首都ベルリンより先に狙われた港町ハンブルク
連合軍によるドイツ本土への戦略爆撃
戦争初期、ドイツ軍による本土への空襲に苦しめられたイギリス軍は、1941年に参戦したアメリカ軍も加わり、1943年以降、ドイツ本土への戦略爆撃を本格的に開始します。攻撃の中でも力を入れたのが、「戦略爆撃」と呼ばれるものです。
イギリス、アメリカ軍による戦略爆撃
戦略爆撃とは、前線と離れた敵国の都市、港湾、工場を爆撃することを言います。その目的は敵国に心理的にも物理的にもダメージを与えることでした。戦略爆撃という概念は、航空技術が大きく進歩した第二次世界大戦の頃から本格的に用いられます。
イギリス軍は夜間に縦断爆撃で住宅地を破壊し、住民に恐怖を与える心理面を重視(無差別爆撃)し、アメリカ軍は昼間に軍事施設や工場を直接狙い、戦力そのものを低下させる物質面を重視(精密爆撃)しました。そのためドイツ本土への爆撃は、昼と夜、異なる国から休むことなく爆撃を受けることになったのです。
ハンブルクを廃墟にしたゴモラ作戦
1943年7月末の数日間、イギリス、アメリカ両軍による24時間体制の共同作戦で爆撃機がハンブルクを襲います。延べ3,000機が出撃し、9,000トンの爆弾が投下され、3万~4万人(5万人という説も有)が犠牲、家を失った人は90万人と言われています。犠牲者の大半は民間人でした。この一連の空襲がイギリス軍のコードネーム「ゴモラ作戦」です。
特に同年7月30日、イギリス軍により行われた空襲の被害は甚大でした。当日の空気が乾燥していたこともあり、火災旋風を引き起こし、路上のアスファルトが発火、防空壕に避難していた人達が数万人亡くなりました。
ハンブルクには当時の痕跡を示すものが残っています。
ハンブルクに残る大空襲の痕跡
爆撃機の標準点となった聖ニコライ教会
観光客で賑わう赤レンガ倉庫街の近くに、高い尖塔があり黒く焦げた不気味な姿の聖ニコライ教会があります。聖ニコライ教会は高さ147.3メートルあり、建てられた1874年当時、世界で一番高い建物でした。そのため1943年、ハンブルクを襲った連合軍の爆撃機の攻撃の標準点とされました。その聖ニコライ教会は反戦のモニュメントとして、空襲によって破壊されたままの状態で残っています。
ドイツ国内には、ベルリンのカイザーヴィルヘルム教会、ケルンの大聖堂のように空襲の爪痕が残っている教会や大聖堂があります。この2つの建物よりも破壊されたままの姿で、全身が焦げてそびえたっている聖ニコライ教会は空襲の生々しさを実感できます。
外部とは異なり、聖ニコライ教会の内部は観光客向けにも整備されていて、教会内はエレベーターがありハンブルクを一望でき、地下には当時の廃墟となったハンブルクの様子がわかる博物館があります。
教会前にある碑文にも下記の文言があります。
「The remains commemorate the victim of the “fire storm” over Hamburg and the victim of German atrocities Europa」
ハンブルク空襲の犠牲者だけではなく、ドイツの侵略行為によって犠牲になった人たちへの弔いのモニュメントであるのもわかります。
最寄り駅
地下鉄 U3 Rodingstmarkt駅
ヴィリーブラント通り(Willy-Brandt-Str)沿い
防空壕で亡くなった370人の慰霊碑
ハンブルク大空襲の犠牲者の慰霊碑が、ハンブルク中央駅から北東の商業地域である地下鉄U3線沿線のMundsburg駅前ロータリーにあります。
これは1943年7月30日、地下鉄(現在この区間は地上)と並行するハンブルク通り(Hamburger str)のデパートの防空壕で、熱と一酸化中毒で亡くなった370人のものです。当時はこの地区は港湾労働者の住宅地だったようですが、現在は商業地域となっており、デパートはありませんがハンブルク通りと並行して巨大なショッピングモールがあります。
慰霊碑には、ドイツ語で亡くなった370人の追悼文と共に下記の文言があります。
「NIE WIEDER FASCHISMUG NIE WIEDER KRIEG」
二度とファシズムを起こしてはならない、戦争は起こしてはならない。
聖ニコライ教会にある碑文と同様に、ドイツ側が受けた空襲の被害を伝えるのと同時に、ドイツ国内でナチスを台頭させてしまい、他国を侵略した戦争加害者としての自戒への一言も記されています。
ナチスドイツが侵略した国々では侵略してきたドイツ軍兵士の弔いは無視されていることが多いですが、ドイツはしっかり過去と向き合おうという姿勢がハンブルクの2か所の碑文からもわかります。
アクセス
地下鉄 U3 Mundsburg駅
大空襲を経験したハンブルクの邦人
日本総領事公邸跡に残る菊の紋章
当時、ドイツと海外との玄関口だった港町ハンブルクには、日本の商社、銀行の支店も置かれ、首都のベルリンについで在留邦人が多く住んでいました。その関係で日本総領事館も置かれていたのです。
1939年8月23日、独ソ不可侵条約が結ばれ、ヨーロッパに戦争開始の空気が決定的になると、日本政府は在留邦人を帰国させるために日本郵船の靖国丸をハンブルクに手配します。ヨーロッパ各地の在留邦人がハンブルクに集まり、帰国の途につきました。
ハンブルク市内には湖が広がっており、当時の日本総領事館の隣にあった総領事公邸の建物が、外アルスター湖の高級住宅街のほとりに当時のまま残っています。
総領事館の建物は、最寄り駅である地下鉄U1線のKlosterstem駅を降りて、駅近くのロータリーから伸びているザンクト・ベネディクト通り(St.Benedict- Straβe)を進み、川を渡って交差する1本目の道であるラインプファット(Leinpfad)を右側に曲がります。外アルスター湖に通じるラインプファットを歩いていくと左側に菊の紋章が飾られてある建物があります(住所Leinpfad 6)。住所の通り外アルスター湖側からだと6つ目の建物になります。
現在のハンブルクの日本領事館は、市内中心部の内アルスター湖沿いにありますが、当時は郊外の外アルスター湖近くにあったのです。当時の日本総領事館の建物は残っていませんが、日本総領事公邸の建物の裏に日本総領事館があったようです。当時の公邸の建物がそのまま残っているのは、この一帯は大空襲を免れていた地域なのかもしれません。菊の紋章が飾られているということは、最近まで公邸としては使われていたことが伺えます。
アクセス
最寄り駅: 地下鉄U1線 Klosterstem駅
住所: Leinpfad 6
ハンブルク大空襲はベルリン在住の日本人もパニックに
ハンブルク大空襲はベルリン在留の日本人も浮足立たせます。ハンブルク大空襲の情報を得たベルリン駐在の日本のマスコミの記者は、ベルリン在住の日本人に警告します。
「ハンブルクはもう廃墟だ、あんな空襲を受けたら防ぐ方法はない。ベルリンにもとんでもない空襲が必ずあるぞ、早く疎開先を探せ、近郊列車の終点くらいじゃ危ない、うんと遠い所に行くんだ!」
ハンブルクは地理的にイギリス本土と近く、首都のベルリンが本格的な空襲を受けてない戦争初期から度々空襲されていました。ハンブルク一帯には開戦直前から敵機の侵入を防ぐ気球がたくさん打ち上げられており、ベルリンでは見られない光景だったそうです。
イギリス本土からの距離、港町という戦力的な重要性を考えてもハンブルクは、敵から狙われやすい都市だったのです。
ハンブルク大空襲後、焼け跡を歩いたナチスの宣伝相のゲッペルスは、被害の深刻さに絶望、その報告を受けた空軍大臣ゲーリングは号泣、そして、ヒトラーも恐れおののいたと言われています。
大空襲にも耐えたホテル、アトランティック・ケンピンスキー
最後に大空襲の被害を奇跡的に逃れたハンブルクの最高級ホテル・アトランティック・ケンピンスキーを軽く紹介します。
ハンブルク中央駅のすぐ近くにある1909年創業のアトランティック・ケンピンスキーは、現在でも著名人の利用が多く、1926年2月、ヒトラーも演説しています。政権を取る前のヒトラーというと、ミュンヘンなど南ドイツで活動していたイメージがありますが、北ドイツにもナチスの支部がありました。北ドイツのナチスの指導者達はヒトラーが毛嫌いしていた共産主義にもシンパシーを抱いていました。
そこでヒトラーはハンブルクに乗り込み、「先の大戦は共産主義者のために負けた。」、「共産主義者を絶滅させるまで一切攻撃の手を緩めない。」など、共産主義を徹底的に攻撃する演説を行い、集まった上流階級の名士たちから嵐のような拍手を引き出すことに成功したのでした。その舞台がホテル・アトランティック・ケンピンスキーでした。ヒトラーと共産主義の関係は「キールで水兵が蜂起した痕跡を巡る」編でも触れます。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,512円(税込)