ワルシャワを南北に流れる大河、ヴィスワ川
ワルシャワの街の伝説に、「人魚伝説」があります。
人魚の姉妹がヴィスワ川を泳いで、ワルシャワに漂着して、旧市街の付近に住み着きました。人魚を捕まえて金儲けしようとする商人から住人が守り、人魚は感謝してワルシャワの街を守ることを約束したと、言われている伝説です。
ヴィスワ川を挟んだ対岸は労働者街のプラガ地区となっています。1939年ドイツ軍侵攻ではドイツ軍、1944年のワルシャワ蜂起時にはソ連軍がプラガ地区まで進撃してきて、ヴィスワ川を前にストップしていました。
ポーランドの大河でもあるヴィスワ川については、「【第104回】第二次世界大戦で最初に投弾された橋、トチェフ鉄橋」編でも紹介しています。ご参照ください。
本記事ではワルシャワ側のヴィスワ川沿いから、ワルシャワ蜂起の痕跡を紹介します。
なお、今回のワルシャワ取材中は、ヴィスワ川沿いのホテルに宿泊しました。地下鉄、トラムの駅が近くにあり、対岸のプラガ地区に行くのにも便利なロケーションだったのが理由です。
ワルシャワ到着初日に撮影したホテル周辺の動画です。
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【ワルシャワ蜂起の痕跡を巡る①】2024年、2度目のポーランド、1944年ワルシャワ蜂起の戦跡を巡ります!(@YouTube) |
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旧市街を守る要塞だったポーランドの紙幣を発行していた工場
旧市街の北のヴィスワ川沿い(サングシュコ通り)にポーランドの国立造幣工場(通称PWPW)があります。この建物は、ワルシャワ蜂起開始後の1944年8月2日に国内軍が占拠して、それから約1ヶ月間、ドイツ軍の手に落ちるまで旧市街を防衛する重要な要塞拠点となりました。
第一次世界大戦後、ポーランドが独立した時から、この建物で紙幣を刷りはじめ、1939年からのナチスドイツの占領下では、占領下で使用する紙幣、身分証明書、食料配給券など重要な文書が印刷されるようになります。しかし、現場の職員はポーランド人だったので、表向きはドイツに協力しつつも、国内軍の文書も密かに印刷する地下活動を行っていました。ワルシャワ蜂起開始直後に国内軍が占拠することができたのも、内部で地下活動をしていた職員と呼応できたからでした。
スマホのクレジットカードタッチ決済が普及しているポーランド
現在でもポーランドの通貨、ゾロチを印刷している国立造幣工場の建物では、歴代紙幣の看板を目にすることもできます。ポーランドは2024年夏現在、EUに加盟していますが、通貨はユーロを導入していません。筆者は海外へ渡航する際は、日本国内で現地通貨を予め少し用意するのですが、ポーランドではほとんど現金を使用することはありませんでした。
理由は、ほぼスマホによるクレジットカードのタッチ決済が可能だったからです。日本ではクレジットカードのタッチ決済も徐々に増えているとはいえ、飲食店をはじめまだまだ現金払い対応のみの店も多いです。しかし、ポーランドではクレジットカードやスマホ決済の普及率が日本よりも進んでいます。筆者が初めてポーランドを訪れた2001年の時のガイドブックには、ポーランドではクレジットカード決済は、中級以上のホテル、レストラン以外では使用できないと記されていました。それが20年以上たった2024年では、日本以上の普及率のおかげで、どこでもほぼクレジットカード決済、スマホのタッチ決済が可能なのです。
当時のポーランドの安かった物価が日本と同じかそれ以上になっていること、クレジットカードのスマホ決済がここまで普及していることに、筆者はポーランドの発展と日本の停滞を感じられずにはいられませんでした。
国内軍に電気を供給し続けた発電所
国立造幣工場からヴィスワ川を歩き、地下鉄2号線、Centrum Nauki Kopernik駅まで行きます。ここは、ヴィスワ川を渡りプラガ地区へ行けるシフィェントクシスキ橋があり、その手前には上述の人魚の像があります。この一帯はポヴィシレ地区と言われて、昔からワルシャワ地区の生活資源の供給地となり、工場建設が進みワルシャワでも人口が集中する地域となりました。
この人魚の像は、1939年6月、ドイツ軍のポーランド侵攻の3ヶ月前に完成して、除幕式にはワルシャワ攻防戦では先陣を切って戦ったスタジィンスキ市長も出席しました。1944年のワルシャワ蜂起ではこの人魚像は破壊されることなく残り、首都の守り神として、市民から敬愛を受けています。
人魚像の前にあるタムカ通り近くにもワルシャワ蜂起で重要な戦略拠点となった発電所があります。地下鉄2号線、Centrum Nauki Kopernik駅からタムカ通りを歩き、最初の右の角の通り(エレクトルィチュナ通り)にあります。現在、発電所跡はショッピングモールとして利用されています。
1904年創業の発電所は、ナチスドイツ占領中はドイツが管理していましたが、国立造幣工場同様、発電所で働いているポーランド職員たちが、地下活動を行っていました。彼らは蜂起発生時には、自身の手での発電所の奪取計画を持っていました。
ドイツ側も発電所は戦略の重要拠点として、守備隊を動員して防衛体制を強化していました。それはこの発電所がワルシャワ市内で唯一の発電所だったからです。
1944年8月1日、ワルシャワ蜂起開始同時と共に国内軍は発電所を急襲。ドイツ軍も想像絶する反撃を見せますが、その日のうちにドイツ軍を追い出すことに成功します。それから発電所は蜂起する国内軍に電気を供給し続け、武器、弾薬の工場としても国内軍の生産拠点となりました。
しかし、ドイツ軍も激しい砲撃、空爆で反撃してきて、9月に入ると国内軍は発電所から撤退、発電所は陥落してしまったのでした。
タムカ通りの建物の前には彼らの英雄的な戦いを記したプレートがあります。
「敵の優位にも関わらず、9月7日まで戦う首都に電力を供給し続けた。」
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