
ロッテルダム、1940年5月14日の悲劇
1940年5月13日、ニューウェ・マース川の南側にドイツ軍の戦車師団が到達し、オランダ軍と交戦中だった空挺部隊と合流します。北側のオランダ軍に降伏を求めますが拒否されます。
北側の市内の砲や川往復する駆逐艦は南側のドイツ軍に攻撃を加えていたのでした。
5月14日、ヒトラーのロッテルダム即時占領を命令、都市爆撃を承認します。再度、ドイツ軍の軍使はヴィルヘルム橋を渡り、ロッテルダム爆撃を行う旨を通達して、降伏勧告を行いますが書類の不備を理由に拒否されます。今度はドイツ軍陣地にオランダ軍の軍使が現れ、降伏交渉を申し出ます。

その時、すでに爆撃隊はロッテルダムに向けて発信していました。すぐさま、爆撃中止を爆撃隊に無線連絡をして、地上からも赤色信号弾を打ち上げますが、爆撃隊には届きませんでした。
13:27 54機の爆撃機が13分間に渡って、ロッテルダムの街に約1300個の爆弾を落とします。ロッテルダムは、北側の旧市街を中心に火の海になります。第二次世界大戦で初めて無差別爆撃を受けた街となりました。
約850名が亡くなり、約25,000戸の家が焼かれ、約8万人が家を失いました。


オランダ軍の総司令官は、ロッテルダム爆撃を受けて降伏を決意して、翌日の5月15日、降伏文書に署名して、オランダはドイツ軍の占領下に置かれることとなったのです。
第二次世界大戦前、ナチスドイツによる無差別爆撃されたスペインのゲルニカについては、下記の記事をご参照ください。
「【第45回】バスクの旅1 ピカソの絵の舞台となったゲルニカの街 前編」
「【第46回】バスクの旅2 ピカソの絵の舞台となったゲルニカの街 後編」
ロッテルダム戦争博物館
ロッテルダムには当時の爆撃のことを含めて、第二次世界大戦中のロッテルダムを紹介した戦争博物館があります。地下鉄の駅と運河の目の前にある橋の下の戦争博物館は、それほど大きくなくじっくり見ることができます。入口を入ると第二次世界大戦が始まった1939年から年代順に説明しています。展示はオランダ語のみですが、展示を英語版にしたパンフレットを無料で貰えるので、筆者もそれを読みながら見学しました。


オランダの降伏後、ナチスドイツに占領されたロッテルダムは、ナチスドイツに征服された他の都市同様、ユダヤ人、同性愛者、ジプシー、共産主義者に対する迫害を開始します。
1941年、1942年はその過程が博物館内で説明されます。


そして占領されて3年目になる1943年3月31日、再びロッテルダムが爆撃される運命になったのです。
1943年に米軍に爆撃される、フレンドリーファイヤー
筆者も1940年のドイツ軍によるロッテルダム爆撃は知っていましたが、1943年のロッテルダム爆撃は博物館の展示で初めて知りました。ロッテルダムを爆撃したのはドイツではなく連合軍のアメリカ軍だったのです。

ドイツに占領されたオランダは連合軍にとって、解放するべき国であると同時にナチスドイツに協力している国でもあったのです。
ロッテルダムにあるオランダの造船会社によって、ドイツ軍のための船舶が建造されていました。アメリカ軍はその船が建造されている港の造船所を爆撃する計画を立てます。
1943年3月31日、造船所を狙うはずの102機のアメリカ空軍の爆撃機は、ロッテルダム上空が曇りのため、ロッテルダム戦争博物館から西に行った住宅街、ボスポルダー・タッセンダイケン(Bospolder-Tussendijken)を誤爆してしまいます。約400人が亡くなる惨事となってしまいました。


「忘れられた爆撃」と言われ、地元でも1990年代までタブーとして語られてきませんでした。この日以外にもロッテルダムは、ドイツ軍の船舶を建造、ドイツ海軍の戦艦が港を使用していたので、時々、連合軍による爆撃を受けていました。その合計のロッテルダム市民の死者数、848人は1940年5月14日のナチスドイツによる爆撃と匹敵するのです。

ロッテルダム市民は連合軍の爆撃を、「フレンドリーファイヤー」と呼びました。皮肉が込められている当時のロッテルダム市民のやるせない気持ちが表れています。
【参考記事】
中立国、スイスで連合軍によって誤爆された都市を紹介しています。
「【第83回】第二次世界大戦中のスイスを追う旅2・中立政策を終戦まで守り抜く-その2」
連合軍の反撃が激しくなりドイツ軍は勝ち目がなくなると、ロッテルダム港の破壊活動と略奪を始めます。1944年9月下旬、連合軍にロッテルダム港を無傷で渡さないため、ドックを破壊して船をニューウェ・マース川に沈め、その残骸で港の入り口を封鎖、堤防も爆破したのでした。

戦略、物流、交通の拠点となる大きな港は、戦争では奪い合いになり、また最優先の攻撃のターゲットとされやすいです。第二次世界大戦ではヨーロッパ最大の港湾都市、オランダのロッテルダムが、戦争初期からナチスドイツに狙われ、占領後、今度は連合軍の攻撃対象となってしまいました。多くの人命と船、港湾施設が失われたのです。


また、下記記事で紹介していますが、ドイツ最大の港湾都市、ハンブルクも首都のベルリンより先に大規模な空襲を受けました。死者数が万単位に上る歴史上初めての爆撃となったのです。
【参考記事】
中立国、スイスで連合軍によって誤爆された都市を紹介しています。
「【第54回】ドイツの港町「ハンブルク」を廃墟にした恐るべき大空襲の痕跡」
イントロダクション
ロッテルダム戦争博物館
公式サイト:https://museumrotterdam.nl/
住所:Coolhaven 375 3015 GC
地下鉄のRotterdam Coolvehen駅の前
ナチスドイツに占領されたオランダのその後
オランダの戦いシリーズでは、第二次世界大戦開戦から、ドイツ軍のオランダ侵攻、ロッテルダム爆撃、オランダの降伏までの期間に絞り、物流の視点を交えて、紹介してきました。その後のオランダに関しては、かつての取材でも紹介していますが、過去記事と共に軽く触れたいと思います。

下記の過去記事、拙著「ヒトラー野望の地図帳」でもナチスドイツ占領中のオランダ最大の都市(現在の首都、当時の首都はハーグ)アムステルダムの街の痕跡を巡りながら紹介しています。アンネ・フランク博物館からレジスタンス博物館への道中には、その痕跡のルートとなっています。
ナチスドイツや連合軍に爆撃されたロッテルダムと違い、アムステルダムは戦場になる前にオランダが降伏したので戦火を免れました。ドイツ占領中も連合軍による攻撃を受けることはほとんどありませんでした。
ドイツ軍との戦いには1週間足らずで降伏したオランダでしたが、アンネ・フランク一家のみならず、ユダヤ人を匿ったり、地下活動でナチスドイツに抵抗する運動も密かに活発だったのです。それは世界に開かれた海洋国家として、自由と寛容の精神で移民をたくさん受け入れてきた歴史が根底にありました。
【参考記事】
「【第22回】アムステルダムの街中に残る第二次世界大戦中の面影を訪ねてみる」
「【第24回】第二次世界大戦中、ナチスに抵抗した歴史を伝えるオランダの博物館」
第二次世界大戦末期には、オランダを解放するために、ライン川の畔の街、アーネムに連合軍の空挺部隊が降下してきます。1940年5月、ドイツ軍がオランダを制圧した戦術を連合軍が取ったのでした。しかし、事前の準備、情報不足で失敗に終わります。
【参考記事】
「【第21回】映画「遠すぎた橋」の舞台となった激戦地、オランダのアーネム」
「【第108回】オランダの戦い オランダの国運を握っている河川、港-その1」
オランダはドイツが無条件降伏する4日前の5月4日、連合軍によって解放されます。
毎年、5月4日はアムステルダムのダム広場で式典が開かれヨーロッパ各国の首脳も参加します。


第二次世界大戦中に爆撃を受け、市街・港はほとんど破壊されたロッテルダムは、戦後、近代的な計画都市を目指して復興を遂げます。そのため近代的でユニークな建築が町中に目立ちます。



<【第108回】オランダの戦い オランダの国運を握っている河川、港-その1
<【第108回】オランダの戦い ヒトラー暗殺未遂事件の黒幕?独蘭国境の人質事件-その2
<【第108回】オランダの戦い 西部戦線の侵攻作戦が漏洩?不時着事件-その3
<【第108回】オランダの戦い ナチスドイツとアメリカに狙われた悲運のロッテルダム 前編-その4
【第108回】オランダの戦い ナチスドイツとアメリカに狙われた悲運のロッテルダム 後編-その5
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。

著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,512円(税込)
