ヒトラーは開戦理由を必要としていた
ヒトラーは政権を握ってから、第一次世界大戦の敗戦によって結ばれたヴェルサイユ条約の影響で奪われた東欧の旧ドイツ領を、外交手段によって次々と回復していきます。
1935年 ザール地方、ドイツへ復帰
1936年 ラインラント進駐によって、ライン川西岸の非武装地帯へ軍隊を駐留
1938年 オーストリア併合(アンシュルス)、チェコのスデーテン地方を割譲
1939年 メーメル復帰、チェコを保護領化
ヒトラーの野望はポーランドの北部、国際管理下に置かれていた港町ダンツィヒ(現グダンスク)へ通じるポーランド回廊への治外法権の鉄道と高速道路の敷設でした(ポーランド回廊に関しては、「【第104回】第二次世界大戦で最初に投弾された橋、トチェフ鉄橋」編で説明します)。
しかし、他の東欧諸国と違って、ポーランドは簡単にヒトラーに屈せず、戦争も辞さない姿勢を貫いていました。そのポーランドの強気の背景には、1939年3月のチェコの保護領化以降、ドイツの動静に危機感を覚えたイギリスが、ポーランドの独立を保障する声明を発表していたからでした(イギリス・ポーランド相互援助条約成立 1939年4月)。
それを受けて、ヒトラーは国防軍にポーランド攻撃、暗号名「白色作戦」を指令し、ポーランドとの戦争を水面下で準備します。それと同時にポーランドとの開戦により生じる可能性があるイギリスとの戦争を想定して、当時、敵対していた共産主義国家のソ連に接近します。
また、イギリス側もソ連に接近して、開戦に備えてソ連をどちらの陣営に結びつけるかの駆け引きが開始されます。
ファシズムのドイツ、民主主義のイギリス。共産主義のソ連はどちらの国のイデオロギーにも属さない国家でしたが、ドイツとイギリスは開戦に備えて優位に立つために、ソ連を自分達の陣営につかせる必要がありました。
当時のソ連の首相、ヨシフ・スターリンはイギリス側の交渉の熱意の低さを感じ、ドイツのヒトラーと手を結ぶ決心をします。
1939年8月23日、独ソ不可侵条約が結ばれ、世界を驚かせます。当時ドイツと防共協定を結んでいた日本も驚き、時の首相が有名な「欧州情勢は複雑怪奇なり」という言葉を残します。
ソ連から背後を狙われる可能性がなくなったドイツは、ポーランドとの戦争が秒読み段階に入ったことは世界の誰の目からも明らかでした。そして、ヒトラーは開戦の一撃を加える前に、その正当性を訴えるための口実を必要としていました。それが※グラヴィッツで密かに作戦が練られていました。
※グライヴィッツは、ドイツ語の発音で、ポーランド語ではグリヴィツェと発音しますが、本記事では、ドイツ語読みのグライヴィッツと記載します。
ポーランドとの国境にある放送局をナチスの親衛隊が襲撃
その作戦は「ヒムラー作戦」、「タンネンベルク作戦」と呼ばれています。親衛隊大将、ラインハルト・ハイドリヒとゲシュタポ(国家秘密警察)のハインリッヒ・ミュラーの命令により、親衛隊少佐のアルフレート・ナウヨックスの部隊が実行することになりました。
独ソ不可侵条約が成立した後も、ドイツ、イギリス、ポーランド間で、外交官、中立国の民間の実業家などを介して、いくつかのルートで戦争回避の交渉が続けられる中、ナウヨックスはハイドリヒに呼ばれて、偽装作戦の実行を告げられます。
作戦の内容は、ポーランド兵の格好に偽装したナチス親衛隊の実行部隊がポーランドとの国境になるドイツのグライヴィッツの放送局を襲い、ポーランド語でドイツに対する徴発を呼びかけるものでした。実行部隊にはポーランド語が堪能な隊員が選抜されます。
1931年、日本の関東軍により南満州鉄道の線路を爆破して、中国軍の仕業にした「満州事変」の謀略行為(柳条湖事件)を彷彿とさせます。
柳条湖事件については、「No.24:旧満州国の痕跡を歴史背景と一緒に追いかける旅-その2」をご参照ください。
1931年8月31日、午後7時頃には戦争回避の努力は空しく全ての交渉が実りなく打ち切られます。午後9時15分、ドイツのラジオ放送は、ポーランドが平和提案を拒絶したと発表。これが実質的なポーランド国交断絶宣言になったのでした。
そのラジオ放送の少し前、午後8時、グライヴィッツで「ヒムラー作戦」が実行されました。
グライヴィッツと事件現場への行き方
事件現場のグライヴィッツは現在、ポーランド領で、ポーランドの南西部に位置する街です。グライヴィッツへは、首都のワルシャワから直通で行く列車はありません。ワルシャワから優等列車で約2時間、カトヴィツェまで行き、そこで乗り換えて約30分弱で着きます。
カトヴィツェから向い、グライヴィッツ駅に着く直前になると、右手に高い塔が見えてきます。そこが事件現場です。この塔はラジオ塔で開戦の4年前、1935年に建設され、木造構造物としては、最も高いラジオ塔になります。第二次世界大戦の開戦口実となったグライヴィッツ事件の歴史の目撃者でもあります。
グライヴィッツの街について詳しくは、グライヴィッツ在住の日本人でポーランドの情報を発信している「ポーランドなび」の著者、Ayakaさんの記事をご覧いただければ幸いです。
https://witam-pl.com/2015/11/15/blog33/
今回のポーランド取材でも、ポーランドを旅行する上で「ポーランドなび」は大いに参考になりました。旅行情報のみならず、ポーランドの歴史など、ポーランドに関するあらゆる情報が豊富な上、レイアウトがカラフルで見やすく、筆者も大変気に入っているサイトです。
https://witam-pl.com/
本記事ではグライヴィッツ事件に焦点を当てて紹介します。
事件現場はグライヴィッツの象徴、ラジオ塔
ラジオ塔はグライヴィッツ駅の北側に位置します。地図を見ると駅の北側から道が一直線なので行けそうに見えますが、駅の出入り口は南側しかありません。筆者も北側の出入口から歩けるのかと思っていたので、グライヴィッツ駅に着いた時は想定外で、滞在時間もあまりなかったので、駅前のタクシーで行くことにしました。
タクシーだとラジオ塔だと所要約5分、20ゾロチ(日本円で約800円)でした。
歩くと約30分ほどです。歩いていく場合、駅前の道を右側を進みます。線路を超える橋を渡るとガソリンスタンドがある交差点があり、そのまま真っすぐバルシャフスカ通り(Warszawska)を進むと、ルブリニエツカ通り(Lublinieska)になり、右側にラジオ塔が見えてきます。帰路はこの経路を歩いて駅まで戻りました。
ラジオ塔は公園になっていて、ルブリニエツカ通り側は公園の裏口になり、表口は反対側のタルノグルスカ通りになり、襲撃事件があった放送局の建物(現博物館)もそちら側にあります。
第二次世界大戦で初めての死者、フランツ・ホニオック
裏口から入るとある人物に関する1つの看板があります。その名前はポーランド系ドイツ人のフランツ・ホニオックといい、彼こそがグライヴィッツ事件の偽装工作の被害者となった人物です。
記述の通り、1939年8月31日午後8時、「ヒムラー作戦」が決行されます。ナウヨックスの舞台が放送局に突入。短機関銃と拳銃で天井に数発の威嚇射撃をして、局員達を地下室へ押し込めます。
放送スタジオに侵入して、放送されていた番組を中断させるのに時間がかかりましたが、ナウヨックスの部隊の隊員がマイクから演説をします。
「こちらグライヴィッツ、放送局はポーランドの手中にあり、ポーランド万歳!」
そして、放送局を退散していきます。その時、放送局の入口の脇に置かれていたのが、ポーランド兵の軍服を着ていたフランツ・ホニオックでした。その時はまだ息をしており、薬を打たれて意識不明の状態で倒れていました。その後、銃で撃たれて殺害されたという証言がいくつか残っています。
この死体役は「缶詰」とも呼ばれ、ホニオックの死体を現場に残すことで、放送局を襲撃した際に殺害されたように見せかけるための役を演じさせたのです。彼こそ「第二次世界大戦の初めての死者」と言われています。
この不名誉な役に選ばれた理由は、この作戦を実行するにあたって、親衛隊は缶詰役には、ポーランドシンパということを知られている人物が、ポーランド軍の仕業という証拠にするために都合がよかったからです。
ホニオックは1898年生まれの現ポーランド南西部とチェコ北東部に属するシレジア地方出身(グライヴィッツもシレジア地方)です。当時、ドイツ人とポーランド人が混在していたこの地域は、第一次世界大戦後のヴェルサイユ条約の規定された住民投票によって、その大部分がドイツ領となりました。それに反発したポーランド系住民が武装蜂起(失敗に終わる)をして、ホニオックも参加していました。
ドイツ国籍ではありましたが、執筆活動もしており、風貌も巨頭という特徴もありポーランドの独立派の人物として知られていました。まさに親衛隊にとって理想的な缶詰役の人物だったのです。
事件の舞台となった放送局は表口側に残っており、現在はグライヴィッツ事件の博物館として公開されております。筆者が訪問した時は残念ながらクローズしていました。
博物館へ訪問する場合は、下記の公式サイトで開館日時を確認してください。筆者は訪問の1年以上前からスタッフとメールで連絡のやりとりをしていましたが、オープン時に都合が合いませんでした。メールでスタッフの方も丁寧に対応してくれます。
イントロダクション
Museum in Gliwice – Gliwice Radio Station
公式サイト:http://muzeum.gliwice.pl/
グライヴィッツ事件のその後の影響
事件現場のラジオ塔周辺は、公園になっていてランニング、犬の散歩する人など、市民の憩い場となっていて、地元では第二次世界大戦の開戦のきっかけとなった事件現場というよりは、綺麗に整備されデートスポットのような認識のようです。
グライヴィッツのラジオ塔での動画です。筆者が公園内を周りながら案内しております。
関連動画 |
ポーランド、グライヴィッツ襲撃事件。開戦の口実を作るために、ナチスが偽装工作を行ったラジオ放送局〜第二世界大戦で初めての死者〜(@YouTube) |
グラウヴィッツ放送局襲撃は成功しましたが、肝心の反独演説の放送は電波が弱すぎてドイツ、ポーランド全土に広がるような放送はできませんでした。
翌9月1日は、ヒトラーはベルリンのクロールオペラハウスで開戦の演説をした際に、グライヴィッツの襲撃について触れて、ポーランドへの軍事侵攻の正当性を語ります。
また、グライヴィッツでの襲撃事件は開戦前の国際法に違反する行為だったので、国防軍の介入は可能な限り避けて、ナチスの親衛隊が起こした事件でした。そして、開戦後も表舞台で敵国と戦闘をする国防軍、裏で泥臭いことをしていく親衛隊とで役割分担ができていきますが、その最初の現場がグライヴィッツだったと言えます。
グライヴィッツ放送局襲撃から約8時間後、ドイツ軍の軍事行動が開始されます。
本記事では、第二次世界大戦のきっかけと最初の死者となった人物を紹介しました。次回以降の「【第104回】第二次世界大戦で最初に投弾された橋、トチェフ鉄橋」編では、第二次世界大戦で最初に軍事行動が起こされた場所を紹介します。
【本記事における参考文献】
・総統は開戦理由を必要としている タンネンベルク作戦の謀略(白水社)
・第二次世界大戦 ヒトラーの戦い 2巻(文春文庫)
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
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