満州事変の引き金となった柳条湖事件(りゅうじょうこじけん)
父親、張作霖(ちょう さくりん)を日本の関東軍によって、暗殺された張学良(ちょう がくりょう)は蒋介石(しょう かいせき)の国民政府と合流して、中国は統一されます。
張作霖暗殺事件については、「旧満州国の痕跡を歴史背景と一緒に追いかける旅 その1」をご参照ください。
張学良は排日政策を繰り返し、満州の日本人は危機感を募らせます。関東軍に決起を促す動きもありました。それに後押しされ、関東軍も満州での武力行使を密かに決意します。
満鉄が経営していた旧ヤマトホテル、張学良も宿泊
エントランスの階段を上った2階の右側の一番目の部屋
そんな中、中国側と日本側でいくつかの事件が起こります。そのなかでも有名なのが、以下の2つの事件です。
- ・万宝山事件(まんぽうざんじけん)
当時、日本領だった朝鮮から吉林省へ移住してきた農民と中国の農民の争い。
- ・中村大尉殺害事件
日本陸軍の中村震太郎大尉が、満州を視察中に中国側に暗殺された事件。
関東軍は、これらの中国人による日本側に対する事件が増えていることを口実に、武力行使で満州を制圧しようと考えます。張作霖を暗殺事件から3年後、再び奉天(現在の瀋陽(しんよう))の線路上で行動に出ます。
1931年9月18日、奉天郊外の柳条湖付近の南満州鉄道の線路を関東軍が爆破します。それを中国人の仕業にして、関東軍が満州で決起するという計画でした。
そして計画通り、満州各地で関東軍が武力行使を行います。第二次世界大戦の終戦まで続く日本軍の中国大陸侵略の幕開けでした。
柳条湖事件は、中国側では、「九・一八事件」などといわれ、世界史と日本史、どちらの教科書にも必ず掲載されている事件です。「満州事変」と呼ばれる日本と中国の満州での武力衝突の幕開けとなります。
柳条湖事件が起こった場所は博物館となっている
柳条湖事件が起こった現場は、張作霖暗殺事件が起こった現場にある「皇姑屯事件(こうことん じけん)博物館」からタクシーで15分、料金は25元ほどです。
皇姑屯事件博物館については、「旧満州国の痕跡を歴史背景と一緒に追いかける旅 その1」をご参考ください。
瀋陽駅(旧奉天駅)から見て、張作霖暗殺事件は西側、柳条湖事件は東側の現場になります。
「柳条湖事件」という呼称なので、現場近くに湖があるのかという先入観が、高校生の時に日本史で習って以来ありましたが、湖はありません。
柳条湖というのは付近の地名であって、柳条湖という通りの名前は現場近くに存在します。
柳条湖事件が起こった線路の現場付近には、現在「九・一八歴史博物館」があり、日中戦争の歴史をジオラマなどを使って展示しています。
九・一八歴史博物館の横には、旧南満州鉄道だった線路が通っています。高架と地上に線路が通っていますが、柳条湖事件当時は高架はなく、地上の線路しかありませんでした。
瀋陽では台風接近のため博物館は全てクローズ
筆者が取材した2019年8月13日は、中国東北地方は台風接近のために、瀋陽中の博物館はすべてクローズしていました。各博物館の中を取材する予定だったの残念でしたが、ぜひ読者の皆さんが訪れた際は足を伸ばしてみてください。
皇姑屯事件博物館、九・一八歴史博物館はバスや徒歩だと時間がかかるので瀋陽駅、瀋陽北駅からタクシーで行くことをオススメします。各駅から2つの博物館をタクシーで一周してもトータルで30分、60元(1,000円ほど)です。
張作霖、張学良の自邸だった「張氏帥府博物館(ちょうしすいふ はくぶつかん)」は瀋陽の中心部にあるので地下鉄で行くことをオススメします(最寄り駅は地下鉄2号線、懐遠門駅(かいえんもん えき))。
北京に入城する前の清朝黎明期の王宮
国際社会の承認がないまま建国された満州国
柳条湖事件によって、日本軍の侵略を受けた中国は、国際連盟に提訴します。
日本軍の行動が国際連盟規約、中国の主権と領土を尊重する九ヶ国条約(1922年)、国際的紛争を平和手段で解決する不戦条約(1928年)の国際条約に違反しているというのが根拠でした。
国際連盟は、イギリスのリットン卿を団長とするリットン調査団を結成して、現地へ派遣することを決定します(1932年1月)。リットン調査団は柳条湖事件の現場や、日本、中国の要人と会談して、事件を調査して報告書をまとめていました。
日本はリットン調査団の調査結果が出ないうちに、1932年3月1日、日本の傀儡政府である満州国を建国してしまいます。元首は清朝最後の皇帝だった宣統帝(せんとうてい)の愛新覚羅溥儀(あいしんかくら ふぎ)を執政に担ぎ出します。満州国の首都を新京(現在の長春)に置きます。
満州国の首都だった長春
満州国の首都だった長春には、満州国皇帝に即位した溥儀の宮殿が「偽満皇宮博物館」として一般公開され、長春観光のハイライトとなっています。
偽満皇宮博物館は当初、新宮殿が完成するまでの仮の宮殿でしたが、新宮殿は太平洋戦争により建設が中断されます。溥儀は仮宮殿で終戦を迎えるまで過ごします。
偽満皇宮博物館の入口を出ると、同徳殿という建物があります。盗聴装置を疑った、溥儀はあまり使用しなかったといわれています。
同徳殿の右側は庭園となっていて、溥儀が空襲警報の際に利用した防空壕が公開されています。
同徳殿の左側には、溥儀、皇后の婉容(えんよう)、皇妃の生活の場だった絹煕楼と公式行事を行った勤民楼があります。
勤民楼では、2階に勤民殿という正殿があります。ここで使節や重要な来賓、日本の高官と謁見して、委任状を授与する場所でした。普段は屏風で仕切られていましたが、重要な儀式の時は一つの部屋になりました。
ここで歴史上重要な出来事が2つありました。
- 1932年9月15日、日本と中国の間で日満議定書を調印
- 1934年3月1日、溥儀が満州国の皇帝に正式に就任
日満議定書の締結によって、満州での日本の権益が承認されます。
満州国建国から丸2年、溥儀は執政から正式に皇帝になったのでした。満州国が満州帝国になった瞬間でもありました(当記事では満州国と表記)。
勤民殿の向かいには、西便殿と呼ばれた溥儀の執務室があります。普段、溥儀が事務をして、勉強していた部屋です。政務に努めようと決心した溥儀ですが、満州国が日本の植民地化されていく様子に、自分が傀儡にすぎないと自覚するようになり、この部屋にはあまり来なくなったといわれています。
中国にとって溥儀は侵略者に祭り上げられた皇帝でもあり、満州族によって建国された清朝の最後の皇帝でもありました。中国では日本の傀儡政権である満州国を偽満州国と表現します。しかし、溥儀の存在を否定することなく、当時の溥儀の姿を伝えている偽満皇宮博物館を見学して、満州族の国家、清朝最後の皇帝としての畏怖の念も感じられました。
満州の首都だった長春には、溥儀の宮殿以外にも満州国時代の建物が多数現存しています。
地下鉄2号線の文化広場駅周辺は、かつての満州国の官庁街でした。現在は、その多くが吉林大学の建物となっています。
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