【第107回】戦うポーランド!ソ連の支配地域だったヴィスワ川の対岸プラガ地区-その13|トピックスファロー

  • フリーのライターを募集しています
2024年9月10日
【第107回】戦うポーランド!ソ連の支配地域だったヴィスワ川の対岸プラガ地区-その13

西側に位置するワルシャワ中心部のヴィスワ川の対岸は、プラガ地区といって、ワルシャワを訪問する観光客もあまり訪れない場所です。ワルシャワ蜂起の鍵を握るソ連軍がプラガ地区まで侵攻してきましたが、ヴィスワ川を渡るとこはありませんでした。

戦争遺跡ライター
ヒロマルのfacebookアイコン
  

戦災を免れ、古き街並みが残るプラガ地区

ワルシャワの中心部からヴィスワ川を渡って、対岸の東側はプラガ地区になります。18世紀の末、ワルシャワに編入され、20世紀に発展して、労働者階級が多く住む地域となりました。ワルシャワ蜂起時にはソ連軍が駐留していたこともあって、徹底的に破壊されたワルシャワ中心部と比べて、建物の破壊は20パーセント以下といわれ、古い町並みが残っています。

右側がプラガ地区、左側の紫部分が国内軍の支配地域右側がプラガ地区、左側の紫部分が国内軍の支配地域

近年では若いアーティストから注目され、裏路地や古い建物を活用してギャラリーなどに活用されたりしています。

また、「【第107回】人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた-その1 」でも紹介した、ウクライナのキーウに向かう列車が出るワルシャワ東駅もプラガ地区になります。

当時、ソ連軍はワルシャワ蜂起開始の直前にプラガ地区の郊外に達していました。そして、1944年9月の半ばにプラガ地区へ総攻撃を仕掛けて、数日で制圧します。そこからワルシャワの西岸で戦っている国内軍に加勢するのかと思いきや、そこでソ連軍は進撃をストップしてしまいます。それがワルシャワ蜂起の結果に大きく影響することになったのです。

ヴィスワ川を渡って、そんなプラガ地区に足を踏み入れたいと思います。

プラガ地区の南側、国立競技場とスカルィシェフスキ公園

筆者は、プラガ地区へ行くために、イェロゾリムスキェ通りとプラガ地区をつなぐ、ワルシャワ蜂起時からあったポニャトフスキ橋を徒歩で渡りました。

前方はワルシャワ中心部、後方がプラガ地区前方はワルシャワ中心部、後方がプラガ地区

左側には鉄道橋も見える左側には鉄道橋も見える

そしてプラガ地区へ渡ると、左手には2011年に完成したワルシャワ国立競技場が見えてきます。開閉式のサッカー専用スタジアムで、度々サッカーの代表戦の国際大会も開催されています。筆者が2009年に初めてワルシャワを訪れた時、列車から工事中だった光景を見た記憶があります。かつてはこの競技場跡には7万人収容のスタジアムがあり、社会主義時代には盛大な行事が開催されたようです。

ワルシャワ国立競技場の隣には、スカルィシェフスキ公園があります。

「【第107回】人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた-その1 https://topicsfaro.com/warruins107.html」でも紹介した、9.11、アメリカ同時多発テロの碑は公園の入口の左側にあります。

この公園の一角に連合軍飛行士の記念碑があります。ワルシャワ蜂起中、国内軍を支援するために物資を運んできた輸送機が、この場所で撃墜され6人のパイロットが亡くなりました。その碑が湖の左側の付近にあります。

「1944年8月14日、英空軍の輸送機が撃墜され乗組員がこの場所で非業な死を迎えた。」

この碑の除幕式には当時、イギリス首相だったマーガレット・サッチャーも出席したようです。

公園は、様々なスポーツ施設も存在して市民の憩いの場となっています。

プラガの中心地区

スカルィシェフスキ公園西側の道を進んでいくと、プラガ地区の中心部に着きます。タルゴヴァ通りと合流し、線路の下をくぐると、左側に建物があります。

タルゴヴァ通り15番の要塞の全景タルゴヴァ通り15番の要塞の全景

この建物は「タルゴヴァ通り15番の要塞」と呼ばれていた1928年に建てられました。戦前は高級アパートでしたが、ドイツ軍占領時には、ドイツ軍高官のホテルとなり、ワルシャワ蜂起当時はナチスの保安警察東部警備局となっていました。蜂起当初、国内軍がこの要塞を攻撃しますが、返り討ちにあって奪うことはできませんでした。

プラガ地区のメインストリート、タルゴヴァ通りプラガ地区のメインストリート、タルゴヴァ通り

タルゴヴァ通りと交差して走るゾンプコフスカ通りにはワルシャワ蜂起当時、電話局であった建物があります。蜂起が開始された1944年8月1日、国内軍が一旦奪取に成功しますが、その日の夕方にはドイツ軍に奪い返されてしまいます。その建物には現在、戦うポーランドのマーク「PW」、国内軍の「AK」のマークが記されています。

付近にある古い倉庫街付近にある古い倉庫街

ゾンプコフスカ通りゾンプコフスカ通り

ヴィスワ川沿いの幹線道路には、大きく左手を伸ばしている巨大なポーランド人の像があります。これはヴィスワ川渡河作戦に参加して、国内軍が戦っている対岸に援助の手を差し伸べる姿です。

この像が完成したのが1980年代半ばのソ連が崩壊する前でした。ソ連軍によるヴィスワ川渡河作戦を美化するためのプロパガンダの要素が強いと皮肉を言われているようです。

しかし、筆者がこの像を見たとき、像のわびしい表情と左手を前に出す姿は、対岸の国内軍を支援することができなかった無念さではないかと感じました。

プラガ地区を制圧したソ連軍はヴィスワ川を渡ることはありませんでした。それはワルシャワ蜂起の結末を意味していました。

次の記事が戦うポーランドシリーズの最後の記事となります。

プラガ地区から見たヴィスワ川プラガ地区から見たヴィスワ川

<【第107回】人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた-その1
<【第107回】中学生の時、学校で初めてポーランドのことを知る-その2
<【第107回】戦うポーランド!20年で再び地図から消えるポーランド-その3
<【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4
<【第107回】戦うポーランド!再び世界から見捨てられるポーランド-その5
<【第107回】戦うポーランド!1944年8月1日午後5時-その6
<【第107回】戦うポーランド!ワルシャワの旧市街地区での戦い-その7
<【第107回】戦うポーランド!蜂起軍が駆使していた地獄の地下道-その8
<【第107回】戦うポーランド!国内軍の支配地域を分断させていた難攻不落の駅-その9
<【第107回】戦うポーランド!熾烈を極めたワルシャワ中心部での戦い-その10
<【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 前編-その11
<【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 後編-その12
【第107回】戦うポーランド!ソ連の支配地域だったヴィスワ川の対岸プラガ地区-その13
>【第107回】戦うポーランド!ポーランドはナチスに簡単に屈したわけじゃなかった-その14

【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第101回~)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
アイコン
ヒロマルのfacebookアイコン
1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

▼ご依頼、ご質問はこちらのメールまたはツイッターから
hiromaru_sakai@yahoo.co.jp
https://mobile.twitter.com/HIRO_warruins