ドイツ軍が誇る英雄、エルウィン・ロンメル将軍
1891年に生まれたエルウィン・ロンメルは、軍人を志し、第一次世界大戦のイタリア戦線の活躍で名を馳せました。第二次世界大戦ではフランスや北アフリカ戦線で、巧みな戦略、戦術で神がかり的な戦果を挙げた指揮官です。
特に北アフリカ戦線で、圧倒的に優勢な物量のイギリス軍を苦しめさせます。ドイツ国民はロンメルを英雄と称え、敵国のイギリス首相のチャーチルでさえ、敵将ながらロンメルを称えたのです。「砂漠の狐」という異名で世界中に知られることになりました。
ロンメルが指揮官として従軍した戦いの戦跡は、「奇跡の撤退作戦が行われたフランスの港町、ダンケルク」編、「ドイツ軍に敗れたフランスが誇る難攻不落の要塞、マジノ線」編をご参照ください。
ロンメルはヒトラーからも寵愛されていました。
ロンメルが第一次世界大戦に従軍した経験を元に執筆した「歩兵攻撃」という本をヒトラーが絶賛します。
また、当時のドイツ国防軍の上層部はほとんどユンカー(ドイツの伝統的な貴族の呼称)出身の将軍で占められていましたが、ロンメルはユンカー出身ではなく中産階級出身でした。ヒトラー自身も、ロンメルと同じく第一次世界大戦で歩兵として従軍していて、中産階級出身だったことも、大きな親近感を持った理由のひとつです。
ロンメルは、国際条約を遵守して、敵国の捕虜の丁寧に扱う騎士道精神も持ち合わせていました。戦術家としての才能と人柄で現在でも世界各国で人気の高い軍人です。日本にも軍事マニアを中心にロンメルファンは多いです。
しかし、そんなロンメルも第二次世界大戦の末期、ドイツ国防軍のヒトラー暗殺計画に関わっていた容疑がかけられ、自殺を強要されます。そして命を落としたロンメルの葬儀は、彼の自宅の近くのウルムで国葬として行われました。国民の英雄だったロンメルを考慮して、表向きは戦闘における負傷による戦死として発表したのでした。
世界一の尖塔がある大聖堂は街の象徴
そんなロンメルが自殺を強要された場所や墓が残っています。当時のことを振り返りながら、その場所をたどっていきましょう。
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ロンメル邸から自殺した現場へ
現在でも建物が残っているロンメル邸
ロンメルの自宅があったのはドイツ南部のヘルリンゲン(Herrlingen)という街です。
ロンメルの葬儀が行われたウルムからはローカル列車に乗って3駅目になり、10分程で着きます(往復共に1時間に1本程度)。ちなみにミュンヘンからウルムまでは列車で1時間30分ほどになります。
ヘルリンゲンの駅を降りると、ロータリーがあり、山に登る左側の道を行くと、ロンメルの自宅とその先にロンメルが自殺した場所があります。そしてその道は、「エルウィン・ロンメル通り(Erwin-Rommel-Stage)」という名称がつけられています。
少し急な坂ですが、上がっていくと直に左側の角にロンメル邸だった建物が見えてきます。
表札には住んでいた主の名前が刻まれており、1943-1945 ERWIN ROMMELの文字があります。
ロンメルを訪れる2人の将軍
1944年10月14日、ロンメル邸に国防軍の2人の将軍が訪れます。その日、ロンメルはノルマンディー戦線で受けた負傷の療養中でした。2人の将軍が訪れた理由、それは7月に国防軍の将校によるヒトラー暗殺未遂事件が発生したことにあります。ロンメルはその容疑を疑われたのでした。
2人の将軍はロンメルに、反逆罪の容疑で裁判を受けるか、自殺をするか迫ります。
もしロンメルが自殺を選んだ場合、真相は隠され国葬を行い家族の安全も保障すると述べます。
「私は軍人であり、最高司令官の命令に従う」
とだけ言い、自殺する道を選びます。裁判を選んだ場合は、死刑になり家族も逮捕されることが確実だったからです。そして妻と息子に別れの挨拶に向かいます。
「15分以内に死ぬことになった。」と事情を述べて、自宅を出発します。
自宅の周りには万が一のロンメルの抵抗に備えて、親衛隊の部隊が配置されていました。
文献によっては、国難を打開するための出陣だと思い、ヘルリンゲンの市民が見送りに集まっていたと記載されているのもあります。しかし、山の中の狭い坂道という実際の現場を見ると市民がたくさん集まっていたとは考えにくいです。
ロンメル、死のロード
午後1時5分、ロンメル、2人の将軍、運転手の計4人を乗せた車が自宅を出発します。
ロンメルの死のドライブの道を紹介します。エルウィン・ロンメル通りこそロンメルの死のロードなのです。
まず自宅を出発した車は、坂道の上の方向に進みます。現在道中の道案内には、「Erwin-Rommel-Stage」、最期の地を示す「Rommel-Gadenkstein」の表示があるので道に迷うことはないと思います。
4人を乗せた車が出発した |
ロンメルを乗せた車は坂道を登っていく |
左側がエルウィン・ロンメル通り |
しばらく進むと人家が無くなってきて、道の舗装も無くなります。そのうち見晴らしが良い場所に出て、再び道は舗装されます。すれ違う人や車もなく黙々と道は続きます。ロンメルの死のドライブもすれ違うものはなかったのでしょう。
その再び舗装された道を歩いていると、ヘルリンゲンの街は終わり、隣町に入ります。厳密にいうとロンメルの最期の地はヘルリンゲンではないことがわかります。そして二手にわかれる岐路が現れます。その道をまっすぐ行けば、ロンメルの最期の地まであと少しです。
ロンメルの命もあと残すところわずかになってきました。
ロンメル、最期の地
そして、ロンメル最後の地は、突然にして現れます。右側の草むらが切れている場所の向こう側に、ロンメル最期の地を記した記念碑が現れます。
ロンメルの家から歩いて20分前後でした。車だと5分くらいで着く距離だと思います。
ロンメルを乗せた車はここで停まり、車の中にはロンメルと1人の将軍を残して、他の2人は離れます。そして、ロンメルは車の中で毒をあおり絶命したのでした。
その報告を聞いたヒトラーはこうつぶやきました。
「また、1人、古い友人を失ってしまった。」
記念碑の周りは特に何かあるわけでもありません。お供え物などがあり、ロンメルに敬意を持った人たちが定期的に訪れているのがわかります。寂しい場所ではありますが、周りの自然や近くの住宅街のきれいさがそれを感じさせません。
右手の草むらが途切れているところに… |
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ロンメルの自宅から最期の地までの写真をたくさん掲載しました。日本にもロンメルファンが多く、ロンメルの最期に興味を持っている方も多いです。現地を訪れられなくてもイメージだけでも掴んでいただけたら思います。
また、現地を訪れる方は、ヘルリンゲン駅から徒歩で往復1時間は見ておいたほうがいいと思います。筆者も現地に取材に行く前、グーグルマップで調べたら、駅から1本道とはいえ距離があり、人家などもほとんとなさそうでした。なので、治安の面を少し心配しましたが、昼間なら道に迷うこともありませんし、人気はありませんが特に怪しい雰囲気も感じません。ハイキング感覚で大丈夫だと思います。
街の中心部にあるロンメルの墓
ロンメルの墓もヘルリンゲンの教会の墓地にあります。場所は駅からすぐ近くで、駅の右側の道に進んで200メートルほど歩くと、街の中心部のT字交差点に出ます。教会は左のベルク通り(BergStraße)を曲がればすぐ左に見えてきます。駅からは徒歩10分くらいです。
教会内の墓地の奥まった一角に、ロンメルの墓があります。目につくのはちょっとしたアクセサリーのようなドイツ国防軍の鉄十字。同じものが最期の地の記念碑にもありました。
1941 1943 AFRIKA KORPS、ロンメルが世界中に名を馳せた1941年~1943年の北アフリカ戦線の戦いを表しています。そして隣には妻、ルーシーの墓もありました。
ヘルリンゲンは、街の中心部といっても飲食する場所はありません。駅の右側にスーパーがあり、喫茶店も入っていますので、ロンメルの最期の地から戻ってきたら小休憩するのも良いかもしれません。
ロンメルはヒトラーの野望に大きく貢献した人物でもある
道の名前までなっているヘルリンゲンの街中を歩いてもわかるように、ロンメルは歴史の偉人として称えられているのがわかります。
しかし、現在のドイツではヒトラーをはじめナチス時代を肯定することは絶対にタブーです。ロンメルは、ナチス党員ではなかったとはいえ、ヒトラーに寵愛されて、ナチスドイツの戦線拡大に大きく貢献した人物の1人です。
ロンメルは、国防軍のヒトラー暗殺計画に加担していたため、悲運の運命をたどります。
それにロンメルの功績や人柄もあって現在のドイツ人や世界各地の軍事ファンから慕われているのかもしれません。また、ヒトラーに抵抗した人たちは、現在のドイツで称賛される傾向にあります。
その一方、ロンメルをはじめヒトラー暗殺計画に加わった国防軍の軍人の多くは、戦前のナチスの盛隆や第二次世界大戦初期の快進撃によって、ヒトラーに熱狂していたという事実は忘れてはいけないと思います。
どのような解釈をするにせよ、ヘルリンゲンを訪れる際は、地元の英雄で「砂漠の狐」といわれた、エルウィン・ロンメル将軍に対する敬意の念を持って訪れていただければと思います。それは旅行者としてのドイツやヘルリンゲンに対する敬意でもあるからです。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
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