2人の共通の痕跡の地、マールブルク
1933年1月30日、ヒトラーがドイツの首相になった時、大統領はパウル・フォン・ヒンデンブルク、副首相はフランツ・フォン・パーペンでした。
ドイツの貴族出身の彼らは、急速な勢いで台頭するヒトラー率いる過激な国家社会主義を掲げるナチス党を警戒しつつも、庶民出身で成り上がりの政治家ヒトラーを軽視していました。
首相の任命権を持っていた大統領のヒンデンブルク
「ペンキ屋あがりを*ビスマルクの椅子に座らすことは断じてできぬ!」
ヒトラー内閣の副首相として入閣したパーペン
「2ヵ月もしないうちにヒトラーを隅っこにおいてやる。」
しかし、そんな2人の野望も空しく、**ヒンデンブルクはヒトラーを首相に任命せざるを得なく、パーペンは副首相の地位を追われ、オーストリア大使、トルコ大使として左遷させられてしまいます。
ヒトラーを利用しようとして利用されてしまった、ヒンデンブルクとパーペン。そんな2人の共通の痕跡の地が、ドイツのマールブルクという街にあります。
*帝政ドイツ時代の首相
**ワイマール時代は大統領が首相を任命する体制だった
ヒンデンブルクとは?
第一次世界大戦のタンネンベルクの戦いを指揮してドイツ軍を勝利に導き、国民的英雄となったヒンデンブルクは、1925年5月、ワイマール共和国の初代大統領フリードリヒ・エーベルト死去後、大統領に選ばれます。第一次世界大戦の敗戦後に発足した共和制の国体には懐疑的で、1871年から第一次世界大戦敗戦まで存在したドイツ皇帝を戴く体制の帝政ドイツ帝政復古主義でした。
1920年代、台頭してきたヒトラー率いるナチスの政策にも懐疑的だったものの、ドイツ国内の実業界からも絶大な支持を得たヒトラーを無視するわけにもいきませんでした。そのためクルト・フォン・シュライヒャーのような職業軍人、パーペンのような爵位を持った男爵を利用して、ヒトラーの台頭を抑えようとしますが、シュライヒャーとパーペンの仲違いもあり、反ヒトラー包囲網を機能させることができず、泣く泣くヒトラーを首相に任命することとなったのです。
パーペンとは?
ヒトラーが政権を取る7ヶ月前の1932年6月1日、パーペンはシュライヒャーの推薦で、ドイツの首相にヒンデンブルクから任命されました。既述の通り貴族出身のため内閣も貴族で構成された男爵内閣と揶揄されます。
ナチスの勢力を踏み台にして権力を握ろうとしていたシュライヒャーは、政党の支持基盤を持たないパーペンを操り人形として利用とします。しかし、その支持基盤を持たないパーペン内閣は7月の選挙で第一党になったナチスの党首、ヒトラーに副首相として入閣するよう求めますが拒否されます。ヒトラーは首相の地位を要求したのでした。
不安定なパーペン内閣は崩壊して、1932年12月、軍隊を基盤に持つシュライヒャーが事態を収集させるために、一時的に組閣。年明け早々、パーペンはヒトラーと密会してシュライヒャー内閣を倒す画策を立てます。その時、ヒトラーはヒンデンブルクの息子の囲い込みにも成功して、ヒトラーを首相、パーペンを副首相ということで合意します。
1933年1月30日、ついにヒトラーがドイツの首相に任命されますが、ヒトラー内閣に入閣しているナチスの閣僚は2名だけ、それ以外は他の政党からの入閣だったので、パーペンは副首相としてヒトラーを操縦できると思ったのです。
しかし、パ―ペン、シュライヒャーと違い、一度権力を握ったヒトラーがその権力を譲渡する過ちは、第二次世界大戦で敗戦するまで犯さなかったのです。
1934年6月17日、パーペンはマーブルク大学でヒトラーの政策を堂々と批判する演説を行います。その結果、その草案を練った秘書が虐殺され、パーペンもオーストリア大使に左遷させられ、ヒトラーが自殺するまで一線に戻ってくることはありませんでした。
パーペンがヒトラーの批判演説したマールブルク大学
マールブルクはフランクフルトの北方に位置して、列車で1時間の距離にあります。
マールブルクは学生の街で、グリム兄弟も通った1527年創立の名門マールブルク大学があります。パーペンもそのマールブルク大学でヒトラー批判演説をします。
駅から徒歩で約15分の旧市街の市庁舎の坂を下ったところにあるネオロココ様式の重厚な建物が旧校舎です。
このマールブルク大学の講堂で、パーペンは学生やナチスのエルンスト・レーム率いるSA(ナチス所属の突撃隊)隊員を前にして、SAの素行不良とナチスの言論統制、非民主主義政策を厳しく批判します。首相になり強大になっていくヒトラーを抑えるため、当時不協和音となっていたヒトラーとレームの関係を利用して楔を入れようとします。
「歴史の中で生きていくためには、人々は絶え間なく下からの暴動を続けるわけにはいかない。」
「偉大な人物は宣伝によっては作り出せない。組織や宣伝だけでは信頼を維持することができない。」
SAからは非難の声が上がりますが、それをかき消すくらいの学生からは万雷の拍手が送られます。
この演説は発禁処分になりますが、一部は外国メディアに流れて世間に公表されることとなりました。
ヒトラーは当然激怒し、その直後に大統領のヒンデンブルクに会いに行きます。ヒンデンブルクもSAの素行を憂慮して軍部に政権を委ねる覚悟をヒトラーに伝えます。
将来、ドイツの国防を担わせようとしていた軍部を敵に回したくないヒトラーは、SAの解体に乗り出します。それが長いナイフの夜事件につながっていきます。
長いナイフの夜事件については、「【第70回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅7 ~ヒトラーの粛清編~」をご参照ください。
パーペンが演説した部屋はどこ?
筆者は、マールブルク大学の校舎内に入りパーペンが演説した部屋を探しました。事前の調査では、当時の記録を残すものがなく、その部屋は「101号」ということしか分かりませんでした。
マールブルク大学に関しては、中に入らず校舎の外まで行ければ良いと思っていましたが、大学内には部外者も入れるというので、恐る恐る校舎に入ってみました。入口から入ったロビーには校内の案内図があり、「101号」というのは確かに存在していました。実際にパーペンが演説した部屋かどうかは確証がないですが、他の部屋よりは大きいように感じました。
入口から入ってそのまま真っすぐ廊下を歩き、右手にある階段を上った場所に「101号」はあります。残念ながらテスト中だったので扉を空けることはできませんでした。
筆者も無理して部屋まで特定するつもりはなかったので、大学から引き返そうとしたら、学生の雰囲気ではない男性の方と遭遇、念のため、パーペンが演説した部屋について、聞いてみました。その方はマールブルク大学に勤める先生でした。パーペンについては存在くらいしか知らないが、その演説した場所は現在、図書館になっている場所ではないかと教えていただき、案内していただきました。
その図書館の一角の部屋このマールブルク大学の旧校舎の中で、昔から一番有名な場所なだとのことです。演説をした部屋となると少し狭い感じもします。おそらくこの上が101号室になると思われます。
しかし、筆者のように怪しそうなアジア人?の部外者が大学の図書館に簡単には入れるとは思いませんでした。図書館の前には学生らしき人が係員としている受付がありますが、何も手続きが必要なく素通りできます。
また、貴重な文献がたくさんあるにも関わらず、案内していただいた大学の先生の方に撮影の許可を申し出たら、遠慮なく撮影しても大丈夫とのことでした。この図書館がパーペン演説の場所なのかは確証を持てませんが、ドイツの大学の図書館に入るという貴重な経験ができました。
日本の大学ではその大学の学生以外が図書館に入ることは基本的にできません。筆者の出身大学の例を挙げますと、大学OBに関しては、身分証明書を提示して図書館入館証を発行してもらって利用することはできますが、館内の写真撮影は禁じられております。なので、ドイツの大学図書館のオープンマインドさには驚きました。
学生2人、図書館へ案内して先生にパーペンに関しては本人の写真を見せながら、パーペンを知っていますか?と聞いたら、学生は全く知らない、先生は存在は知ってるけど詳しくは分からないとのことでした。この旧校舎は法学部のようですが、ドイツのインテリ層でもヒトラーの前の歴代首相であり、ヒトラー内閣の副首相を勤めた人物でさえ、認知度は低いのだと思いました。
現地の動画レポートです。
関連動画 |
パーペンが演説を行ったマールブルク大学 外観編(@YouTube) |
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マールブルク大学でパーペンが演説した部屋は?(@YouTube) |
【第88回】ヒトラーの台頭を防げなかった政治家、ヒンデンブルクとパーペン-その1
>【第88回】ヒトラーの台頭を防げなかった政治家、ヒンデンブルクとパーペン-その2