【第29回】独ソ戦が始まった日から激戦地になった、ベラルーシのブレスト要塞|トピックスファロー

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2015年10月14日
【第29回】独ソ戦が始まった日から激戦地になった、ベラルーシのブレスト要塞

1944年6月22日、独ソ不可侵条約を一方的に破って、ソ連領内に侵入したドイツ軍、両国の存亡を賭けた大戦争と発展した独ソ戦。開戦時の国境の一つが現在はベラルーシ領内のブレストです。そんなブレストの街を歩いてみましょう。

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ヨーロッパの北朝鮮?ベラルーシとは?

ベラルーシは1991年にソ連の共産主義政権が崩壊すると、隣国のウクライナと共にCIS(独立国家共同体)として独立しました。ウクライナは2004年の自由化のオレンジ革命によって、ロシアよりもEU路線との結びつきを強くしています。一方、ベラルーシはCIS創設にあたって主導的な役割を果たし、ロシア寄りの体制をとっています。
ベラルーシの政治体制は、大統領の権限が非常に強く、アメリカによって北朝鮮と並んで、「圧制の拠点」として名指しで批判されています。

どうやっていく?ベラルーシのブレスト

ベラルーシのビザの取得方法

日本からベラルーシは、直行便がないので、ベラルーシに入国するにはヨーロッパの都市で乗り継ぎか、周辺国から陸路で入国するしか方法がありません。

また、ベラルーシを旅行するのに厄介なことが、ロシア同様、旅行者が自由に旅行することができないことです。
ベラルーシを観光目的で旅行するには、日本国籍を有する者は、ビザが必要になります。 そのビザを取得するためには、バウチャーが必要になります。
バウチャーとは、滞在都市やホテルをあらかじめ決めて、それら全ての事前手配が完了したことを示す書類です。

BOOKING.COMのサイトなどで、ベラルーシのホテルをインターネット上から予約することは可能です。しかし、ベラルーシ大使館が認める書類が全て揃わないと、ビザ申請はできません。手数料はかかりますが、旧ロシアに強い専門旅行会社に頼った方がスムーズに手配ができます。

(参考)
下記が、私が依頼した旅行会社の料金です。

ホテル 1泊 10,000円
ベラルーシ保険 3,000円(2日間)
地上手配料 5,000円
ビザ代行手数料 10,000円 (パスポートを2週間預けるのが条件)


余裕を持って、出発の2ヶ月前から予約を開始するとよいと思います。

今回はポーランド側からの行き方を紹介しますが、手配を依頼した旅行会社にポーランド領内の切符の手配も一緒にしてもらうとよい思います。
ポーランドはビザが必要ではないので、自由に旅行ができますが、列車の時刻は流動的だからです。

ポーランド側からの国境越え

ベラルーシの国境、ブレスト駅

ブレストは、ベラルーシ側のポーラントとの国境の街となります。首都のミンクスからは、列車で所要約4時間30分ほどです。ブレストはロシアのモスクワからの鉄道路線上にあり、ポーランドとの国境駅になります。列車がブレスト駅を通過する際は、旧ソ連とポーランドの列車の軌道の幅が違うので台車の交換をします。この軌道の幅が違うことは、第2次世界大戦中の独ソ戦で、ドイツ軍が前線へ補給する際に苦戦する要因の一つともなりました。
ポーランド側へ出発する際は、乗車前にパスポートコントロールの手続きをすることとなる。出発時刻より、早い時間に到着する必要があります。(発車1時間前が目安)

ポーランドの国境、テレスポル駅

ポーランドのテレスポル(Terespol)という街がベラルーシとの国境になります。
テレスポルは住宅街で特に観光する場所はありません。駅周辺には両替所が数ヶ所、 スーパー、売店が1件ずつ、バーが2件あります。バーではハンバーガーやポテトなど軽食も取れるので、列車の乗り換え時間が長かったら、そこで時間を潰しましょう。
テレスポルまではワルシャワから列車で約2時間30分かかります。そのテレスポルからブレストの国境を越える区間は、折り返し列車が運行されているのです。


シェンゲン協定によってEU諸国内は、パスポートコントロールはありませんが、ベラルーシはEUではないの、テレスポル駅構内で出国審査があります。ブレスト行きの列車が出発するホームは、国境審査を通過した乗客しか入ることができません。テレスポル~ブレスト間は、数キロの距離ですが、列車はゆっくりと徐行運転で運行されます。車窓からは、線路の脇に所々兵士が立っており、物々しい雰囲気の中、約20分かけてブレスト駅に到着します。

そして、ブレスト駅においてベラルーシ側の入国審査があります。
また、ポーランドとベラルーシには1時間の時差があり、ポーランドの方が時間が進んでいます。ブレスト駅に着くと、時間が1時間戻っていて、反対にテレスポル駅に着くと、1時間進んでいるのです。
まテレスポル、ブレスト駅間の国境越えは、ヨーロッパとロシアの境を肌で実感することができます。

ブレストの街並み

列車を降りたら駅舎に入らず、ホームの東側にある歩道橋を渡るとトロリーバス乗り場に着きます。その前には土産屋の小規模な露店も立ち並んでいます。

ブレストは大きい街ではないですし、ブレスト要塞以外、見どころは特にありませんので、半日もあれば周ることできます。
他のヨーロッパ諸国のようにツーリストインフォメーションがないので、街の地図などは宿泊するホテルでもらうしかありません。
また、通貨のベラルーシルーブルは国外では両替ができません。ブレストに着いた日が日曜日だと、銀行が閉まっています。その場合は、少し遠いですが、ブレスト最大のホテル、「インツーリスト」内の両替所に行くとよいでしょう。

街並みは、ヨーロッパの諸都市のような、昔の街並みが残る旧市街地区、中心となる市庁舎や教会がある広場などはありません。旧ソ連の都市にみられるような区画され街づくりで、高層マンションも目立ちます。



駅から右手に歩くとのどかな公園があり、湖畔には地元の料理が食べれるレストランもあります。園内には小規模な遊園地もあり、夏の夕方には家族連れやビールを飲んでいる地元の人達で賑わっています。また、公園の入口には独ソ戦の慰霊碑もあり、ブレストは独ソ戦の火ぶたが切られた街だと実感できるでしょう。
公園の前はレーニン通りとなっており、公園から15分ほど歩けば、マシュロヴァ大通りに着きます。左に進めば、ホテル「インツーリスト」、右に進めば、ブレスト要塞に着きます。

独ソ戦が開始されるまでの経緯

独ソ戦が開始される前のブレスト要塞

ブレスト要塞は、ブーク川の両側にまたがる形で、ロシア帝国時代の1842年に完成しました。当時はリトアニア領だったので、「ブレスト・リトフスク要塞」と呼ばれていました。要塞の北東に位置するブレストの街は、ワルシャワとモスクワを結ぶ街道の重要な位置にあります。

第1次世界大戦中の1918年には、ロシア革命によって、レーニン率いるソ連はドイツとの講和条約(ブレスト・リトフスク条約)がブレスト要塞で結ばれました。

しかし、第1次世界大戦では、ドイツが連合国軍に敗北してしまいます。戦後のヴェルサイユ条約によって、ポーランドの独立が回復して、ブレストはポーランド領となります。 第2次世界大戦が始まった1939年、ドイツがポーランドに侵攻した際にポーランド軍は、司令室をワルシャワからブレストに移して抵抗します。激しい攻防の末、ブレスト要塞はドイツ軍の手に落ちました。
戦争直前に結ばれた独ソ不可侵条約によって、ソ連軍も東側の国境からポーランドへ攻めてきます。ドイツとソ連による勢力分割線によって、ブレストはソ連領となりました。
ポーランド降伏直後、ブレストにてドイツからソ連への引渡しの式典も行われたのです。

ガラスの仮面だった独ソ不可侵条約

その後、戦争は、ドイツのフランス侵攻、イギリス本土爆撃とヨーロッパ内で戦火が拡大していきます。その間、ドイツとソ連は独ソ不可侵条約によって中立を守っていました。

しかし、ソ連は1940年6月、ルーマニアのベッサラビアと北部ブコビナ、翌月、リトアニア、ラトビア、リトアニアのバルト3国を併合させてしまいます。特に北部ブコビナは、独ソ不可侵条約の秘密議定書の協定違反であり、ヒトラーは激怒します。
ドイツへの石油供給地であるルーマニア、バルト海沿岸のドイツの飛び地、東プロシアにソ連の脅威が及んできたことを意味したのです。
一方、ドイツもソ連勢力圏と決められていたフィンランドやブルガリアに軍を送り、ルーマニアに親独政権を樹立するなど、ソ連を刺激します。

こうして独ソ関係が悪化したため、1940年8月、ヒトラーとソ連の外相モロトフの会談が、ベルリンで開かれますが、物別れに終わりました。
そして、ヒトラーは、ソ連打倒の準備を水面下で進めていくことになります。
水と油と言われた政治イデオロギーを越えて結ばれ、世界中を驚かせた独ソ不可侵条約は、所詮、ガラス製だったのです。

1941年6月22日、午前3時15分、バルト海から黒海に至る3000キロの独ソ国境に終結した350万人のドイツ軍将兵が、ソ連へ進撃を開始します。「バルバロッサ」と名付けられたドイツ軍のソ連侵攻作戦は、4年に及ぶ未曾有の大戦争となります。その国境の一つがブレスト要塞だったのです。

ブレスト要塞の攻防

6月22日午前4時、ドイツ軍のブレスト要塞へ攻撃が開始されました。
水路と城壁で囲まれたブレスト要塞は、前近代的な構造でしたが、要塞内に据えられたソ連軍の大砲は、鉄道の鉄橋、舗装道路を射程圏内に納めていました。
強固な要塞攻略には、ドイツ軍のお得意の「電撃戦」の戦術は通用しませんでした。
1939年のポーランド戦の時と同じくブレスト要塞攻略に大苦戦させられます。

ドイツ軍は航空機の爆撃、火砲の支援を受けた歩兵による肉弾突撃しか術がありませんでした。そのため、数日間は水路で囲まれた要塞内へ突入することができませんでした。
6月29日から30日にかけて、ドイツ空軍、第二航空艦隊のシュトゥーカによる急降下爆撃を併用した総攻撃が行われました。500キロ爆弾と1,800キロ爆弾を投下して、防御施設を破壊することに成功します。
ドイツ軍は、一週間にわたり激戦を続けたブレスト要塞を陥落させ、約7,000名のソ連兵を捕虜にしました。その時にはドイツ軍の中央集団は、ミンクスを陥落させていましたが、ブレスト要塞では、ソ連軍の組織的な抵抗が終わった後も、8月に全滅するまで残存兵が抵抗を続けたのです。

当時の戦闘の跡が残っているブレスト要塞

ブレスト要塞への行き方

ブレスト要塞は、ブレスト駅から南西1.5キロの位置です。駅からだと徒歩で30分以上かかります。ブーク川沿いの並木道となっているマシュロヴァ大通りを進んでいくと、入口である星型の形をしたコンクリート製のトンネルに着きます。入口では勇敢な歌やコツン、コツンと兵士が歩く音をたえず流しています。

ブレスト要塞の歩き方

ブレスト要塞は、ブーク川に囲まれた島部分の中心部と、北側には城壁に囲まれた地区が残っています。


島の中央の広場までの通りは、飲み物と軽食を売る売店が何軒かあるのみです。その通りの左側にソ連製の戦車のレプリカが数台置いてある広場があります。そこはブレスト要塞内の唯一の土産の売店があります。ソ連軍の軍服を着て記念撮影ができたり、売店の中は射撃遊びができて、ヒトラーやスターリンの顔が壁に描かれていました。しかし、これといって賑わっている感じもしません。
中央の広場に着くと、拳銃をモチーフにした高いオベリスクと、人の顔をかたどった巨大なコンクリートの像(像の名前は「勇敢」)があります。その像の前には「永遠の炎」が燃えていて、メモリアルプレートにはブレスト要塞で亡くなった962人の名前が書かれているのです。


島にはいたるところに当時の破壊された銃弾が残る兵舎や城壁が残っています。


ちなみに広場の手前にあるレンガ造りの廃墟は、「白い宮殿」の跡です。この宮殿で1918年、レーニン率いるソ連とドイツの間で、ブレスト・リトフスク条約が調印されました。


「白い宮殿」跡の右側後方にある建物の中にブレスト要塞博物館が入っています。

ブーク川にかかっている橋を渡ると、林が生い茂る一帯の北側には城壁も残っています。

ブレスト要塞博物館

ヨーロッパの第2次世界大戦の戦勝国の博物館は、エンターテイメント性があり家族連れでも楽しめるようになっています。ブレスト要塞博物館は、カフェテリアやパンフレット類は一切なく、小さいお土産の売店が併設されているくらいです。また、トイレも併設されていないので、トイレに行く場合は、一度外に出て、白い宮殿を越えた反対側の建物まで行かなくてはなりません。トイレの設置という些細なことですが、旧共産主義時代の非効率的な部分が残っているのを垣間見ることもできます。

終戦直後のベルリンの絵

1階が入口で、主な展示は2階になります。階段を上がったところにある最初に掲げられているのが、ソ連軍に占領されたベルリンの街の絵です。
一見、美術館にある中世や古代のヨーロッパの戦争を描いたような絵画は、1945年のベルリンなのです。
戦火で家を失ったベルリン市民や難民を交通整理するソ連軍の兵士、左側には国会議事堂、右側にはブランデンブルク門があり、半壊したそれぞれの建物にはソ連の赤い国旗が掲げられています。
ドイツ国内は勿論、戦勝国だった西側連合国の博物館や記念館では、このような絵画を目にしたことがありません。
この絵画によって、米英連合軍よりも先にベルリンに突入して、ナチスの心臓部を打倒したソ連を、訪問した見学者の意識に植えつけます。

ブレスト要塞攻防戦の生々しい記録

ブレスト要塞博物館内は、独ソ戦の経過順にその時々の記念品を展示しています。館内は赤軍をイメージした赤色で統一されています。
言語はロシア語表記のみなので東部戦線で孤軍奮闘して、ナチスドイツを倒した戦勝国ソ連のプライドが感じられます。

最初の部屋は、要塞の歴史、1918年のブレスト・リトフスク条約の調印式、1939年のポーランド戦後の要塞のドイツ軍からソ連軍への引渡し式典の写真の展示など、独ソ戦前のブレスト要塞の歴史に軽く触れています。


次の部屋から、雰囲気が一気に物々しくなります。1941年のブレスト要塞攻防戦に関する展示が中心です。

ドイツ軍の攻撃が始まった朝4:00を指したままの壊れた時計、攻撃が始まった1941年6月22日(日)の日めくりカレンダー、1941年6月22日のドイツ軍の侵攻を伝えるソ連の新聞、炎で溶けてしまった壁、ブレスト要塞内に立て篭もるソ連軍兵士の絵画….





ロシア語がわからくても、ビジュアルで充分、独ソ戦勃発時のブレスト要塞の緊迫感が伝わってきます。

そして、最初は気づきませんが、部屋を進んでいき、最初の部屋を振り返ると、不気味に浮かび上がる「1941」の文字


ブレスト要塞攻防戦以降の独ソ戦の展示は省かれ、最後はドイツに勝利した時のソ連軍の歓喜に満ち溢れた展示になっています。


ナチス時代の歴史を淡々と伝える敗戦国ドイツの博物館、勝利した歓喜と悲惨な歴史を伝える連合国側の博物館、ソ連側の博物館は、そのどちら側とも一線を置いています。
開戦前にイギリス・フランスのソ連への不信な態度、独ソ戦後も1944年6月の連合軍のノルマンディー上陸作戦まで約3年間は、ヨーロッパ大陸ではソ連軍のみがドイツ軍と戦っていました。
ベラルーシでは、独ソ戦を世界全体の戦争である第2次世界大戦と区別して、「大祖国戦争」と呼んでいます。なので、悲惨な歴史を伝えつつもソ連の強さを強調した展示となっているのです。展示に英語の表記がないはそのためかもしれません。

開館時間:9:00-18:00
休館日:火曜
博物館以外の要塞内の見学は無料、入場時間の制限なし。

その後の独ソ戦

独ソ戦開戦後、ドイツ軍は快進撃をみせますが、兵站の問題、冬将軍の到来などで、モスクワの手前で頓挫してしまいます。
その後もスターリングラード、クルクス、ハリコフなどソ連領域で大激戦が行われますが、 ドイツ軍は独ソ戦を開始したドイツの国境線まで、追い返されます。最後は首都のベルリンがソ連軍の総攻撃によって陥落して、ドイツは無条件降伏しました。
ドイツ、ソ連両国、周辺国の兵士、民間人の戦死者は3,800万人と言われる未曾有の大戦争となりました。その発端の一つが、ベラルーシの国境の街、ブレストだったのです。
ブレストは1944年にソ連軍によって奪還され、「英雄都市」の称号を授かりました。
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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