No.24:旧満州国の痕跡を歴史背景と一緒に追いかける旅-その1|トピックスファロー

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2019年8月23日
No.24:旧満州国の痕跡を歴史背景と一緒に追いかける旅-その1

日本が中国の東北部に作り上げた満州国。昭和初期、日本は中国での権益を巡り、アメリカ、イギリスと論争になり、それが第二次世界大戦の太平洋戦争につながっていきました。その歴史背景を現地の写真と共に追いかけます。

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日本はなぜ満州に進出したか?

満州国は、現在の中国東北地方である「遼寧省(りょうねいしょう)」「吉林省(きつりんしょう)」「黒竜江省(こくりゅうこうしょう)」にありました。総面積は日本の3倍以上あります。日本の江戸時代と同時期に栄えた中国の清王朝は、この地方の少数民族である満州族が支配していました。

中国の東北地方中国の東北地方

日本は江戸時代の鎖国体制を捨てて、明治時代になってから、欧米諸国のように海外(日本の場合は周辺国)へ進出していく帝国主義政策をとります。中国の清王朝も日本の江戸幕府のように鎖国体制で国を維持してきますが、1840年のアヘン戦争でイギリスに敗れます。それをきっかけにヨーロッパ諸国が清へ進出、都市部や港で利権を持つようになりました。

それに乗じてロシアも清の東北部へ進出してきて、鉄道などの利権を持っていました。

ハルビンに残るロシア正教会の聖ソフィア大聖堂ハルビンに残るロシア正教会の聖ソフィア大聖堂

大連に残る旧ロシア人街大連に残る旧ロシア人街

日露戦争(1904年~1905年)で、日本が辛勝した結果、ロシアの権益の一部を受け継ぎます。

遼東半島の先端部分の都市、大連、旅順(関東州)。
大連、旅順から北部の長春(後にハルビンまで)の鉄道路線。

日本は南満州鉄道株式会社を設立して、鉄道事業のみならず沿線の炭坑や鉄山を開発する権利を持っていました。沿線の駅周辺には日本の治外法権地域ができて日本人街も誕生します。

大連の南満州鉄道の本社大連の南満州鉄道の本社

ハルビンの東清鉄道の本社ハルビンの東清鉄道の本社。
ハルビンから北部はロシアの東清鉄道になる
※現在は2つの本社だった建物は博物館になっている。

南満州鉄道と東清鉄道の境界駅となった現在のハルビン駅南満州鉄道と東清鉄道の境界駅となった現在のハルビン駅

ハルビン駅は安重根が伊藤博文を暗殺した場所ハルビン駅は安重根が伊藤博文を暗殺した場所。南口に安重根記念がある

かつて南満州鉄道で使われていた車両かつて南満州鉄道で使われていた車両

また、南満州鉄道線路沿いには日本の軍隊も駐留させる権利を、清やロシアから認められていました。満州に駐留した日本軍は関東軍といわれます。

日露戦争後、日本が獲得した大連や旅順、鉄道沿線の都市に多くの日本人が移住してきました。日本人街の名残を、現在の中国東北地方の都市でも見ることができます。

大連港のターミナル。かつては日本との航海路線があった大連港のターミナル。かつては日本との航海路線があった

大連にある関東州庁だった建物大連にある関東州庁だった建物

大連駅周辺の日本人街。満鉄駅周辺は日本の治外法権地域だった大連駅周辺の日本人街。満鉄駅周辺は日本の治外法権地域だった

模型で再現された大連の日本人街模型で再現された大連の日本人街

大連には当時の路面電車の車両が復刻されている大連には当時の路面電車の車両が復刻されている

満州の権益を拡大しようとした日本

日本が満州の権益を手に入れた頃、清は末期状態にあり、辛亥革命(1911年)によって新王朝が倒され、翌年、中華民国が誕生します。

日本はその混乱に乗じて、満州国を独立させる画策をしますが、上手くはいきませんでした。しかし、第一次世界大戦が始まり、日本は連合国側で参戦。ドイツの租借地だった山東省を占領、そのどさくさに紛れて、中国を日本の属国にするに等しい「対華二十一ヵ条要求」を押しつけます。

その要求のうちの一つ、大連、旅順、南満州鉄道の租借期限を1997年まで延長することに成功します。

しかし、この「対華二十一ヵ条要求」は中国側からの強い反発は当然として、国際的な非難も浴びることになったのです。そして、第一次世界大戦後、中国の権益をめぐって幾度となく国際会議が開かれます。

列車から見える日本が狙った中国東北地方の広大な土地列車から見える日本が狙った中国東北地方の広大な土地

一方、新王朝が倒れた後の中国国内は混乱していました。

北部の北京には袁世凱(えん せいがい)を大統領とする軍閥政府、南部の広東には孫文を首班とする政府という二つの政府が存在していました。日本は北部の軍閥を支援して満州の権益を拡大しようとします。またその軍閥同士でも抗争が絶えなく、日本は軍閥の中でも有力な奉天(ほうてん)軍閥の張作霖(ちょう さくりん)を支援していました。

しかし、南部の政府は、北部の軍閥を討伐するための「北伐(ほくばつ)」を開始します。その代表者は蒋介石(しょう かいせき)です。蒋介石は北上し続け北京まで迫り、日本は張作霖に撤退するように説得します。全国統一に意気がある蒋介石の勢力を張作霖の軍閥では抑えきれないと判断したのです。

日本軍によるテロ、満州某重大事件

張作霖は本拠地である満州の奉天(現在の瀋陽(しんよう))に列車で帰還の途につきます。この時、関東軍は奉天に着く直前の列車を爆破して、張作霖を暗殺しようとしていました。

理由は、満州の占領。最大の軍閥である張作霖を暗殺すれば、満州での治安の悪化が避けられない。そして、治安維持のため関東軍が出動する口実を作った後、一気に満州を占領してしまおうとしたのが狙いでした。

現在の瀋陽の街並み。満鉄付属地だった中山広場現在の瀋陽の街並み。満鉄付属地だった中山広場

そして、1928年6月4日午前5時23分。張作霖の列車が陸橋の下を通過した時、爆破されます。張作霖は即死せず、奉天の自邸に運ばれ、午前10時に過ぎに息を引き取りました。

現在、事件現場の近くには張作霖暗殺事件の博物館があります(皇姑屯事件博物館)。

博物館の庭には、陸橋が再現されています。瀋陽駅からタクシーで約20分、料金は20元ほどです。

皇姑屯事件博物館皇姑屯事件博物館

事件現場となった陸橋が再現されている事件現場となった陸橋が再現されている

張作霖が息を引き取った自邸は、瀋陽市街地にあり、張氏帥府博物館として一般公開されています。

張作霖が息を引き取った自邸だった、張氏帥府博物館張作霖が息を引き取った自邸だった、張氏帥府博物館

爆破は日本軍の出先機関である関東軍の独断の行動であり、日本軍も対応することができませんでした。更には当時の首相・田中義一は昭和天皇の怒りを買ってしまい、内閣は総辞職します。そのため、関東軍も満州でそれ以上の行動に出ることができませんでした。日本国内ではこの事件を「満州某重大事件」と呼び、真相を秘匿したともいわれています。

張作霖の息子の張学良(ちょう がくりょう)は日本軍と決別。蒋介石の国民政府に合流して、中国が全国統一されます。張作霖の暗殺は、日本の満州支配どころか、中国を結束させる結果となったのです。

張氏帥府博物館の前にある張学良の銅像張氏帥府博物館の前にある張学良の銅像

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【連載】受験に勝つ!世界史の勉強法

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
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2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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