日米の和平交渉が密かに行われた中立国スイス
スイスに限らず、戦時中の中立国は、敵対する両陣営の国と国交があるため、各国の大使館員や駐在武官などが駐在しています。そのため中立国は、両陣営が敵国の情報を入手するような諜報活動だけでなく、敵国に住んでいた民間人や拘束されていた捕虜の交換の場となることもあります。
例えば、戦前ヒトラーと交流を持ち、開戦直後に自殺未遂をしたイギリス人女性のユニティ・ミッドフォードは、ヒトラーの計らいでスイスに移送され、イギリスへ送還されました。
ユニティ・ミッドフォードについては、「【第72回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅9 ~英国女性ユニティ~」をご参考ください。
中立国という存在は、戦争当事国にとって侵攻対象だけでなく、密かに敵国と通じるルートとして利用価値があるのです。
そして1945年5月、ナチスドイツが崩壊してヨーロッパでの戦争は終結します。
しかし、まだ太平洋では、日本とアメリカを中心とした激しい戦闘が続けられていました。そんな中、スイスでは日米の関係者が密かに接触して和平交渉を始めます。
軍、民間と複数のルートでアメリカと接触
第二次世界大戦中のヨーロッパにも、ドイツを中心とした日本の同盟国には日本の大使館員、駐在武官、民間企業の駐在員がたくさん住んでいました。
彼らはナチスドイツの崩壊を目の当たりにしています。祖国、日本もこれ以上戦争を継続すると、国の存亡に関わる非常に深刻な事態になるという認識を持っていました。
そこでスイスにいる日本の軍関係者、マスコミ関係などの民間人が中立国という地の利を生かして、アメリカ側と接触を試みます。
早く戦争を終わらせたい日米の思惑
日本の最後の同盟国だったドイツが無条件降伏をした1945年5月、アメリカ軍の圧倒的な戦力の前に日本も追い詰められていました。日本本土の制空権はアメリカ軍が握っていて、首都の東京は焼け野原となり、海軍は戦争を遂行できるだけの戦力が喪失されていました。
その状況にも関わらず、陸軍の強硬派が中心となって、残存兵力、国民を総動員して、アメリカ軍と本土決戦をして決着をつけると叫んでいました。
戦争の行く末を悲観している天皇、政府関係者、一部の軍関係者の間では、終戦に向けての舵取りも始まっていました。
一方、戦争を優勢に進めているアメリカも早く戦争を終わらせたいと考えていました。
その理由は、当時アメリカの(連合国側の)同盟国である共産主義国家のソ連と、戦後のヨーロッパの秩序を巡っての対立が始まっていたためです。戦後、ソ連と対峙する体制に持っていくにあたり、日本にある程度の力を維持させ、共産主義の防波堤にしたいと考えるようになっていました。
また、1945年3月の硫黄島、戦闘中の沖縄戦では、日本軍の死に物狂いのゲリラ戦法での抵抗の前に、圧倒的な物量を誇るとはいえ、アメリカ軍の損害も深刻でした。本土決戦を行った場合、これ以上のアメリカ軍の若者の死傷者が必至でした。
戦争は継続されていますが、日米ともに腹の内では、お互い自分たちに少しでも有利なように早く終結させる方向に持っていきたいと思っていました。そこで様々なルートを通じて腹の探り合いを行います。その一つが中立国スイスを通じて、ヨーロッパに駐在している日米の関係者同士で交渉を行なうことでした。
日本人とアメリカ人が密かに初めて接触したレストラン
スイスで日本は、海軍、陸軍、金融関係者の3つのルートでアメリカ側と接触をしようと試みます。
本記事では海軍ルートを中心にその痕跡を紹介します。
ドイツに駐在していた海軍の藤村義朗(ふじむら よしろう)中佐と海軍嘱託の津山重美(つやま しげみ)が、ドイツが降伏する直前、スイスの首都、ベルンの駐在に任命されます。彼らは崩壊寸前のドイツの惨状を目にして、日本も戦争を早く終結させるべきと考えるようになります。そして、ベルンに駐在していた朝日新聞の特派員である笠信太郎(りゅう しんたろう)と接触します。
笠は日本にいる時から軍部に対して批判的な態度を取っており、会社側の考慮で身に危険が及ぶのをさけるために、特派員としてヨーロッパに派遣されていました。
笠はスイスで、反ナチスのため、スイスへ亡命していたフリードリッヒ・ハック(通称ドクター・ハック)というドイツの武器商人と交流を持っていました。ドクター・ハックの人脈を使い、アメリカのOSS(Office of Strategic Services・第二次世界大戦中のアメリカ軍の諜報機関)と接触することになります。
ドクター・ハックは第一次世界大戦では、捕虜として日本の福岡県に幽閉されていました。その時に日本人と交流を持ち、親日家として日本に協力してくれるようになった人物です。
そして1945年4月25日、ベルン郊外のムーリーという村のレストランで、ハックを通じて、OSSのメンバーと藤村、笠、津田が初めて会います。第二次世界大戦中で国交がなかった日本人とアメリカ人が接触するという、非常に珍しいケースです。
そんな歴史的瞬間の会談が行われたレストランが現在でも健在しています。
ムーリーはベルンの中心からトラムで10分ほど乗車した場所にあり、停留所の目の前にそのレストランがあります。シュテルネン(STERNEN MURI)というロッジ風の4つ星ホテルの中にレストランがあります。
会談が行われたのは、アルプスの山々が一望できる2階のバルコニー席だったようですが、中に入ってみると、1階がレストランになっていて、バルコニーがある2階はホテルとなっています。1945年の時点で100年の歴史がある鶏料理のレストランだったようですが、カフェバー風の店内は現代風です。今はスイス料理やワインが楽しめるようです。
この時の会談は、日本側からハックを含めた4人とOSS側から2人が来ました。両者、最初の接触ということで、顔合わせ程度で終わり、料理を食べて世間話しかしていませんでした。
筆者が訪れた時、雲がかかっていたので、ムーリーからアルプスの山々を望むことはできませんでした。しかし、日本が焦土と化して、本土決戦に備えていた時に、日本人が敵国のアメリカ人と美しいスイスの山々を見ながら、伝統料理に舌鼓していたと思うと滑稽な感じがします。
また、ベルンの郊外とはいえ、停留所のすぐ近くのレストランでお昼時という人目があるとことで、日本人とアメリカ人が接触していたことに、怪しむ人がいなかったのか気になるところです。それでもその辺は両者とも心得ていて、自然に接触していたのでしょう。
4つ星ホテルということで少々値がはりますが、ベルンはシュテルネンで一泊しても良かったかなというくらい落ち着いた雰囲気の周囲とホテルでした。
イントロダクション
STERNE MURI
ホームページ:http://www.sternenmuri.ch/
アクセス:ベルン中央駅からは、トラム LINE 6(青色)の「MURI」で下車(約10分)。停留所の目の前。
【第84回】第二次世界大戦中のスイスを追う旅3・水面下の日米和平交渉-その1
>【第84回】第二次世界大戦中のスイスを追う旅3・水面下の日米和平交渉-その2