ドイツ占領下の歴史と現在の観光地としての面を持つヴィシー
温泉保養地に置かれた首都
第二次世界大戦でドイツに敗れたフランスは、南部にペタンを元首とする対独協力政権が誕生します。首都をヴィシーという街に置いたので、「ヴィシーフランス」「ヴィシー政権」と呼ばれます(1940年~1944年)。
ヴィシーフランスはドイツの傀儡政権とはいえ、れっきとした主権国家。戦前、第三共和政のフランスが持っていた植民地や軍隊の多くを引き継ぎます(一部の植民地は自由フランス側につく)。
また、当時ドイツと交戦中の国以外は、ロンドンに亡命したド・ゴール率いる「自由フランス」ではなく、ヴィシーフランスを正当なフランス国家として国交を持っていました。
ヴィシーフランスが誕生するまでのいきさつは、「2つの政権に分かれていた第二次世界大戦中のフランス」編をご参照ください。
下の写真の青の地域がヴィシーフランスの領土となります。首都のヴィシー(VICHY)は、赤のドイツ軍占領下の地域に近い北部にあります。
首都がヴィシーに置かれた理由は、温泉保養地なのでホテルが多く、政府関係の建物や外交団の官舎を置くのに都合がよかったことや電話通信網が発達していたことがあります。
現在でもヴィシーは温泉保養地として、ガイドブックに紹介されています。特に当時の痕跡はなさそうだったので、筆者も訪れたことはありませんでした。とはいえ、ヴィシーは世界史の教科書にも出てくる街なので、見過ごすわけにはいかず、今回、訪れてみることにしました。
ヴィシーはパリから列車で3時間
パリのベルシー駅からインターシティー(国内長距離特急)で約3時間もすると、ヴィシーに着きます。朝にパリを出発すれば日帰りで行ける距離にあります。
ヴィシーの街は、人口が約26,000人で、ここがフランスという大国の首都だったのかと思わせるくらい小さい静かな街です。ナポレオン3世が療養のために温泉地として開発したのが街の始まりです。
駅から伸びる道を真っすぐ歩いていくと、10分足らずで街の中心部に出ることができます。
大都市のパリから来ると、のどかで白い建物が美しいです。またパリに比べて物価も安いようで、ヨーロッパに来ると必ず食べる、筆者が大好物のチャーハンもパリの半額の値段で食べることができました。
街の中心部にあるスルス公園(Parc des Souces)界隈に、ヴィシーフランス時代の痕跡、現在の観光地がほぼ揃っているので紹介します。
街の中心部がヴィシー政府の官庁街
ヴィシー政府の議会が置かれた劇場
スルス公園には劇場(Opera Paiais des Congres)があります。ヴィシーフランス時代は議会として使われた建物です。
この劇場で、1940年7月10日、ペタンに全権を与える憲法案が、賛成569票、反対80票で可決されました。1970年から続いた君主を持たない民主主義だった第三共和政が終焉を迎えた瞬間でした。
ペタンは、ドイツに敗れた原因は、第三共和政による道徳的脆弱さにあると考えました。
第三共和政の精神だった、「自由、平等、友愛」を捨て、「労働、家族、祖国」に置き換える国民改革を進めます。ペタンを元首とするヴィシーフランスは権威主義的な国家体制を築いていきます。
ヴィシーフランス内はペタンの肖像で溢れ、ポスター、メダル、絵葉書などペタングッズが作られます。学校の道徳の授業では、ペタンを称える教育が行われて、個人崇拝体制が築き上げられたのでした。
そして、1940年10月にドイツ軍占領地域のモントワールでヒトラーと会見して、正式にコラボレシオン(対独協力)を進めていくことになります。
ヒトラーとペタンが会見した場所は、「ヒトラーに対独協力の誓いをした駅舎跡、モントワールの精神(仮題)」編として、今後紹介する予定です。
劇場を正面から見て右手には、劇場への出入り口があります。そこの壁に小さい碑があります。
と、フランス語で刻まれています。しかし、ヴィシーフランスに反対した信念を持った議員のことのみに触れて、ペタンに全権を譲ることに賛成した569人の議員には一切触れていません。
国家元首ペタンの執務室があった建物
スルス公園のすぐ隣のパルク通り(Rue du Parc)とプティ通り(Rue Petit)の角にパルク館(LE PARC)という、現在はアパートになっている建物があります。当時はヴィシーフランスの政府庁舎で3階にペタンの執務室がありました。
ヴィシーフランスが発足した当初は、第一次世界大戦の英雄のペタンは救世主としてフランス国民に熱狂的に支持されます。
当時は、ヴィシー市民がペタンを称える歌を唄いながら、パルク館の前を行進して、3階の執務室のバルコニーからペタンが応えていました。しかし、それが続いたのは、最初の2年間くらいです。ヴィシーフランスがユダヤ人の検挙、ナチスに協力しているのが明るみになってくると、支持を失いはじめていきます。
ペタンは、時々ヴィシーフランス内を遊説に周る程度で、ほとんどパルク館から出ることはなかったといわれています。
パルク館の前にはひっそりと碑が立っています。
1942年8月、6,500人以上のユダヤ人がヴィシーフランス政府によって検挙され、ナチスドイツに引き渡されたことがフランス語で書かれています。
しかし、劇場の碑と同じく「フィリップ・ペタン」の文字は一言も記載されていません。
だから、ヴィシーフランスの国家元首だったペタンが住んでいたことは、この碑からだとわかりません。現在のヴィシーにとって、ナチスドイツに協力したペタンには触れたくないのかもしれません。
このパルク館があるパルク通りには観光案内所もありますが、ヴィシーフランス時代の歴史建造物を紹介する観光案内のパンフレットは見当たりませんでした。
【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その1
> 【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その2