ワルシャワ市内で分断されていた、蜂起軍の支配地域
1944年8月1日午後5時、ついに市内各地で始まったワルシャワ蜂起。
それまで前年のゲットー蜂起を除いて、反乱らしい反乱を起こさず大人しく暮らしていた市民が国内軍の兵士として、ドイツ軍に襲い掛かります。
下記の写真は、ワルシャワ蜂起時の国内軍の支配地域を示す地図です。赤で囲った地域が国内軍の支配地域となります。蜂起の推移によって国内軍の支配地域は減少していきますが、最大勢力を誇っていた時のものです。川を挟んだ右側がプラガ地区で、ソ連軍が進出して来ていた地域となります。
この地図の通り、主に3ヵ所が国内軍の支配地域でした。
一つ目が北側のジョリボシュ地区(ZOLIBRZ)。二つ目は本記事で主に紹介する中央部の旧市街や現在のワルシャワ駅があるシルドミェシチェ地区(SRODMIESCIE)。そして三つ目が南部のモコトゥフ地区(MOKOTOW)です。
元々、亡命政府と国内軍は、ワルシャワ限定ではなく、ポーランド全域での蜂起を計画していました。そして、そのための武器や物資を郊外に貯蔵していたため、ワルシャワ蜂起直後は武器、弾薬はもちろん、食料、衣料品なども絶対的な不足状態でした。
当初は1週間ほど持ちこたえて、ブラガ地区からソ連軍の援軍に期待していましたが、それは叶わず、2か月以上の長期間という戦いになってしまいました。
旧市街広場近くの激戦地となった教会と大聖堂
日本のガイドブックにもワルシャワを紹介する説明には、戦後、跡形もなく破壊された旧市街広場の建物をひび割れなども含めて、元通りに復元したことが記されています。
また、旧市街広場の先にあるワルシャワ蜂起記念碑は、旧市街広場と共にワルシャワ観光の定番スポットとなっています。
400-500メートルほどの距離ですが、王宮広場から旧市街広場に向かう小道が2つあり、そのどちらの小道の途中に教会と大聖堂がありますが、そこもワルシャワ蜂起の戦いでは激戦が広がられました。
「破壊されたものを再建することは未来の世代の責任である」
瓦礫の中から出てきたキリストの磔刑像がある聖マルチン教会
王宮広場から旧市街へ向かう左側の小道(ピヴナ通り)の左側に聖マルチン教会があります。
14世紀に建てられた古い教会で、ワルシャワ蜂起では旧市街の激戦地の一つとなりました。
蜂起4日目からドイツ軍の激しい猛攻が続き、その20日後についに占領されてしまいますが、国内軍が一時的に奪還して一進一退の攻防が続きました。しかし、28日には空爆で完全に破壊されてしまいます(戦後、1950年代に再建)。
戦後、瓦礫の中から破損されたキリストの磔刑像が発見され、教会内に飾られます。筆者が訪問した時は、教会はクローズしていましたが、それが飾られているのは入り口から見ることができました。
一つの建物を巡り、この小道で3週間もの間、戦闘が繰り広げられていたことは、石造りの建物でできているヨーロッパの都市での市外戦の難しさを物語っています。
ドイツ軍の小型戦車が突っ込んだ聖ヤン大聖堂
王宮広場から右側の小道、シフィェントヤィンスカ通りの右側には、聖ヤン大聖堂があります。
聖マルチン教会同様、14世紀に建てられた大聖堂で、ワルシャワ蜂起の際、旧市街の重要な国内軍の防衛拠点になりました。
聖ヤン大聖堂の地下室には、大勢の市民が避難していました。砲撃が続いても礼拝は続けられた大聖堂ですが、ドイツ軍は遠隔操作で爆薬を満載した小型戦車を国内軍のバリケードを強行突破させて突入させます。そして、ついに国内軍は撤退を余儀なくされました。
聖ヤン大聖堂の右側には戦車のキャタピラのレリーフが埋められています。
旧市街最後のバリケードが置かれた通り
さらに聖ヤン大聖堂があるシフィェントヤィンスカ通りの隣のカノニャ通りは、旧市街戦で最後もバリケードが置かれた場所です。
聖マルチン教会のピヴナ通り、聖ヤン大聖堂のシフィェントヤィンスカ通りでも国内軍によるバリケードが次々と建設され、ドイツ軍の攻撃を一時的に止めることができました。しかし、物量に勝る精鋭部隊のドイツ軍は8月19日には聖マルチン教会の通り、8月26日には聖ヤン大聖堂のバリケードが突破され、9月1日には旧市街最後のカノニャ通りのバリケードも突破されてしまいます。
広場の一角の建物壁にそのことを示すプレートがあります。
次回の記事は、旧市街から少し北に歩き、ガイドブックにも必ず掲載されるワルシャワ蜂起記念碑方面に向かいたいと思います。
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