レマーゲン鉄橋を確保後、イギリス軍より先にライン川を渡航したアメリカ軍
ライン川、北部ではイギリス軍が大規模な空挺、降下作戦を検討
1945年3月7日、ついにライン川のレマーゲン鉄橋を確保したアメリカ軍は、ついにドイツ西部に侵攻。ヒトラー打倒、ナチスドイツの心臓部、首都のベルリンまであと少しとなりました。
レマーゲン鉄橋については、「【第38回】ライン川に架かっていた唯一の橋、レマーゲン鉄橋」をご参照ください。
西部戦線を担うアメリカ、イギリス連合軍は、東部戦線のソ連軍より早くベルリンを陥落させるために躍起になっていましたが、同じ連合軍のアメリカ、イギリス軍内でも先にベルリン奪取の栄冠を勝ち取るために対立していました。
ライン川の北側から進行しているバーナード・モントゴメリー将軍率いるイギリス軍は、ドイツ北部のライン川一体に広がる産業中心地、ルール工業地帯を制圧して、ドイツにとどめを刺そうとしていました。
その作戦名は「掠奪」(りゃくだつ)と命名され、その作戦の中の1つがノルマンディー上陸作戦に匹敵する大規模な空挺、降下作戦でした(作戦名、総合大学(ヴァーシティ作戦))。結果的には、1945年3月23日、ドイツ軍の対空砲火によって、多大な損害を出しながらも渡河に成功、ルール工業地帯を制圧したのでした。
アメリカ軍のジョージ・パットン将軍は「あいつは川と海も区別もできないのだ!」と批判をします。モントゴメリー将軍は対空砲火の危険性を考慮しても前年、同じライン川のオランダで大規模な空挺降下作戦に失敗、その敵討ちを同じ作戦で取りたかったのかもしれません。
オランダの空挺降下作戦、マーケット・ガーデン作戦については、「【第21回】映画「遠すぎた橋」の舞台となった激戦地、オランダのアーネム」をご参照ください。
ライン川渡航に死角になったオッペンハイム
ライン川の南部方面から進撃するそのパットン将軍もモントゴメリー将軍より先にライン川を渡航したいと考えていました。
奇襲効果を考えたいパットン将軍は、マインツから16kmほど南部にあるオッペンハイムという街を選定。同街の船渡場が対岸から死角となっていることが理由です。さらにこの付近は川幅も狭く、砲兵陣地からの援護射撃もしやすいことも想定できました。
そこは1806年、フランスのナポレオンがイエナの戦いでプロイセンと戦った時、渡河した場所でもありました。
3月21日、パットン将軍の指令を受けて、作戦を担当する第12軍は大役を任されることに色めき立ちますが、それも一瞬のことでした。なぜなら作戦決行は翌日の3月22日、渡河準備は今夜中にやらなくてはならなかったからです。
準備時間に余裕がないと一斉に反対の声が上がります。
パットン将軍
「モントゴメリーが23日に作戦を立てている。奴らより遅く渡河をしても意味がない、明日ラインを渡れ!」
奇想天外、パットン将軍とは?
この作戦を強行したパットン将軍は、モットーは「大胆不敵であれ!」であるように、大胆不敵、奇想天外な軍人として敵、味方関係なく知られていました。
臆病な軍人、規律を守らない軍人には非常に厳しく、シチリア島では見舞った野戦病院で、外傷がないのに戦いの砲弾神経症で入院している兵士を殴打する事件を起こします。危うく指揮官を解任されて本国に送還されるところだったのです。
今でいうパワハラに値する行為ですが、一方、勇気ある行動をした兵士には過剰なまでにその健闘を称えました。それが敵兵であっても同じで、パットン将軍は捕虜にしたドイツ軍指揮官を尋問する日課がありました。命を顧みず勇敢に戦ったと判断すれば、捕虜となった敵兵にも拘留中、便宜をはかってあげたのでした。
1945年3月22日、午後10時過ぎ、ついにライン川を渡河
明るい月光に照らされた3月22日の夜、オッペンハイムの2kmほど北にあるナイエルスタインという街の岸から、第12軍の第1大隊の先頭部隊の手漕ぎボートが川面に滑りだしました。対岸のドイツ軍から反撃の銃火が轟きますが、命中弾は少なく、警備の損害で渡河を完了。
それに続き各部隊が渡河を開始。ドイツ軍の散発的な反撃を受けるものの、既にドイツ軍は戦意に乏しく、西岸に上陸したアメリカ軍の部隊を見ると白旗を揚げる部隊がほとんどでした。
翌3月23日の午後には、1本の舟橋がライン川にかけらます。兵員と資材の運送が促されて、西岸へ上陸した部隊の前進が進みました。
その知らせを受けてパットン将軍は狂喜乱舞したそうです。
今回の旅では、その舟橋がかけられた場所に足を運びました。
オッペンハイム近郊にあるパットン将軍記念碑
グーグルマップで偶然見つけた記念碑
パットン将軍の部隊が舟橋をかけた場所は、現在、記念碑が建てられています。
筆者が何か痕跡が残るものがないか、グーグルマップでオッペンハイム付近のライン川を検索していた時、北方のナイエルスタイン(NIERSTEIN)という街の岸に「Rhine Crossing Memorial, Patton」という表示を偶然見つけました。
筆者は戦跡取材のひとつとしてグーグルマップを多用します。インターネットや書籍で情報がなくても該当の街付近をグーグルマップで検索すると、記念碑や博物館などを見つけることがあるからです。
コロナ渦になって2年9ヶ月ぶりの最初のヨーロッパ戦跡取材は、ライン川沿いのパットン将軍記念碑になりました。
パットン将軍記念碑への行き方
日本からの直行便が到着するドイツの玄関口、フランクフルト。筆者も今回のドイツ取材で拠点となった街です。早朝にフランクフルトに到着、フランクフルト中央駅前のホテルにチェックインして、早速向かいました。
記念碑があるナイエルスタインにはフランクフルト中央駅から列車で向かいます。
フランクフル中央駅からの直通電車はなく、ローカル列車でマインツ駅に行って乗り換えます。
フランクフルトからライン川とマイン川が交差するマインツまで約30分、マインツからナイエルスタインまで約15分、乗り換え時間も含めれば片道1時間ほどになります。
マインツからナイエルスタインまではライン川と並走して列車が走ります。
ナイエルスタイン駅は無人駅ではありませんが、2つホームの小さい駅です。
駅から記念碑まではすぐです。レマーゲン鉄橋跡は駅を降りてから街中を歩き、ライン川の岸を歩きますが、ナイエルスタインは駅前の1本の道を渡ったらそこがライン川。駅から見て右側に少し歩いた場所にパットン将軍の記念碑があります。
美しいライン川を望むことができる記念碑
戦跡とは想像できないほど、美しいライン川の風景。そこに記念碑があります。
周りはベンチもあり、記念碑に目をくれる人はほとんど見かけませんが、散歩する市民やサイクリングをしている人達が目につきます。
この記念碑は2017年にできたもので、除幕式ではパットン将軍の孫も参加しました。
銅色のレリーフに左右にドイツとアメリカの国旗がなびいていて、左右にドイツ語、英語で書かれた展示文があります。
翌月更に東進したアメリカ軍はエルベ川湖畔のトルガウでソ連軍と出会います。トルガウでもアメリカ、ソ連の国旗とドイツの国旗もなびいています。作戦を主導した国の国旗、そして蹂躙されたドイツの国旗がなびくドイツの戦跡。
ドイツでは自分たちが被害にあった国内の場所の碑でも、ナチスを台頭させてしまったことに対する反省の言葉が必ず添えられています。だからこそ連合軍の勝利の場所でもドイツの国旗がなびいていても違和感がないのかもしれません。
トルガウについては、「【第15回】米ソ両軍が初めて出会った、「エルベの誓い」の街、トルガウ」をご参照ください。
関連動画 (現地の動画) |
パットン将軍が放尿したライン川のほとりに、メモリアルができていた!(@YouTube) |
パットン将軍が立ち小便をした?
奇想天外、大胆不敵なパットン将軍らしい逸話が残っています。前日にはアメリカ軍に続き、既述の北方のイギリス軍も渡河に成功、翌日の3月24日、イギリス軍を出し抜けたので、かねてからの公言した通り、船橋を渡り、ライン川の中間地点で勝利の立ち小便をしたという有名な逸話が残っています。それを見た兵士も次々にパットン将軍の真似をしたそうです。
パットン将軍が立ち小便をしたのはレマーゲン鉄橋と誤解されることも多いですが、実際にはこちらになります。
筆者も現地で真似してみようと思いましたが・・・・、当然やりませんでした。
連合軍は東部戦線のソ連軍と西部戦線のアメリカ、イギリス軍との間で戦術、戦後構想を巡って一緒にドイツと戦いながらも対立していましたが、アメリカ、イギリス軍内でもその戦術、勝利の勲章を巡って揉めていたのでした。
人間は外部の敵より、いつも一緒にいる内部に敵を作りやすいと言われていますが、戦争中でもまさにそうだったのです。
イギリス軍を出し抜いて、ライン川に放尿したパットン将軍、さぞかし爽快な気分だったことでしょう。
記念碑のすぐ近くには、両大戦で戦死した地元出身の兵士の名前が刻まれている碑もありました。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
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