ミュンヘン会談の事前会談が開催されたホテル・ドレーゼン
ヒトラーが海外の重要人物と会談を行った場所で有名なのは、オーストリアとの国境と近い、景勝地のベルヒデスガーデンの山荘です。しかし、その場所以外にも抑えておきたいのが、ボン近郊にあるゴーデスベルクの「ホテル・ドレーゼン」。ここでは、ライン川湖畔でも国家存亡に関わる会談が行われました。
ドイツとチェコスロバキアとの関係で、再びヨーロッパで戦争の空気が漂っていた1938年9月、ミュンヘンでヨーロッパ主要国の各首脳が集まり、一旦は戦争が回避されます(ミュンヘン会談)。その前段階でイギリス首相、ネヴィル・チェンバレンが2度、ドイツを訪問してヒトラーと会談しますが、芳しい結果を得ることはできませんでした。その2度目の会談をした場所が、この「ホテル・ドレーゼン」だったのです。
会談が開催されるまでの動き
「民族自決」の名の元、1938年3月、同じドイツ民族のオーストリアを併合したヒトラーは、チェコスロバキアのドイツ国境地帯に住むドイツ人を保護する名目で、スデーテン地方に食指を動かします。チェコスロバキアは当然、それに反発、武装を固めて戦争も辞さない決意を固めていました。
1938年の9月、ドイツとチェコスロバキアの間で、いつ戦争が起きてもおかしくない状態で、世界は固唾を飲んで見守っていました。その事態を憂慮したフランスの首相、エドゥアール・ダラディエが、フランス、イギリス、ドイツの首脳会談を提案します。
当時の情勢、ミュンヘン会談については、「【第71回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅8 ~開戦への道編~」もご参照ください。
イギリスのチェンバレン首相は戦争回避のため、ドイツ提案を受け入れる旨をヒトラーへ通告。その翌日の9月15日、チェンバレンはヒトラーへの親書を持参してドイツへ向かいます。場所はベルヒデスガーデンのヒトラーの山荘と呼ばれた激しい雨が降るベルクホーフでした。
しかし、ヒトラーはチェコの問題に関して妥協するつもりがないとの態度を取ります。怒ったチェンバレンは帰ろうとしますが、ヒトラーがスデーテン地方のドイツ人に民族自決をイギリスが認めるなら話し合う準備があるという妥協案を提示します。チェンバレンはその問題を一度イギリスに帰国して検討すると応え、ヒトラーはそれまでは武力行使は行わないと約束。再会を約束して、チェンバレンは翌日帰国します。
そして、イギリスとフランスは連名でチェコにヒスデーテン地方のドイツへの割譲という、ヒトラーの要求をチェコスロバキアに強要させます。両国の後ろ盾がなくてはドイツに対抗できないチェコは、泣く泣く受諾せざるを得ませんでした。
1週間後の9月22日、チェンバレンはスデーテン地方の割譲という、チェコスロバキアに無理強いをさせて手に入れたお土産を持って、再びドイツへやってきました。
場所はライン川沿いのバート・ゴーデスベルクという小さな町のホテルでした。そこで第2次会談が開催されことになります。
まずは現地の今を会談の経緯と共に紹介します。
ホテル・ドレーゼンへの行き方
ゴーデスベルクはかつて東西ドイツ時代、西ドイツの首都だったボンの郊外にあります。
ボンからローカル列車で30分ほど南下します。ゴーデスベルクからレマーゲン鉄橋の戦いがあった、レマーゲンには更に10分ほどです。
「【第38回】ライン川に架かっていた唯一の橋、レマーゲン鉄橋」もご参照ください。
ボン近郊のバート・ゴーデスブルク駅
ゴーデスベルク会議が開かれた1938年9月22日、鉤十字が掲げられる駅舎の前で整列するナチスの党員の前で、列車でコーデルベルクにやってきたヒトラーが閲兵をしました。
現在、バート・ゴーデスブルク(Bad-Godeberg)駅の地上は島式ホームが2つあり、4番線ホームまであります。
また、駅舎手前には地下を走っている近郊列車(Sバーン)のホームもあります。一見のどかな街で、4番線ホームまであるとはいえ、こぢんまりとした駅の雰囲気だったので、地下ホームまであることに驚きました。かつての首都だったボン(日本の感覚でいえば中小都市レベルですが)の近郊なのでSバーンが走っていてもおかしくはないのです。
ヒトラーとチェンバレンの会談が行われた、ホテル・ドレーゼンは駅舎と反対側になります。地上の線路の下を通る地下通路を通ってライン川沿いに向かいます。
バード・ゴーデスベルク駅の様子は、以下の動画をご参照ください。
関連動画 |
地下鉄が併設されているローカル駅 ゴーデスブルグ駅(@YouTube) |
バード・ゴーデスベルク駅からホテル・ドレーゼンまで
バード・コーデスブルクはボンが西ドイツ時代の首都だった名残で、各国の領事館が置かれている閑静な住宅街です。
駅裏側の前にある道を左側に進み、最初の交差点で、歩いてきた進行方向からみて、逆戻りになりますが、右側の道をひたすら進みます。閑静な住宅、静かなカフェ、所々に絵になるようなロータリーがあり散策していても楽しいと思います。
途中で左側の道に進みますが、ホテル・ドレーゼンを示す案内板が所々にあるので、迷うことはないと思います。2つ目のロータリーもそのまま真っすぐ進み、2つ目の左角の道(ライン通り、Rhein str)を進めば着きます。
ヒトラーとチェンバレンの対決!ライン川が美しいホテル・ドレーゼン
ライン通りを少し下ると、4階建ての白い建物が見えてきます。それがホテル・ドレーゼン(Rhine Hotel Dreesen)です。創業は1894年の4つ星ホテルで、一番安い部屋でも1泊1万円台前半はします。
このホテルで1938年9月22日から、ヒトラーとチェンバレンの第2ラウンドが行われました。
チェンバレンはライン川の対岸のホテル(そのホテルの場所は特定できず)に宿泊して、渡し船で行き来することになります。しかし、ヒトラーは豹変していました。
ヒトラー「ここ数日間で状況が変わりました。スデーテン地方の割譲ではなく、即時の直接占領を要求します。」
ヒトラーは直接占領という更に強い要求を突き付けたのでした。ヒトラーはチェコスロバキアの屈服以外は求めてなかったのです。対するチェンバレンは今回も目に怒りの炎が燃え上がらせますが、今回は帰国せず、翌日の9月23日、ヒトラーと再度話し合うことになりました。
この日、日中は両国で根回しが行われましたが、ヒトラーの態度は軟化しません。22時過ぎという遅い時間になって、チェンバレンはホテル・ドレーゼンにやってきました。
ちょうどその時、しびれを切らしたチェコスロバキアが総動員令を発したというニュースが伝えられ、交渉は絶望的になったかと思われました。チェンバレンは帰国する旨を述べると、ヒトラーは再びスデーテン地方の譲渡を9月28日から10月1日まで期限を延長する旨を申し出ます。今回もヒトラーはまだ話し合う余地はあるように見せかけて、チェンバレンは帰国します。
この2日間の一連の会議はゴーデスベルク会談と呼ばれています。そして、それはチェコスロバキアの代表を抜きにして行われて、イギリス、フランスがヒトラーの要求に屈服して、第二次世界大戦の開戦の遠因となったミュンヘン会談につながっていくのでした。
ホテル・ドレーゼンのカフェでライン川を見ながら一服
筆者がホテル・ドレーゼンを訪れた時は、ちょうど正午くらいの時間だったので、ホテル内のレストラン兼カフェで一服しました。船が時々、行き交うライン川やチェンバレンが宿泊していた対岸の風景を一望すると、この場所が世界大戦の導火線を切ろうとした場所とは想像もつきません。
下記、動画で入口から入り、ロビー、中央と左側がレストラン、右側がホールになっています。
筆者は3.5ユーロ(500円ちょっと)のコーヒーと引き換えに?ホテルのスタッフの方の許可をもらって撮影しました。
関連動画 |
ヒトラーの前線基地だったホテル・ドレーゼンのロビー、レストラン(@YouTube |
ヒトラーがよく使っていた場所は?
ホテルを出た後、外観をぐるっとまわってみました。ライン川沿いの外壁下部分には「RHEINHOTEL DREESEN」と刻まれています。当時の写真をみてもこの文言を確認することができます。ライン川を行き交う船の乗客からも目につきやすいはずです。
ヒトラーがまっていた部屋はどこなのかと何枚かの当時の写真を見ながら推測しました。泊まっていた部屋まではわかりませんが、ライン川と並行しているバルコニーで側近とくつろいでいる写真があります(ホテル正面からみて右側)。その下は庭園となっています。
今回は死角になって撮影することが困難でしたが、その2階のバルコニーに面する部屋は会議ができる大部屋になっているようでこの部屋か、1階の大フロアで会談が行われたのかと思います。
このゴーデスベルク会談の4年前、レームらSA(突撃隊)を粛清した長いナイフの夜事件の前日、1934年6月29日、ヒトラーはホテル・ドレーゼンで待機して情報収集にあたっていました。
その際、急遽、ヒトラーユーゲントの子供たちが、ヒトラーのために歌を唄いたいと、バルコニーの前に集まり、楽隊の伴奏で唄いだします。途中、大雨が降ってきても歌を唄うのを止めなかったと言われています。旧友を粛清すると決めていたヒトラーは楽しむ心境ではなかったでしょうが、無下に子供たちを断るわけにもいきませんでした。ヒトラーは翌日、ミュンヘンへ向かいます。
そのバルコニーの下にある庭園に子供たちがバルコニーにいるヒトラーに向って歌を唄っていたと思いますが、筆者が訪れた時は、庭園にいく扉は鍵がかかっていて入ることができませんでした。
長いナイフの夜事件については、「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅7 ~ヒトラーの粛清編~」をご参照ください。
ホテルの外観は以下の動画をご参照ください。
関連動画 |
ヒトラーの前線基地だった、ゴーデスベルグのホテルドレーゼン(@YouTube) |
ドイツ国内の景勝地に海外の首脳を呼びつけるヒトラー
チェンバレンとの会談場所にホテル・ドレーゼンが選ばれたのは、レーム逮捕の前線基地とした過去があり、ヒトラーとナチス幹部たちは決断を求める時は、決断の場として集まっていました。そこにチェコスロバキア解決の場としてのゆかりを与えたかったと言われています。
景勝地であるベルヒデスガーデンの山荘、ライン川湖畔のホテルに2度もイギリス首相のチェンバレンを呼びつけた段階で、駆け引きはヒトラーに軍配が上がっていたのだと思います。交渉も初めからチェンバレンと妥協するつもりもなく、過大な要求を提示して相手がひるんだところで、譲歩するというビジネスマンのような老獪さは、ヒトラーより20歳ほど年上の真面目な老首相には理解できなかったのかもしれません。
ベルヒデスガーデン、ゴーデスベルクの両方を実際に訪れた筆者は、威圧的な雰囲気で海外の首脳を圧倒できる首相官邸があり、ドイツの首都であるベルリンではなく、複数の国内の景勝地の絶景をバックに、国家存亡の交渉に望むヒトラーの余裕さを感じることができました。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,512円(税込)