侵入されやすい港町の首都コペンハーゲン
デンマークの首都・コペンハーゲンは、ドイツ国境から陸続きのユトランド半島ではなく、東側にあるシェラン島の南東部に位置しています。
(スウェーデンとは、コペンハーゲン空港から鉄道で15分。バルト海と北海の間のオーレスン海峡を渡れば、すぐという近さです。)
海峡沿いにある港街のため、物流拠点として非常に優れていたコペンハーゲン。しかし、それが仇となり、海上から外敵に侵入されやすいという欠点がありました。
1940年のコペンハーゲン
ドイツ軍によるデンマーク攻略作戦とは
1940年4月9日、ドイツ軍の北欧侵攻(ヴェーゼル演習作戦)におけるデンマーク攻略作戦は、ドイツと国境を接しているユトランド半島に陸路で進撃する部隊と、首都コペンハーゲンがあるシェラン島に海路で侵入して占領する部隊に分かれて進撃を開始します。
デンマークは兵力1万人ほど、国土も平たんであったため、ドイツ軍はデンマークを占領するのは容易と考えていました。事実デンマークでの戦いは、数時間で終わります。
その数時間の戦いはどのようなものだったのか。次の項で詳しくみていきましょう。
デンマーク軍が籠っていたカステレット要塞
海上からの外敵の侵入を防ぐために、コペンハーゲン港の入り口には、17世紀の三十年戦争の頃、建設された運河に囲まれた星形のカステレット要塞がありました。
1940年4月9日、ドイツ軍がデンマーク港に侵入した際に、デンマーク軍の部隊が駐屯していたカステレット要塞を素早く占領してしまいます。コペンハーゲン唯一の防壁を抑えてしまえば、あとはカステレット要塞から徒歩15分圏内の国王がいるアメリエンボー宮殿を制圧するだけです。
衛兵が少しだけ抵抗したアメリエンボー宮殿
一戦も交えずカステレット要塞のデンマーク軍を降伏させた、ドイツ軍の首都占領部隊は、アメリエンボー宮殿に向けて行進を開始します。
その頃、アメリエンボー宮殿では、当時のデンマーク王であるクリスチャン十世、政府高官、陸軍の高官が集まって、ドイツ軍への対応を協議していました。無抵抗でドイツ軍を受け入れる旨は決まっていましたが、陸軍のプリオル将軍だけが抗戦を主張します。
プリオル将軍
「一戦も交えず降伏したら、我が軍は何のために存在したのかがわからなくなります。」
国王クリスチャン十世
「将軍、我が軍の軍隊は長期間の戦闘をした経験があるだろうか?」
プリオル将軍
「それはございません・・・・。」
そんな中、アメリエンボー宮殿に向けて、ドイツ軍が行進してきたので、衛兵が発砲、銃撃戦となります。その直後、国王クリスチャン十世から停戦命令が下り、戦闘は中止になり、国家の主権は保持されることを条件にデンマークは降伏。
ラジオ放送で、ユトランド半島のデンマーク軍へも抵抗を止めるように勧告。コペンハーゲンの市民が会社に出社する時間には、デンマークはナチスドイツの支配下になっていたのでした。
その後、デンマークに対しては寛大な占領政策がとられます。
観光ルートにあるコペンハーゲンの戦跡
そんな歴史があるコペンハーゲンには、当時の戦跡が様々な場所で残っています。 その戦跡を追ってみましょう。
カステレット要塞
カステレット要塞は、現代では要塞跡の公園として市民の憩いの場となっています。要塞内には兵舎跡や教会があり、運河に沿った星形の要塞を囲む歩道にはランニングする市民の姿も見えます。
1941年に独ソ戦開始時に激戦地となったベラルーシのブレスト要塞も、現在では市民の憩い場となっています。街中の戦争跡地を利用して憩いの場として活用するのはヨーロッパ各地で見ることができます。
ブレスト要塞は、「独ソ戦が始まった日から激戦地になった、ベラルーシのブレスト要塞」で紹介しています。
ご興味があれば、併せてご覧いただけたらと思います。
カステレット要塞の入口には、イギリス軍の兵士をモチーフにしたと思われる第二次世界大戦中の銅像が建っています。「1940-1945」とデンマークがナチスドイツの支配下にあった年代が記されています。銅像の兵士の顔は無念そうに下を向いています。戦争終結までデンマークを解放できなかった、イギリス軍とデンマーク国民の無念さを表しているようです。
また公園のすぐ近くにはコペンハーゲンで一番有名な人魚の像もあり観光客でにぎわっています。
元イギリス首相、チャーチルの名前がつけられた公園名
このカステレット要塞周辺の公園は、第二次世界大戦中、デンマークをナチスドイツから解放してくれたイギリスへの感謝の気持ちとして、当時の首相だったチャーチルの名前が付けられています。
その公園の一角の木陰の中にポツンとチャーチルの胸像が立っています。胸像がうつむき加減なのは、チャーチルがトレードマークの葉巻をうっかり落としてしまい探している最中だとか。観光客で賑わう人魚の像とは対照的に、チャーチルを見て反応する人はあまりいません。
解放に導いたとはいえ、地政学上、連合軍の進路とは離れていたので、ナチスドイツが崩壊する直前まで占領下に置かれ、事実上、放置されていたデンマーク。
その経緯を考えれば、イギリスに対するリスペクトというよりは、デンマーク人の少し冷めた反応が、寂しい場所に置かれ、茶目っ気のあるチャーチルの胸像からうかがえる気がします。
人魚の像は、旅行者からその地味さに世界三大ガッカリの一つと言われていますが、人魚の像から数百メートルしか離れていない、チャーチルの胸像も歴史を知っている人が訪れるとガッカリするかもしれません。
チャーチル公園内には、2018年7月現在、ナチス占領下の時代、デンマークのレジスタンスの記録を展示する抵抗博物館が建設中です。 ヨーロッパでも日本でも、第二次世界大戦を経験した世代は少なくなってきていますが、 第二次世界大戦に関するモニュメントが次々に建てられているのが今のヨーロッパ。
デンマークの世界一の海運会社マースクライン
カステレット要塞とアメリエンボー宮殿の間の港湾沿いには、世界一の売り上げを誇るデンマークの海運会社マースクラインの本社があります。
地政学上、物量拠点として重要なデンマーク
コペンハーゲンはシェラン島の南東に位置して、イギリス、西欧諸国に面している北海と北欧、東欧諸国に面しているバルト海の間にあります。デンマークの国土全体の位置も、ヨーロッパ全体の中間地点に位置しています。
そのため、第二次世界大戦だけでなく、三十年戦争、ナポレオン戦争など近代は他国の戦争に巻き込まれ、19世紀にはドイツ国境と接するユトランド半島の国境線を巡り、ドイツとも戦争を繰り返しました。
デンマークに世界一の海運会社が生まれたのは、ヨーロッパの中で生き残るために、地政学を生かして武力よりも、物流拠点として発展していくという道を選んだ結果ではないでしょうか。
本記事で紹介した場所は、コペンハーゲンを訪れた観光客の多くが巡るルート上にあります。ぜひコペンハーゲン中央駅から、市庁舎の前を通って、目抜き通りストロイエを歩き、コペンハーゲンの象徴、ニューハウンを横目に見れば、カステレット要塞とアメリエンボー宮殿はすぐそこです。
コペンハーゲン港に位置するカステレット要塞とアメリエンボー宮殿を実際に見てみれば、ドイツ軍が海上から侵入してしまえば、コペンハーゲンを抑えるのがいかに容易だったかがわかります。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,512円(税込)