ブランデンブルク門の東側にあるナチス時代の遺跡
ブランデンブルク門の西側は、ベルリンの中心部に眠る、ナチス時代の遺産を巡る散策 前編 ブランデンブルク門の東側は、ベルリンの目抜き通りウンダー・デン・リンデン(UNTER DEN LINDEN)が伸びており、観光客やベルリン市民で賑わっています。ウンダー・デン・リンデンから南側には、ウィルヘルム通り(WILHELM STREET)やポツダム広場があります。その周辺には、総統官邸跡をはじめ、ナチス時代の遺跡が多数残っています。21世紀になって建てられた記念碑や博物館もあります。
ホテルアドロン ~松岡洋右も宿泊したホテル~
国会議事堂、クロールオペラハウス跡がある西側からブランデンブルグ門を潜ると、ウンダー・デン・リンデンになります。右手に一番最初に見える建物は、ベルリンの最高級ホテル「ホテルアドロン」です。
フィクション、ノンフィクション問わずナチス時代を舞台にした本にたびたび登場します。「ホテルアドロン」は、戦争末期のベルリン市街戦で野戦病院となり、戦後、閉鎖されて、1997年に再び営業を開始しました。
満州国を巡り国際連盟を脱退した時の「サヨナラ」演説で有名な松岡洋右外務大臣も、ヒトラーと会見した1941年の訪独の際には宿泊しました。
松岡訪独時は、歓迎する日の丸の旗がウンダー・デン・リンデンを埋め尽くしていたそうです。
その後、松岡はモスクワに立ち寄り、スターリンと会談して日ソ中立条約を結びます。
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ヒトラーが第二次世界大戦の開戦をスピーチしたクロールオペラハウス跡(@YouTube) |
ウィルヘルム街 ~ナチスの官庁街があった通り~
その「ホテルアドロン」を右に曲がると、人通りが少ない長い通りがあります。その通りは、ウィルヘルム通りといって、かつて「ウィルヘルム街」と言われたナチスの官庁街だった一帯です。現在のウィルヘルム通りは、目抜き通りのウンターリンデン、ホテルアドロンのすぐ隣にも関らずひっそりしています。通りの右側は、主にアパート郡が立ち並び、1階にはエスニック料理屋のテナントが目立ちます。
ここがナチスの心臓部だったとは誰も思わないでしょう。
ゲッペルスの宣伝省、リッペンドロップの外務省、ゲーリングの航空省・・・など、その場所にナチスの省庁が存在していたことを説明する看板が地味に建っています。
ウィルヘルム通りの右手にある一番最初の建物(ホテルアドロンの隣)は、イギリス大使館になります。戦前からイギリス大使館はこの場所にありました。
「ベルリンに残るナチス時代の日本編」でも紹介しましたが、ベルリンの日本大使館やイタリア大使館があるティアルガルデン付近は、他国の大使館もたくさんあります。
イギリス大使館は、ベルリンの象徴であるブランデンブルグ門、最高級ホテルの隣という立地なのです。そして、他の大使館より建物がはるかに大きいことは、ヨーロッパ内における両国の関係の深さを表しているのではないでしょうか。
ウィルヘルム通りからも見える「虐殺されたユダヤ人のため記念碑」
ウィルヘルム通りから、イギリス大使館の右の道を曲がると、ホロコースト記念碑、別名「虐殺されたユダヤ人のため記念碑」(DENKMAL FUR DIE ERMORDETEN JUDEN EUROPAS)が見えます。2005年に完成し、2760ユーロという国費で造られました。地下は情報センターになっていて、強制収容所で亡くなった人の身元などが展示されています。住所:CORA-BERLIN-STR 1
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ナチスの官庁街だったヴィルヘルム通り① ブランデンブルク門周辺(@YouTube) |
ナチスの官庁街だったウィルヘルム通り② 食糧庁や旧官邸跡など(@YouTube) | |
ナチスの官庁街だったウィルヘル通り③ 外務省、首相官邸など(@YouTube) |
総統官邸跡 ~ヒトラーが最後の日々を送った総統官邸~
ウィルヘルム通りには、ナチス時代の様々な省庁の建物跡がありますが、ヒトラーの総統官邸跡を紹介したいと思います。ナチスの建築物というと、「ナチスの党大会が開催された街、ニュルンベルク編」でも紹介したように、権威を示す為の「巨大な豪華絢爛」が特徴です。
1939年に完成した総統官邸は、ヒトラーお気に入りの建築家アルベルト・シュペーアが設計しました。46mの大理石のツルツルの廊下、10mの高さの天井は、ヒトラーと謁見するために訪問した外交団を圧倒させたと言われています。
総統官邸下の地下壕はコンクリートの天井や壁で頑丈に保護され、小部屋が20室ほどありました。発電機、浴室、換気装置も完備され、ヒトラーは地下壕でも普段と変わらない生活ができました。
1945年4月30日、ソ連軍が迫り来るベルリンの総統官邸の地下壕で、愛人エヴァ・ブラウンと挙式を挙げた後、ヒトラーは夫婦で自殺を遂げ、ナチスドイツは崩壊します。
ヒトラー夫妻の遺体は、側近ヨーゼフ・ゲッペルスによって、総統官邸の中庭で焼かれました。その直後、ヨーゼフ・ゲッペルスも家族と共に自殺を遂げ、総統官邸は5月2日にソ連軍よって占領されました。
ウンダー・デン・リンデンからウィルヘルム通りを約500M程進むと、フォス通り(Voßstraße)と交わる交差点があります。そこは当時、フォス街と呼ばれていました。 地下鉄だとMOHRENSTRABE駅の目の前です。地下鉄の駅を上がると、総統官邸があった所在を示す看板があり、その看板の後の高層アパート群が総統官邸があった場所になります。
1階には「大和飯店」という中華料理屋さんがテナントとして入っています。アパートの住人の駐車場がヒトラーが自殺した総統官邸の地下壕があった場所と言われています。
私が訪れた時は、初夏だったのでアパートの中庭で、小さい子供がいるアパートの住人達が、ビニールプールを作って遊んでました。
総統官邸跡には中華料理屋さんがあり、ヒトラーが自殺した地下壕付近では子供達が遊んでいるという平和な光景は、ナチス時代の壮絶な歴史が全く想像できず、どこか拍子抜けしてしまいます。
総統官邸は、戦後ソ連軍によって爆破され解体されました。総統官邸の大理石の一部は、ベルリン市内のトレプトウ公園に建つソ連軍戦没者慰霊碑に使用されています。
終戦後、ナチス崇拝の場と化すのを恐れ、地下壕跡の場所はドイツ政府によって最近まで曖昧にされていました。
ウィルヘルム通りを総統官邸跡までくれば、ベルリンの再開発エリアポツダム広場も目と鼻の先です。
住所
総統官邸:Voßstraße 2-6
地下壕:Voßstraße 4-6
戦争末期の総統官邸の地下壕でのヒトラーの様子が描かれている映画、小説
・映画「ヒトラー最後の12日間」(2005年公開)・小説「ヒトラーの防具」(新潮文庫 帚木 蓬生 著)
・小説「マールスドルフ城1945」(中公文庫 多島斗志之 著)
アンハルター駅舎跡 ~空襲で焼けたかつてのベルリンのターミナル駅~
観光客、地元のベルリン市民の買い物客で賑わうポツダム広場からシュトレーゼマン通り(STRESSEMAN STREET)を歩いて10分ほどで、入口しかない駅舎が見えてきます。第2次世界大戦中までヨーロッパ最大のターミナル駅だったアンハルター駅跡です。
今のベルリンの鉄道網は、幹線が東西に延びていて、ツォー駅、ベルリン中央駅、オスト駅などの主要駅はSバーンで結ばれています。当時は、ヨーロッパの他の大都市のようにベルリン各地に止め式のターミナル駅が存在していました。今では美術館になっているハンブルグ駅、Sバーンの地下駅のみになっているポツダム駅、アンハルター駅などは地上に駅舎がある大ターミナル駅でした。1日に50本以上の列車が発着していましたが、1945年2月の連合軍の爆撃で破壊されてしまいます。
その中でもアンハルター駅は、当時のベルリンについて書かれた本を読むとよく出てきます。日本の要人の来独や、駐独大使の就任、離任の舞台になっていたのもこのアンハルター駅でした。
またこの駅から強制収容所があるチェコまで、毎日のようにユダヤ人が送られていました。その具体的な日付と人数の記録がひっそりと駅舎跡の隣にある看板に記載されています。
アンハルター駅のすぐ近くには、「ベルリンに残るナチス時代の遺産と日本編」でも紹介した、アンハルター駅と通じていた防空壕跡(ブンカー)が一般公開されています。
最寄り駅:Sバーン ANHALTER BANHOF駅
テロのトポグラフィー(TOPOGRAPHIE DES TERRORS) ~ナチスの恐怖政治を伝える博物館~
アンハルター駅とポツダム駅の中間には、ナチスの恐怖政治を伝える記念館であるテロのトポグラフィーがあります。この場所は元々、国家秘密警察(ゲシュタポ)、親衛隊(SS)、国家保安本部の建物で、2010年に記念館としてオープンしました。ナチスの官庁街だったウィルヘルム通りにも面していて、テロのトポグラフィーの前はベルリンの壁跡となっています。
ホロコースト記念碑といい21世紀にもなっても、ベルリンのど真ん中には次々とナチス時代を伝える施設がオープンしているのです。ベルリンのど真ん中ということで見学者も多いです。
館内は、写真と説明文が中心の一般的なナチス時代のドイツの歴史の展示になり、その資料の数は膨大です。地下は資料を閲覧できるスペースがあります。
「ハイル・ヒトラーをしないおじさん」
数ある展示のうち、ナチスの集会でヒトラーに忠誠を誓う、1人だけ右手を斜め前に挙げるナチス式敬礼を拒否するおじさんの写真があります。記念館ではこのおじさんの行方を追っていて、情報提供を求めていました。(2014年6月時点)住所:NIEDERKIRCHNERSTR.8
最寄駅:Uバーン、Sバーン POTSDAMER PLATZ駅
開館時間:10:00-20:00(無休)
入場料:無料
説明文:ドイツ語、英語
ヘーゲル広場の空の本棚 ~非ナチスの本が焼かれた焚書事件の現場~
目抜き通りウンター・デン・リンデンまで戻り、博物館島の方角へ歩くとヘーゲル広場(BEBELPLATZ)に着きます。ここに1933年のナチス時代の焚書事件のモニュメントがあります。焚書事件とは、1933年、ドイツ全土の大学諸都市で、25000冊の非ナチス的な思想の本が学生と教授の手によって焼かれた事件です。
不吉な時代の到来を告げる象徴的な事件とされています。実際には、非ナチス的な書物がドイツ中から公然と消えたわけでなく、許可制で売っていたりしていました。中国の反日デモと一緒でノリでやっていた学生も多かったと言われています。
当時の事件を風化させないために、地下に作った空の本棚がヘーゲル広場の一角にあり、25000冊の本を収容できるスペースになってます。ガラス板がはめ込まれて中が見えますが、何も入っていません。観光客が一斉に下を向いている場所が空の本棚なのですぐわかると思います。
激動の20世紀を駆け抜けたベルリン
町の始まりは13世紀、辺境の地だったベルリンは帝政時代の19世紀になって急速に発展しました。そして、ベルリンは悲劇と繁栄を繰り返した20世紀に突入します。ベルリン中心部にはナチス時代に関する遺跡がたくさん眠っています。それらのすぐ近くにはベルリンの壁跡もあります。ナチス時代の遺跡を散策をしていたら、ベルリンの壁跡を訪れる観光客やガイドツアーにもたくさん出くわすことでしょう。
ベルリンが激動の歴史だったことを肌で感じることができるのではないでしょうか。
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第101回~)
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