パリが解放された「自由フランス」を母体とした共和国政府が発足
1944年6月、連合軍がノルマンディー海岸に上陸。同年8月、パリ解放とナチスドイツに支配されていたフランス全土が、徐々に解放されていきます。それによって、フランス南部に樹立していたヴィシーフランス政権も崩壊。ペタンを始めとした閣僚は、ドイツへ人質として移送されます。
ノルマンディーに上陸した連合軍には、ド・ゴールが率いた「自由フランス」も加わっていました。自由フランスが中心となり、パリ解放直後にフランス共和国臨時政府を発足させ、ドイツとの戦いを続けていきます。
第二次世界大戦中、ドイツに降伏後のフランスについては、「【第75回】2つの政権に分かれていた第二次世界大戦中のフランス」編をご参照ください。
また、パリ解放後のフランス国内での戦いの一つに、ドイツ国境と近いアルザス地方で、アメリカ軍の日系人部隊とドイツ軍の戦いがあります。「【第17回】米軍日系人部隊VSナチスドイツの戦いがあった街ブリュイエール」編で紹介しているので、こちらも読んでいただけたらと思います。
その後、連合軍もドイツ軍の反撃に苦戦しながらもドイツ本国へ流れ込み、次々とドイツの主要都市を占領することに成功します。そして、1945年4月、首都ベルリンには、東部戦線のソ連軍が侵入して、ヒトラーは自殺。ナチスドイツは崩壊します。ヨーロッパ各地にいたドイツ軍の残存部隊は、次々に降伏していきました。
そして、アメリカ、イギリス、フランスを中心とした西側連合国に正式に降伏することになります。
その場所が、フランスのランス。1945年5月7日のことでした。
そんなランスの降伏調印が結ばれた建物を紹介します。
第二次世界大戦の西部戦線が終結したランス
ランスはフランス国王の戴冠式が行われた街
ランスはパリの北東に位置して、パリ東駅からTGV(フランス新幹線)を使えば45分で着きます。
ランスがあるマルヌ県はシャンパーニュ地方と呼ばれて、シャンパンの本場です。ランスにあるノートルダム大聖堂では、歴代のフランス王の戴冠式が行われてきました。14~15世紀の英仏百年戦争で活躍したジャンヌ・ダルクがシャルル7世から戴冠を授かったことでも有名です。
フランス人の精神的支柱、ノートルダム大聖堂
話は少し脱線しますが、ノートルダム大聖堂について触れたいと思います。筆者が今回のフランス取材で渡仏する数日前、パリのノートルダム大聖堂が消失して、世界的なニュースになりました(2019年4月)。
1944年8月、パリを解放したド・ゴールも、その4ヶ月前にヴィシーからパリを訪問したペタンもノートルダム大聖堂に寄ってから、近くのパリ市庁舎で演説しています。
当時、対立しているはずの2人のエピソードからもわかるように、ノートルダム大聖堂はフランス人にとって特別なものなのです。
「ノートルダム」はイエス・キリストの母、聖母マリアを指します。ノートルダム大聖堂が着工された12世紀は、マリア信仰が広がりを見せていた時期でした。その後、フランス革命でキリスト教を理性に反するものとして迫害対象になります。しかし、フランス人は国民意識を高揚させるシンボルとして復興させたのです。それは現代に続くフランス人の精神的な支柱となっていました。
パリのノートルダム大聖堂は消失してしまいましたが、パリ周辺のランス、シャルトルなどにも歴史的に貴重なノートルダム大聖堂があるので、ぜひ訪れて見てください。
降伏調印した部屋が再現されている降伏博物館
そんなランスで、第二次世界大戦の西部戦線の降伏調印が行われたのです。ランスの駅を降りて駅からまっすぐ進めば、ランスの中心部になりますが、降伏調印が行われた建物は駅の裏側になります。
駅を出て左の道を真っすぐ進むと鉄道の線路を渡る陸橋があり、それを渡って最初の左に曲がる道沿いにあります。駅から徒歩で約10分ほどです。
降伏調印が行われた建物がある敷地は、現在は高校になっています。降伏調印が行われた建物は、博物館として公開されています。
続く「その2」では、博物館の中を紹介します。
【第81回】1945年5月7日、第二次世界大戦の西部戦線が終結した場所-その1
> 【第81回】1945年5月7日、第二次世界大戦の西部戦線が終結した場所-その2