を称えるモニュメントです。
そのモニュメントからヴィスワ川に向かい、地下道をくぐると、ヴィスワ川渡河作戦に参加した兵士たちを描いたレリーフがあります。女性兵士もいてどの兵士も苦しそうな表情なのが印象的です。
地上に上がると、正方形の平たいレリーフがあります。
9月16日から3夜続けて、ヴィスワ川渡河作戦に参加したポーランド軍兵士がこの場所に上陸しましたが、ワルシャワの国内軍との連携がうまくいかず失敗に終わりました。このレリーフは、その事が書かれています。
「ソ連軍の火砲と空軍の支援の下、ヴィスワ川を渡航した後、ナチスドイツと戦い、勇敢な最期を遂げた。」
ソ連軍の後方支援を強調していて、ソ連のプロパガンダ色が強いレリーフと言われています。
破壊された瓦礫で作ったワルシャワ蜂起の丘
ソレツ通りをヴィスワ川沿いに更に南下すると、チェルニャコフスカ通りと名前が変わります。この辺りまで行くと、ドイツ占領軍の司令部が置かれたワジェンキ公園が右側に見えてきます。そして、チェルニャコフスカ通りをそのまま進むと、バルティツカ通り(向かって左側)と交差する交差点に着きます。ここでチェルニャコフスカ通りからノヴォシェレツカ通りへと名前がかわり、その角にある建物はナザレ修道院です。
このナザレ修道院は、1939年9月のワルシャワ防衛戦では、ポーランド軍の出撃拠点となり、負傷した避難民の避難所にもなっていました。ワルシャワ蜂起開始時にはドイツ軍に占拠されており、8月26日から27日かけて国内軍が攻撃を開始、一時は制圧しますが、再びドイツ軍に奪い返されます。
また、ナザレ修道院の目の前には地下水道への出入り口となるマンホールもありました。
そのナザレ修道院からバルティツカ通りを進んでいくと、左手にアウトレットのお店が見えてきます。その右側は丘になっており、その前には石が積まれています。この石はワルシャワ蜂起で破壊された建物の瓦礫です。
そしてこの丘は「ワルシャワ蜂起の丘」と呼ばれて、ワルシャワ蜂起で出た瓦礫で作った人工的な丘なのです。
石段を登り頂上まで行くと、戦うポーランドを表したPWの錨のモニュメントがあります。
頂上は見晴らしがよく、ワルシャワの街を見渡すことができます。ランニングや散歩している市民の姿もあり、その光景をみるとここが戦争で破壊された土で盛られた丘だとは想像がつきません。
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【ワルシャワ蜂起の痕跡を巡る⑪】住宅ナチス統治下の残骸で作った、ワルシャワ蜂起の丘(@YouTube) |
次回の記事ではヴィスワ川を渡って、ワルシャワ蜂起時にソ連軍が駐留していたプラガ地区を紹介します。
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