バンベルク会議とは?
ヒトラーの片腕、ナチスのNO.2、そしてプロパガンダの天才と言われた宣伝相のヨゼフ・ゲッベルス。彼はヒトラーに最期まで忠実に尽くして、ヒトラーが自殺した後、夫婦で後追い自殺を遂げました。
そんなゲッベルスですが、ナチスに入党した当初はヒトラーに疑念を抱き、ヒトラーと直接対決をしたことがありました。その場所がバイエルン州の小さな古都、バンベルクでした。
最初はヒトラーに懐疑的だったゲッベルス
1924年にミュンヘン一揆で投獄されたものの、同年の暮れ、わずか1年足らずで出所を果たしたヒトラー。年が明けると勢力的に活動を再開しますが、1925年2月下旬、ミュンヘンでの復帰演説の発言が過激だったため、バイエルン州から公での演説禁止令を言い渡されます。ヒトラーは再び表立った活動はできなくなったのでした。
ドイツ国内ではアメリカからの資金援助が功を奏し始めてインフレが収まりつつあり、国際関係でも国境と安全保障に関するロカルノ条約を締結して、安定期に向っていました。世間からナチスは忘れ去りつつありました。
自身の最大の武器である演説を奪い取られてしまったヒトラーは、投獄中から執筆し始めた、著書「我が闘争」の続編をこの期間を利用して執筆し始めます。そして、この時期、手に入れたお気に入りのベルヒデスガーデンの山荘で過ごすことが多くなりました。
ドイツは安定期、ナチスの活動は下火に思われていましたが、北ドイツのナチス党内では、ヒトラーが投獄している間、グレゴール・シュトラッサーという実力者が勢力を拡大していました。
シュトラッサーはナチス党員でも、社会主義的な思想を持ち、ナチスの党要綱を大企業と土地の国有化などを盛り込み、修正しようとしていました。そのシュトラッサーの秘書が同じ思想の持ち主だったゲッベルスだったのです。
ヒトラーのイデオロギーで社会主義的要素は一切ありませんので、当然、そのような思想は許せるものではありません。1926年2月14日、ヒトラーは彼らをバンベルクに召集します。これがヒトラーとゲッベルスが対決することとなったバンベルク会議です。
バンベルク会議が行われた日、ヒトラーが演説した場所
レグニッツ川湖畔の美しいバンベルク
バンベルク会議が行われたバンベルクは、ニュルンベルクから列車で30分~40分ほどなので、近辺の大都市からだとニュルンベルクから日帰りで行く人が多いようです。筆者も今回と以前に一度、バンベルクに足を運んだことがありますが、どちらもニュルンベルクに宿泊して向かいました。
中心部はドナウ運河とレグニッツ川が流れていて、旧市街のレグニッツ川の中の島、市庁舎はバンベルクのシンボルになります。4本の塔を持つ大聖堂が有名ですが、個人的にはレグニッツ川から望む聖ミヒャエル教会の光景が好きです。
バンベルク会議が開催された場所へのアクセス
バンベルク会議が開かれた場所は旧市街から少しだけ離れています。道のりが少々複雑なので、バンベルク駅から徒歩でのアクセスをご案内します。
①駅前から真っすぐに伸びるルイトポルト通りをひたすら進みます。
②4つ目の交差点(右側に老舗ホテルのバンベルガー・ホーフ・ベルビュー)の次の右側への曲がり角を進みます(リチャード・ワグナー通り)。
③リチャード・ワグナー通りをひたすら真っすぐ進み、川にかかっている橋を渡ると中の島に入ります。レグニッツ川が見えたら右側の小道を進み、レグニッツ川にかかっている橋を渡ります。
④そのまま坂道を進むとコンコルディア通りに突き当たり、左に進みます。
⑤コンコルディア通りを左に進むと、教会で行き止まりになりますが、その手前の右側の坂道を進みます。
⑥左側の緩やかな坂道を進むと、オーベラー・シュテファンスベルク通りに出ます。
⑦オーベラー・シュテファンスベルク通りの一番初めの左側に曲がる道の角にある建物が、バンベルク会議が行われた場所です。
グーグルマップで検索できるのですが、道が少し複雑なので、道の名前を極力省き文字と写真での説明を入れました。訪問する場合のヒントになれば幸いです。
今はレストランとなっているバンベルク会議の場所
1926年2月14日、バンベルク会議が行われた建物は、当時のものではないようですが、現在は酒場になっていて、当時は酒場を兼ねた民宿だったようです。民宿の名前も「荒くれもの」と、いかにも当時、ドイツ国内をかき回そうとしていたナチスの集会に似合った名前です。
ここでヒトラーは、一方的に演説を行います。ナチス党の総統である自分に忠誠を誓わなくてはいけないこと、いかなる分派も認めず、ゲッベルスやシュトラッサーが考案した改正した党要綱も一切認めませんでした。彼らを直接、攻撃することはせず、レトリック表現を使い、対立する思想への新しい概念を吹き込みます。
ヒトラーを自分たち側に引き入れようとした、ゲッベルスもシュトラッサーもヒトラーの独壇場の前には成す術がありませんでした。2人もナチス党におけるヒトラーのカリスマ性、自分への反攻分子を懐柔させる操術には黙るしかなかったのではないでしょうか。
ゲッベルスもこの日の日記に、無念の想いを書いたと言われますが、彼はヒトラーに傾倒していきます。傾倒時期に関しては、バンベルク会議の当日、または、この後4月に党本部があるミュンヘンにヒトラー直々に招かれて感激してからと、諸説があります。
いずれにせよ、元々ヒトラーに惹かれて、ナチス党に入党したゲッベルスにとってヒトラーは絶対的な存在だったのです。そして、ゲッベルスは、ナチスのNO.2として、斬新なプロパガンダ戦略を次々生み出して、ドイツ国民を改宗させるのに絶大な効果を発揮、ヒトラーを陰で支え、最期まで運命を共にしたのでした。
彼ら2人の関係を絶対的なものにしたきっかけが、このバンベルク会議でした。
ゲッベルスをヒトラーに取られたシュトラッサーは、その後もヒトラーとの関係は完全に修復されず、謀反を企てたり、離党を宣言したりします。そして、1934年の長いナイフの夜事件のどさくさで殺害されてしまいます。
筆者もナチスのトップ2の運命が決まった場所跡の酒場がオープンしていたら、中で一杯飲みたかったのですが、訪れたのが早朝だったため、残念ながらオープン前でした。
そんなドイツの運命を左右する場所も、閑静な住宅街、街中からちょっとはずれた落ち着いた雰囲気の酒場からは想像がつかないのでした。
イントロダクション
店名:Stöhrenkeller
住所:Oberer Stephamsberg 11
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ヒトラーとゲッベルスの対決!バンベルク会議が行われた場所(@YouTube) |
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