連合軍に降伏後のイタリア
解放が遅れたローマ
1943年7月、ムッソリーニが失脚。
9月8日、新しく政権を握ったパドリオ首相が、国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世に命じられ、連合軍へ休戦を申し込んだことが世界に発信されました。その前後の話は「ムッソリーニの生涯をめぐる北イタリアの旅 前編」でも紹介しています。
休戦発表を聞いたイタリア国民は、「戦争が終わった!」と狂喜する一方で、昨日まで同盟国として一緒に戦っていたイタリアに駐留するドイツ軍の出方が心配になります。
案の定、イタリアの休戦発表を聞いたヒトラーは怒り、イタリアに駐在しているドイツ軍派遣司令官ケッセルリンクにイタリア占領を命じたのでした。
休戦発表と同時にパドリオ首相、国王ヴィットリオ・エマヌエレ三世ら、政府、皇室関係者はドイツ軍から逃れるために首都であるローマを脱出して南部のブリンディジに臨時政府を置きます。パドリオ政権は休戦発表に先立って連合軍に密使を送っていました。
密談ではイタリア軍と連合軍が共同でドイツ軍と戦う予定でしたが、イタリアが調印する降伏文書への解釈、共同作戦をめぐって意見が対立し、足踏みがそろわなかったのです。
国民を置き去りにした政府、皇室関係者のローマ脱出は、戦後、国民の中でも不信感が続き、皇室の廃止へとつながっていきました。ローマに残った政府関係者がドイツ軍を受け入れ、ローマを戦禍から救えることができましたが、連合軍に解放される翌年の6月まで9ヶ月間、ローマはドイツ軍の占領下に置かれてしまうのです。
イタリアのパルチザンとは?
そんな中、イタリア各地でドイツ軍やイタリアのファシスト党に対抗する組織、武装組織「パルチザン」が結成されます。厭戦気分が広がっていたとはいえ、イタリア国内には、一部、ムッソリーニ率いるファシスト党を支持する人たちもいたのです。
元々ムッソリーニが政権を取ったころから、ファシスト党に抵抗活動を行っていた少人数のパルチザンはいました。しかし、パルチザンとしての本格的な部隊が組織されたのは、ドイツ軍によるイタリア進駐の頃からだったのです。そして、イタリア国内はドイツ軍、ファシスト党とパルチザンの内戦状態になります。ローマでのパルチザンの痕跡を巡ってみたいと思います。
ローマでのパルチザンの痕跡
ローマでの最初の抵抗、サン・パオロ門広場の戦い
パドリオ政権の休戦発表から2日後の9月10日、ドイツ軍がローマ市内へ進駐を開始すると同時にローマ市民との小競り合いが各地で頻発、その最大の戦いがローマ市内の南西にあるサン・パオロ門広場(P.za di Porta San Paolo)での戦いです。
この門を潜ってローマに入場してきたドイツ軍に対して、ローマ市民が2日間にわたり激しい抵抗をみせます。双方とも約400人が戦死、最後は補給を絶たれたローマ市民側が敗れますが、イタリア各地のパルチザンによる抵抗ののろしにつながっていきます。
サン・パオロ門広場は地下鉄B線、ピラミデ(Piramide)駅が最寄り駅です。ピラミデ駅はテルミニ(Termini)駅から5駅、15分弱ほどで着きます。近くには217年に完成した世界最大だったカラカラ浴場もあります。
ピラミド駅を降りると目の前がサン・パオロ門広場で、広場の中央部にあるサン・パオロ門より、駅の真正面にある白いピラミッドが視界に飛び込んできます。これが1943年にドイツ軍と戦ったローマ市民を称える記念碑かと思いきや、ガイウス・ケスティウスのピラミッドと言って、紀元前18世紀~12世紀の間に立てられた、古代ローマの法務官など務めたガイウス・ケスティウスの墓なのです。
1943年の記念碑はそのピラミッドの隣にひっそりとあります。小さな塔と城壁の壁に掲げられている当時のローマ市民の抵抗を称える4つのプレートです。その前は車を置けるちょっとしたスペースになっています。もう少し大きいものがあるのかと思いきや、意外に地味で拍子抜けしていましました。
しかし、ヨーロッパ各地の街角には、このような地味な世界大戦の痕跡を示す記念碑のプレートがたくさんありますが、そこが観光地でなくても立ち止まって見ている観光客は後を絶ちません。サン・パオロ広場は、人通りが多い場所ではないですが、行き交う人たちは興味深そうに記念碑を眺めていくのでした。
アルディアティーネの悲劇とは?
1944年3月23日、ローマ市内の中心部、ラセッラ通りでパルチザンの2人組が仕掛けた爆弾による大爆発によって、武装行進中のナチス親衛隊33人が即死、70人以上が重傷を負う事件が発生。
事件を聞いたヒトラーは激怒して、殺された親衛隊員1人につき、イタリア人50人を処刑せよ!」と命令を下します。さすがに1650人は集めることは現実的ではなかったので、10人になり、330人のイタリア人の処刑がヒトラーによって承認されます。
その不運の人たちは反ナチス、反ファシストとして刑務所に収容されているから選ばれました。そして、事件から24時間以内にローマ南部のアルディアティーネの洞窟に連行され銃殺されたのです。
ローマには、ラセッラ通りとアルディアティーネの洞窟が残っています。
親衛隊が惨殺されたラセッラ通り(ラッセラ事件)
トレビの泉からラセッラ通りへの行き方を紹介します。ラセッラ通り(VIA RASELLA)は、観光地トレビの泉から近く、テルミニ駅からも徒歩15分ほどです。
トレビの泉を正面にして、右角にあるカトリック教会とジェラード屋の間にあるラヴァトレ通り(VIA DEL LAVATORE)を進むと、イン・アルチョネ通り(VIA IN ARCIONE)になり、5分ほどでトラフォロ通り(VIA DEL TRAFORO)に出ます。
トラフォロ通りの右側にはトンネルがあり、その上はクイリナーレの丘があります。イン・アルチョネ通りからトラフォロ通りを挟んで向こう側、トンネルの次にある細い坂道がラセッラ通りです。
事件は、ロザリオ・ベンディヴェンガとカルロ・カッポーニという男女の愛国行動隊員によって実行されます。彼らは道路清掃員に変装して清掃運搬車に爆弾をしかけて、親衛隊の行進を待ち伏せします。
親衛隊の隊列がゆるやかな坂道のラセッラ通りを上がってきた時、清掃運搬車のごみ箱に隠してあった爆弾を点火させた後、大音響と共に爆発。彼らは一目散に逃走、ラセッラ街は散乱する親衛隊の遺体、重軽傷者のうめき声で地獄と化したのでした。
現場である現代のラッセル通りは、ホテルやレストランも数軒あり観光客らしい姿も見られますが人通りは少なく、静かなたたずまいとなっています。しかし、当時のラッセラ事件を記憶する記念碑、説明文のプレートなどは一切ないのです。犠牲となった親衛隊に対して追悼するものがないのは当然としても、実行犯の愛国行動隊員を称える記念碑もありません。
ラッセラ事件の話はまたたくまにローマ市内に広がります。事件を聞いたローマ市民は、ドイツ軍が大がかりな報復をしてくるのではないかと不安が広がり、それが的中してアルディアティーナの悲劇が起こります。戦後、実行犯の2人はドイツ軍の報復で虐殺された遺族から訴えられてしまうのです。
ヨーロッパ各地でレジスタンスやパルチザンによるドイツ軍への抵抗活動は、行為が過激になればなるほど、ドイツ軍による大がかりな報復を生みました。そしてそのドイツ軍の報復で犠牲になった親族や友人から、レジスタンスやパルチザンが恨みをかってしまうという皮肉なことも起こったのです。だからラセッラ通りの場合は、記念碑のたぐいが一切ないのかもしれません。
アルディアティーネの洞窟の中での処刑
ラッセラ街の事件を知り激怒したヒトラーは、ローマ地区のゲシュタポ(秘密警察)最高責任者であるヘルベルト・カプラーに報復のためのイタリア人の処刑を厳命します。
カプラーは殺された親衛隊員の10倍の数である330人(実際には335人)の処刑者リストを作成。カプラーは処刑を極秘におこなうために、人目がつきにくいローマ南部のアルディアティーネの洞窟に連行します。親衛隊員5人1組で5人ずつ銃殺する方法で処刑を実行、処刑が完了すると証拠隠滅のために洞窟を爆破させたのでした。
その後、たまたま現場を目撃した農夫がローマに到着した連合軍に報告、事件は世界に伝わることになったのです。
アルディアティーネの洞窟の跡が、ナチ・ファシズムの糾弾の霊場として公開されています。場所はアッピア旧街道沿いにサン・カッリストのカタコンベ(初期キリスト教会の地下墓地)の近くにあります。
行き方は、コロッセオから118番のバスでサン・カッリストのカタコンベの最寄りある「CATACOMBE DI.S.CALLISTO」で下車、コロッセオから30分ほどで着きます。
私はサン・パオロ門広場から城跡沿いにサン・セバスティアーノ門(P.TA.S.SEBASTIANO」まで歩き、そこからアッピア旧街道を南下しました。このルートだと徒歩で1時間以上かかります。
ちなみにこの古代ローマ時代に整備された、軍用道路であるアッピア旧街道は1944年6月4日のローマ解放の際、連合軍がやってきた道でもあります。先遣部隊がサン・セバスティアーノ門をくぐり、ローマへ入城したのです。
アルディアティーネの洞窟へは、サン・カッリストのカタコンベを横切り、アッピア旧街道から1本向こう側のアルディアティーネ通り(VIA ARDEATINE)にあります。カタコンベから見えるのどかな風景は、墓地であるカタコンベや悲惨な処刑が行われた洞窟がすぐぞばにあるとは思えません。
霊場の入口の門には、犠牲者の悲痛な想いを表した両手を縛られた3人の男性の大理石があります。門をくぐると広場になっていてイタリア国旗が掲げられ、目の前には、処刑された洞窟の中へ入る穴、左側は天井が低い犠牲者の半地下墓地となっています。入場料は無料で入口には守衛がいて記帳するノートもあります。
洞窟の中は証拠隠滅で埋められた、処刑が行われたと思われる場所が見学できるようになっています。私が訪れた時は私以外の訪問者はいませんでしたが、洞窟の中に誰かが足を踏み入れると足場が明るくなるようになっています。洞窟をそのまま順路通り歩いていくと、335人の墓地にも通じていました。石棺は番号をつけられて並んでいて、一番奥の左端の石棺に「335」の番号がふられているのです。
イタリアの政府関係者、ローマ法王など各国首脳もアルディアティーネの洞窟を参拝しています。
抵抗活動は悲惨な報復を生み、味方からも怨みをかうことも
ラセッラ事件の主犯格のベンディヴェンガは、アルディアティーネの悲劇という、ナチスの報復を生む結果となってしまい、遺族から行き過ぎた行為を過剰防衛で訴えられます。しかし、多くのローマ市民の再審請求で無罪にはなりましたが、ラセッラ通りに当時の事件を記すものがないことにこの事件の当事者の感情の難しさを物語っています。
ドイツに支配されていたヨーロッパ各国では、パルチザン、レジスタンスなどの抵抗活動が行われていましたが、暗殺などの手段に訴える過激派、ちょっとしたサボタージュで抵抗を続ける穏健派がありました。仲間内でも抵抗手段についての対立があったのです。それは戦後まで遺恨を残すことも数多くありました。その一例がこのローマでの悲劇だったのです。