地形を利用したスイスの防衛計画
リュトリの草原で、徹底抗戦の意思を示したギザン将軍は、「砦」を意味するレデュイ・プランと呼ばれる戦術を行ないます。
- 国境地帯での防衛は諦め、スイス中央部のアルプスの山々に主力部隊を集中させる
→ 近代的な軍隊でも進撃が難しい複雑な自然の地形を生かして、四方八方からの攻撃に耐えて、侵攻してきた敵に損害を与える。 - スイスの南北に伸びている鉄道を爆破
→ 枢軸国が資源の乏しいスイスを支配する最大のメリットは、北のドイツ、南のイタリアを結ぶ物流経路を確保すること。そのため、南北に伸びるゴットハルト線と呼ばれる鉄道路線を使えなくすることで、枢軸国が侵攻するのを諦めさせる口実を作ろうとした。
リュトリの対岸の湖畔の街、ブルンネンは、昔からスイス南部のゴットハルト峠を超えてきた物質を、各地へ運ぶために船に積み替えられて、各地へ運ばれました。19世紀にはゴットハルト峠を通る鉄道も開通します。
ゴットハルト峠の物流網である鉄道は、スイス人の血と汗の結晶ともいえますが、それを爆破してでも国を守るために、ギザン将軍は苦渋の決断を下したのです。
ルツェルンからフェリーで向かうと、リュトリに着く1つ手前の停泊する街がブルンネンになります。筆者はブルンネンで乗り換え時間が1時間くらいあったので、寄ってきました。ブルンネンの駅から列車を使ってルツェルンに行くこともできるので(約1時間)、帰りはフェリーではなく、列車でゴットハルト線の歴史を感じながら戻るのも良いかもしれません。
駅はフェリー乗り場から伸びる道を歩いて10分ほどで着きます。
ナチスではなく連合軍に誤爆されたスイスのシャフハウゼン
中立国スイスにとって、敵は枢軸国だけではありませんでした。スイスの街は連合軍との見間違いによって何度か爆撃を受けています。その中で一番被害が大きかったのが、ドイツとの国境に近いシャフハウゼンという街です。
シャフハウゼンはドイツへ繋がるライン川によって発展した街
現在のシャフハウゼンには、チューリッヒから列車で約50分で到着できます。筆者がチューリッヒから乗車した列車はドイツのシュツットガルト行きでした。
ドイツへ流れるライン川沿いにシャフハウゼンはあります。
列車でチューリッヒから向かうと、シャフハウゼンに着く直前、進行方向右手にヨーロッパで一番の大きさといわれる「ラインの滝」が見えてきます。シャフハウゼンはライン川を運行する船の荷物を一旦陸揚げしたことが起源となり、ライン川の港として水運交易で栄えます。そして19世紀、その滝の落差を利用した水力発電が始まり、シャフハウゼンは発展してきました。
シャフハウゼンの悲劇
シャフハウゼンに悲劇が起こったのは、1944年4月1日のこと。その日の午前中、本来ドイツの南部の街を爆撃する予定だった連合軍側のアメリカ軍の爆撃隊が、シャフハウゼンに焼夷弾を約400発も落とします。
死者は50人前後、数百人が負傷しました。
当時のシャフハウゼン市民は防空壕に逃げ込まず、通りから空を見上げていたことが被害を大きくしてしまいます。まさか自分たちが爆撃されるとは思っていなかったのでしょう。
シャフハウゼンの現在・誤爆の悲劇を伝えるダヴィデの像
現在のシャフハウゼンの街に話を戻します。
シャフハウゼンの見所は、水飲み広場などがある中世の街並みを残す旧市街、街を見下ろす高台にある城壁(ムヌート)とミュンスターと呼ばれる教会です。ミュンスターの敷地内にはシャフハウゼン周辺のあらゆる分野の展示がある万聖教会博物館あります。
そのミュンスターがあるミュンスター広場の一角に、ダヴィデ像がポツンとあります。
このダヴィデ像こそ、ガイドブックには紹介されていませんが、1944年4月1日の悲劇を伝える像なのです。
何かに対する憤りの気持ちを持っているような表情で、遠くを見つめているダヴィデの像。
誤爆した連合軍の爆撃隊に対してか?もしくは戦争自体への気持ちなのだろうか?
シャフハウゼンを訪れる観光客もこのダヴィデの像を気にする人はあまりいないでしょうが、像の横にはドイツ語で当時のことが触れられています。
今までヨーロッパ中を周ってきて、ナチスドイツから惨禍を受けたことに対するモニュメントは見てきましたが、連合軍の攻撃による被害に対するモニュメントは初めて見ました。
中立国スイスにとって、敵となりうるのはドイツなどの枢軸国側だけでなく、アメリカ、イギリスの連合国側も潜在的な敵となることを表現したモニュメントだと感じました。
中立を維持できたスイスはスパイが暗躍する場でもあった
スイスはドイツが侵攻してくる危機はありましたが、第二次世界大戦が終わるまで、偶発的な攻撃以外は戦火に巻き込まれることがありませんでした。
ギザン将軍による防衛戦術の巧妙さがあっても、スイスとドイツの国力を考えれば、ドイツが差し違える覚悟でスイスを攻略しようとしたら、非常に危ない状況だったと思います。
戦争序盤、ドイツがフランスへ攻め込んだ時、戦術的に地形の関係を利用して、主力部隊はオランダ、ベルギーを経由しました。もしフランス、ドイツと国境を接しているスイスの地形が、フランス攻略に適していたら、ヒトラーはスイス経由でフランスに攻め込む判断を下したかもしれません。
中立を宣言していたからといって、攻撃が避けられるほど当時の情勢は甘くありませんでした。オランダ、ベルギーも中立を通達していてドイツに侵攻されました。お互いメリットがなくては、中立、平和などと綺麗事を言っていられないのが、国が陸続きのヨーロッパの外交、戦争です。
スイスはドイツから亡命しようとしてきたユダヤ人に入国を許さず、ドイツへ追い返してしまうことも多々あったことが、戦後、非難の対象となりました。スイスも中立を維持するために、ドイツから狙われる可能性があるものは可能な限り排除したのです。
一方、中立国のスイスは枢軸国側、連合国側共に利用価値が高い側面もありました。スイスを敵国と情報供給、交渉の場として、両陣営のスパイが密かに暗躍していたともいわれています。
また、ヨーロッパでの戦いが終わっても、太平洋ではまだ日本とアメリカが戦争をしていました。そして、スイスは日米の和平工作の舞台ともなるのです。
その話は、次回「第二次世界大戦中のスイス追う旅3・水面下の日米和平交渉」編で紹介します。
<【第83回】第二次世界大戦中のスイスを追う旅2・中立政策を終戦まで守り抜く-その1
【第83回】第二次世界大戦中のスイスを追う旅2・中立政策を終戦まで守り抜く-その2
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,512円(税込)