【第37回】ウィーンにあるナチス時代の痕跡を巡ってみよう|トピックスファロー

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2016年5月9日
【第37回】ウィーンにあるナチス時代の痕跡を巡ってみよう

第2次世界大戦中はドイツに併合されていたオーストリア。ウィーンには、ヒトラーゆかりの場所ばかりでなく、ナチス時代のオーストリアを伝える軍事博物館や防空施設跡ブンカーもあります。地下鉄やトラムで訪れることができます。

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第1次世界大戦後、主権国家として独立したオーストリアだったが・・・

1934年、アドルフ・ヒトラーが総統に就任すると、ドイツは周辺国にも手を伸ばし始めます。その目的は、第1次世界大戦で失った領土の回復とドイツ民族統一国家の建設でした。

そして、最初の標的となったのがヒトラーの母国、オーストリアだったのです。 現代でもドイツとオーストリアは同じドイツ民族が住んでいて、母国語はドイツ語です。オーストリアは第1次世界大戦前まで、多民族国家のハンガリー・オーストリア帝国の一員でした。戦後、ハンガリー・オーストリア帝国は解体されます。ヴェルサイユ条約の下、1919年、オーストリアは主権国家として独立します。

100 ウィーンの中心部

ナチス時代の展示もある軍事博物館

サラエボ事件だけでなはない?歴史を変えた暗殺の痕跡

「第1次世界大戦の引き金となった、サラエボ事件を探る旅 編」

では、サラエボで暗殺された皇太子夫妻が乗っていたオープンカーや、皇太子が着ていた血のりのついた服の展示があることを紹介しました。軍事博物館には、第1次世界大戦時代以前のハプスブルグ家時代の展示のみならず、戦間期、第2次世界大戦に関する展示もあります。

101 軍事博物館の外観

入口を入り右手がサラエボ事件、第1次世界大戦の展示になり、左手が戦間期、第2次世界大戦となります。
第2次世界大戦の展示は、戦間期にヴェルサイユ条約によって独立したオーストリアが、ナチスドイツに合併される様子が中心になっています。

独立後もドイツ民族であるオーストリア国民は、ドイツとの合併を望んでいたのでした。
しかし、1932年に誕生したドルフス内閣はドイツとの合併に反対します。オーストリア方面へ進出しようとしていたイタリアのムッソリーニ政権と友好関係にあったためです。その状況に我慢ができなくなったオーストリアのナチス党は、1934年ドルフス首相を暗殺してしまいます。

ドイツへの合併に反対していたドルフス首相が暗殺された時、ドルフスの遺体が横たえられていた血のりのあるソファと、暗殺当時着ていた服が展示されています。

102血のりのあるソファ

暗殺犯は処刑され、オーストリア・ナチス党のクーデターは失敗に終わります。

しかし、その後、エチオピア侵攻などでイタリアがドイツに急接近すると、オーストリア・ナチス党が巻き返してきます。

そのイタリアは1935年、エチオピアに侵攻して国際社会に非難を浴びることになります。そして、同じく孤立していたドイツへ接近していきました。1936年に始まったスペイン内乱では、イタリアとドイツは共同で、ファシストのフランコ将軍を支持します。後継のシュシュニク首相もドルフス路線を継承します。しかし、頼みのイタリアがドイツ側についてしまったため、オーストリアは後ろ盾を失います。

その結果、オーストリアはドイツの恫喝に屈してしまいました。オーストリアのシュシュニク首相は、独立を問う国民投票の実施を決定します。

しかし、ヒトラーのオーストリア攻撃の恫喝に屈して、シュシュニク首相は辞任し、親ナチスのインヴァルクトが首相に就任します。そして、1938年3月13日、オーストリアは消滅しドイツの一つの州となったのでした。

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この写真のヒトラーの絵は1938年4月の合併の賛否を問う国民投票の時、投票用紙の記入場所に一枚一枚張られていました。その結果、99.8%がドイツへの合併に賛成しました。

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その他、アドルフ・ヒトラー広場のプレート、ヒトラーに熱狂するオーストリア国民の写真などが展示されています。

105

「ミュージカル「サウンド・オブ・ミュージック」は、オーストリアがドイツへ併合される前夜のザルツブルグが舞台です。トラップ一家の主人ゲオルクは、敬虔な愛国者でドイツとの合併に反対して、アメリカへ亡命しました。

第2次世界大戦が始まってからは、オーストリアはドイツ本国の一員として参加。その結果、敗戦国となり、戦後、西側陣営の国家として再び独立します。

オーストリアは加害者というより、ナチスの被害者として振舞ってきたため、戦後の戦争責任については曖昧とされてきました。

軍事博物館で強調されているのも、戦中のことよりも戦間期です。なぜナチスドイツに合併されてしまったのか、オーストリアの歴史にとって、汚点となった歴史を省みている感じがします。軍事博物館の展示にも被害者としてのオーストリアが色濃く反映されています。

106 軍事博物館のお土産とカフェエリア

住所:3区 ARSENAL OBJEKT 1
最寄り駅:ウィーン中央駅から徒歩10分ほど
料金:6ユーロ (学生・ウィーンカードで4ユーロ)
開館時間:9:00-17:00
サイト:www.hgm.or.at

ウィーンの街中にある巨大な防空施設跡

ウィーンは第2次世界大戦中、ドイツ各地と同じように1943年から連合軍の空襲を受けることがありました。ウィーン各地には高射砲塔を兼ねたブンカーと呼ばれる、空襲の時、市民が避難する防空施設がありました。ウィーンの高射砲塔は、1940年の秋に建設が開始されます。壁は厚さ2.5m~5mもの鉄筋コンクリートで覆われる頑丈なものでした。防空施設としての機能も兼ね備え、空調や発電機、医療施設、食料庫防空施設が備わっていました。

高射砲塔は二基一組で運用されて、ウィーンを取り囲む三角形を描くように配置されます。つまり、二基一組の3カ所で合計6基の高射砲塔が建てられました。そのうちの2ヶ所を紹介します。

高射砲塔にはG塔とL塔という2種類があります。

G塔
2連装128mm砲×4基と、20mmまたは37mm連装砲多数が配置。

L塔
レーダーを備えた司令塔の役目を果たし、20mm連装砲を備えているが128mm砲は無し。

107 防空施設に避難するウィーン市民

水族館になっている高射砲台

ウィーン西駅とリンクの中間地点の市街地に、不気味にそびえ立つ水族館があります。

コンクリートの不気味な建物は、第2次世界大戦中の高射砲塔跡(G塔)を利用して、現在は「Haus des Meeres」(海の家)という水族館として営業しています。近所の子供たちが遊ぶ程度のエスタルハーズィー公園 (Esterházypark)内にあります。現存する高射砲塔で唯一、再利用されている建物です。

108 「Haus des Meeres」(海の家) 109 エスタルハーズィー公園

この水族館になっている高射砲台の下には、44の部屋があり、各部屋には300人を収容することができたと防空壕でした。

水族館の隣には防空壕に通じる建物があります。そこは拷問博物館として営業しています。

高射砲塔の建物は、ロッククライミングの練習用としても使われています。
ベルリンのアンハルター駅跡近くにあるブンカーの一部も、お化け屋敷として公開しています。負の遺産を水族館、拷問博物館、お化け屋敷などとして利用する発想力は、感情論を優先しがちになる日本人よりも、合理的なヨーロッパ人らしいです。

110拷問博物館の入口

住所:Fritz-Grünbaumplatz 1, 1060 Wien
最寄り駅:U3 Neubaugasse
Url:www.haus-des-meeres.at

市民の憩いの場にある高射砲台

ウィーン中心街の北側にある、王家の狩りの城館と庭園だったアウガルデンには2ヶ所の高射砲台が残っています。現在は市民の憩い場として、ランニングする市民の姿やテニスコート、サッカー場もあるアウガルデン。

111 アウルガルデン

そんなのどかな風景の中、2ヶ所(G塔とL塔)の高射砲台が不気味に残っています。現在はウィーン市で2次利用を検討中のようですが、まだ結論に達していません(2016年3月現在)。

112 G塔 113 L塔 114 G塔 115 L塔

水族館になっている防空壕を兼ねた高射砲台、アウガルデンの高射砲台が今でも周りの景色と不釣合いで残っています。建物があまりにも頑丈に造られているので、簡単に取り壊すことができないのです。爆破するには相当な火薬量が必要となり、近隣の建物にも影響が出てしまいます。

それは言い換えれば、当時のナチスドイツが、市民の安全を守るためにどれだけ真剣に取り組んでいたかがわかります。ベルリンにも未だに取り壊せないブンカーがたくさん残っています。ユダヤ人を強制収容所送りにして、国民から言論の自由を奪ったヒトラーも、自国民の生命は大切にしていたのです。

ウイーンにはその他にも4ヶ所の高射砲台が現在でも残されています。

住所: 2区, Obere Augartenstr.1
最寄り駅: U4 Friedensbrücke

ウィーンの陥落

第2世界大戦末期の1945年4月2日から4月13日にかけて、ソ連軍によるウィーン攻撃が始まります。激しい戦闘の末、ウィーンはソ連軍によってナチスドイツから解放されます。米英軍の度重なる空襲、ソ連軍との地上戦によって、ウィーンの歴史的建造物の多くは荒廃してしまいました。

戦後、周辺はソ連軍によって占領されていましたが、ウィーンはベルリン同様、都市の重要性から連合軍による4ヶ国で分割統治されます。

1955年、ソ連の影響をかわして、永世中立国宣言を行い西側諸国に組み込まれることになりました。

【連載ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡

著者:HIRO

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ヨーロッパ各地の世界大戦の戦争遺跡を周って取材しています。
だから、戦争遺跡ライターです。
学生時代から、事件、事故現場、戦争跡地を野次馬のように行くダークツーリズムラー。
特にヒトラー、ナチスなど、第2次世界大戦のヨーロッパ戦線に関することが一番好き。
しかし、重いテーマの旅をしているかというと、旅行先では美味しいご当地グルメを堪能して、お酒を飲んでいます。時には道に迷ってテンパったり、ヨーロッパの街並みに感動したりと、見かけはヨーロッパが大好きな普通の旅行者です。

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「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズを
ダークリズム・ジャパンのニコニコ動画にも寄稿しています。
http://ch.nicovideo.jp/darktourism