第一次世界大戦から復員後のヒトラー
第一次世界大戦に従軍したヒトラーは、フランス、ベルギーの戦線に送られ伝令兵として活躍しますが、毒ガス攻撃で目をやられてしまいます。負傷兵として病院へ送られて失意のうちに、1918年ドイツの敗戦を迎えます。
戦後、ヒトラーはミュンヘンへ復員してからもバイエルン第二歩兵連隊に所属し、軍に籍を置いていました。
当時のミュンヘンは共産主義の革命派が支配していて、ヒトラーが愛した芸術の都、ミュンヘンではありませんでした。
当時のミュンヘンの状況については、「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅1 ~ドイツとの出会い編~」。
当時のドイツの状況やヒトラーも信じた「背後の一刺し論」については、「両大戦の転機となった軍港キールで、水兵が蜂起した痕跡を巡る」編を参照してください。
世界の運命を決めた1919年9月12日
ヒトラーは籍を置いていた軍で、捕虜収容所の番人や政治破壊活動防止の監視などの職務についていました。その時の指令で、ヒトラーはある酒場で行われる小さい右翼団体の調査を命じられます。
1919年9月12日、ヒトラーは、その団代の集会が開かれている酒場、シュテルネッカーブロイを訪れます。団体の名前は「ドイツ労働者党」。この年の1月5日にできたばかりの、世間ではほとんど知られていない団体でした。しかし、この団代こそ、後にヨーロッパを圧巻でする「ナチス」だったのです。
世界の歴史が動いた瞬間でした。
当時はそのことに誰も気づいていませんでした。もちろんヒトラーでさえも・・・。
ヒトラーを取り巻く人との出会い
ヒトラーが集会を訪れた時、演説していたのはゴットフリート・フェーダーという経済学者でした。ヒトラーはその演説には特に興味をもつことができず、退屈したので帰ろうとしました。しかし、その後、自由討論に入るというが聞こえてきた途端、「何かが動かして」ヒトラーを立ち止まらせます。
ある大学教授が、バイエルンを中央政府と切り離して独立すると主張した時、ヒトラーはドイツの統一を主張して激しく反論します。
そのヒトラーの熱弁と論理に強い印象を受けたのが、ドイツ労働者党の創始者の一人、アントン・ドレクスラーでした。彼はヒトラーに党のパンフレットを渡し、また訪ねてきてほしいとお願いして別れます。
これがヒトラーとナチスの出会いだったのです。
※1920年2月24日、ドイツ労働者党は、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチス党)と改名。
ヒトラーとナチスが初めて出会った酒場は、現在はパソコンショップ
現在、酒場、シュテルネッカーブロイがあった場所が、ミュンヘン最大の観光スポット、ミュンヘン新市庁舎があるマリエン広場の近くにあります。
マリエン広場から見て、ミュンヘン新市庁舎を見て右側にあるミュンヘン旧市庁舎の建物の中を抜けるとタール通り(Tal)に出ます。そのままタール通りをイザール門の方へ進み、4番目の右に曲がる角の一角が、シュテルネッカーブロイがあった場所です。
現在は酒場ではなく、パソコンショップとなっていて、iPhoneなど現代人のツールを売っています。ミュンヘンの日常の風景とあまりにも馴染んでいて、そこがかつてのナチスの聖地だったことを微塵も感じることができません。
シュテルネッカーブロイは、1920年1月から1921年10月までナチスの本部が置かれることになります。
本部の入り口は、右側から伸びる狭い道、シュテルネッカー通り(SterneckerStraße)側にありました。シュテルネッカー通りにはビール博物館があります(シュテルネッカーブロイ斜め向かい)。当時の酒場はありませんが、現在、ビール博物館があるということで、そこに酒場があったという雰囲気は味わえるかもしれませんね。
左側の建物がかつてのナチス本部の入口、右側に見える旗が現在ビール博物館の建物
1933年にヒトラーが政権を取ってからは、このシュテルネッカーブロイがあった建物は、ナチスの聖地として、博物館となって一般公開されました。
ちなみにこのタール通りは、後年、ヒトラーが革命を起こそうとして失敗したミュンヘン一揆の時に更新した道になります(ミュンヘン一揆は、「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅3」で書く予定です)。
住所:
Tal 38
右側がシュテルネッカーブロイだったパソコンショップ。
左側の赤茶色のホテルはナチス親衛隊が誕生した場所。
ヒトラー、ドイツ労働者党(後のナチス)の正式会員になる
話を過去に戻します。
ヒトラーはドイツ労働者党のパンフレットをもらった後、特にこの党に惹かれたわけでもなく、関心が薄れていきました。しかし、その数日後、ドイツ労働者党から委員会への出席依頼の手紙を受け取ったことをキッカケに、好奇心でもう一度このドイツ労働者党を覗きに行きます。
9月16日、委員会が行われているアルテス・ローゼンバードというレストランに足を運んだヒトラー。そこはみすぼらしいレストランで、うす暗い人気のない食堂を通り抜けて奥の部屋に入っていきます。
部屋では奇妙な4人がテーブルに座って、長々と議論していました。党の全財産は7マルク、綱領もパンフレットも党章すらない状態で、それを目の当たりにしたヒトラーは、
「これはひどい、最もたちの悪いクラブじゃないか!」
ヒトラーは、その日は失望して引き上げていきましたが、数日考えて入党することを決めます。ばかばかしい党だと思いましたが、規模も小さく方針が定まっていない党だからこそ、自分の思い通りに作り変えることができるのでないかと思ったのです。
そして、ヒトラーはドイツ労働者党の7番目の党員として登録されました。
こうしてヒトラーは政治の道に入っていき、ミュンヘン、ドイツ、ヨーロッパ、世界を震撼させていくのです。
「あのレストラン」の現在
ドイツ労働者党の委員会が開かれていたレストラン、アルテス・ローゼンバードはシュテルネッカーブロイから歩いて5分くらいの場所にあります。
シュテルネッカーブロイがあったタール通りをマリエン広場方面に引き返します。すぐ右手に薬屋(APOTHEHE)が見えてきます。その前のゆるやかな登坂になっている、ホッホブリュッケン通りをそのまままっすぐ歩いていくとその場所に着きます。
アルテス・ローゼンバードがあった建物は、第二次世界大戦中の爆撃で破壊されてしまいます。現在その場所は、5階建てのガラス張りで吹き抜けがよさそうなオフィスになっています。当時のみすぼらしいレストランを想像することが全くできません。
住所:
Herrnstrasse 48
ヒトラーの原点となった場所。そこが街角にあり当時の面影を全く残すことなく、ミュンヘンの日常生活に溶け込んでいるのでした。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,400円(税抜)