第一次世界大戦から第二次世界大戦までのフランス
第一次世界大戦ではドイツに勝利
第二次世界大戦が勃発する約20年前に終結した第一次世界大戦では、ドイツと戦ったフランスは戦勝国となりました。
しかし、西部戦線の主な戦場はベルギー、フランス国内だったため、国内は荒廃して数百万人の死傷者を出す大惨禍となりました(敗戦国のドイツ国内は戦場にならず)。そのため、フランスは戦後、第一次世界大戦の講和条約であるヴェルサイユ条約によって、ドイツに対して天文学的な賠償金を要求したのです。その要求は同じ戦勝国のイギリスより厳しいものでした。
一方、天文学的な賠償金を要求された敗戦国ドイツは、大混乱に陥り、激しいインフレーションが起こったりして大不況となりました。その敗戦と賠償金の屈辱の中、ドイツ国内では、ドイツ人の尊厳を取り戻す右翼的な政党が数多く生まれて、ヴェルサイユ条約に反対するスローガンを掲げます。
その中の政党の1つがナチスであり、アドルフ・ヒトラーが誕生したのです。
当時のドイツについては、「【第64回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅1 ~ドイツとの出会い編~」をご参照ください。
第一次世界大戦の戦死者数の方が多いフランス
フランス国内を周っていると、あらゆる街角に1914-1918と記されている慰霊碑が目に入ってきます。これは第一次世界大戦が行われた1914年から1918年を指すもので、この期間に戦場で亡くなったフランス兵を弔っているのです。第二次世界大戦を指す1939-1945よりも目につきます。
第二次世界大戦の時のフランス本土は、初期と終盤以外は表向きはドイツと休戦条約を結んでいたので戦場にはなりませんでした。しかし、第一次世界大戦では、西部を中心に塹壕が掘られて両軍が対峙して長期戦になったため、甚大な被害を出すことになったのです。
第一次世界大戦の激戦地、ヴェルダンについては、「【第14回】昭和天皇も訪れた第一次世界大戦の激戦地「ヴェルダン」」編をご参照ください。
戦間期は政治の不安定な時代が続くフランス
第一次世界大戦と第二次世界大戦の戦間期のフランスは、第三共和政(1870年~1940年)になります。第三共和政は民主主義ではありますが、政情が不安定で倒閣が繰り返されていました。
特に世界大恐慌が起こった1930年以降は、小党が乱立して内閣の寿命は半年ほどでした。1936年には社会党のレオン・ブルムを党首とする共産党、急進社会党などとの連立政権が発足します。第二次世界大戦の突入と敗戦はこの内閣の時になります。
また、隣国ドイツで、ヒトラー率いるナチスが目覚ましい台頭してくると、ナチスのような全体主義(ファシズム)に共感する層もいました。これはフランスだけでなく、イギリスなど他のヨーロッパ諸国でも同じような傾向がありました。第二次世界大戦が始まり、ナチスドイツに占領された国々では、この層が傀儡政権の政治を握っていくことになります。
この時期のフランスは、建前上は民主主義国家とはいえ、共産主義者、ファシズム信者など様々な思想が渦巻いていたのです。それはナチスドイツの支配下になった時のフランス国内の世論が統一できなかったことにもつながっていきます。
第二次世界大戦中のフランス
ドイツにあっけなく敗北するフランス
1939年9月、ドイツ軍がポーランドに侵攻して、フランスとイギリスはドイツに宣戦布告。
第二次世界大戦が始まってしまいます。
フランスはイギリスと共に、ポーランドに対して、ドイツに侵攻された場合は、軍事援助をする相互援助条約を結んでいました。しかし、実際にはフランスもイギリスもほとんど軍を動かさずにポーランドは降伏してしまいます。
東側でドイツと国境を結ぶフランスは、ナチスの台頭を警戒して多額の国家予算をかけて、ドイツとの国境沿いにマジノ線という要塞を建設していました。第一次世界大戦の激戦地、ヴェルダンの戦いに象徴されるように、フランスは防御に徹することで、ドイツに勝つことができました。当時のフランス首脳部は、防御こそ敵の攻撃の威力に勝るという神話が存在していました。
しかし、1940年5月、ドイツ軍がフランスと国境を接する西部戦線に侵攻します。機動力を武器にした、近代的機械化部隊を要するドイツ軍。マジノ線を迂回する作戦によってフランスの不意を突き、フランスを総崩れさせます。そして翌月の6月、フランスはドイツに降伏して休戦条約が結ばれます。
「【第39回】ドイツ軍に敗れたフランスが誇る難攻不落の要塞、マジノ線」編で、マジノ線を紹介しています。ご参照ください。
戦術以外でフランスが短期間の戦いで降伏した背景には、数百万人の死傷者を出した第一次世界大戦の記憶による戦争に対する恐怖、戦間期の世界大恐慌による経済の停滞、不安定な政治といった社会状況による自信の喪失によって、フランス人の戦意が低かったことも影響していたのです。
1940年のフランスでの戦いについては、「【第13回】奇跡の撤退作戦が行われたフランスの街、ダンケルク」編。 フランスの降伏による休戦条約ついては、「【第7回】両大戦の休戦条約の舞台、コンピエーニュの森 ~独仏因縁の場所~」編もご参照ください。
ドイツ軍の占領地域と非占領地域に区分けされたフランス
1940年6月22日、コンピエーニュでの休戦条約によって、フランスはパリを含む北部と大西洋沿岸がドイツ軍の直接の占領地域、南部が非占領地域として形だけフランス政府に行政権が委ねられました。また、フランスとドイツで奪い合ってきた歴史がある、フランス東部のアルザス・ロレーヌ地方はドイツへ割譲されます。
アルザス・ロレーヌ地方については、「【第8回】独仏の紛争に翻弄されてきたアルザス地方のストラスブール」もご参照ください。
南部の非占領地域には、首都をヴィシーという温泉町に置いた、フィリップ・ペタンを元首とするヴィシーフランスが樹立されます。実質はナチスドイツの傀儡政権で、対独協力を(コラボレシオン)を進めていきます。
ヴィシーについては、「【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー」編をご参照ください。
また、ドイツとの休戦条約を不服とする一派は、イギリスのロンドンに亡命して、ド・ゴール将軍を首班として自由フランスを創設。ナチスドイツやヴィシーフランスに対して、レジスタンス活動を通じて徹底抗戦の姿勢をみせます。
1940年6月18日、ド・ゴールはロンドンからBBC放送を通じて、フランス国内に呼びかけます。
フランス国内では、その呼びかけに応じて密かにレジスタンス組織がいくつも結成されます。しかし、戦間期の混沌としたフランスの政治状況をみてもわかるように、レジスタンスも団体によって思想が違ったので、内部対立をして団結してドイツに立ち向かうことが困難だったのです。
レジスタンスについては、「【第76回】パリの街角に残るレジスタンスの悲劇の痕跡」編をご参照ください。
ド・ゴールの自由フランスに解放されるまで約4年間、フランスはドイツの支配下という時代を過ごすことになったのです。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
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著者名:サカイ ヒロマル
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