63日間の戦いの終結
ワルシャワ蜂起の最後の銃声は1944年10月2日夕刻だと言われています。翌日、10月3日の深夜に国内軍はドイツ軍に対して降伏調印を行い、停戦が成立します。
ワルシャワ各地で果敢に戦った国内軍の兵士の士気は高かったのですが、食料が危機的な状況に陥っており市民に餓死者が出始めていました。まだ数日間はドイツ軍と渡り合える武器、弾薬を備蓄していたと言われますが、ロンドンの亡命政府はこれ以上の戦闘は無意味と判断して、ワルシャワの現地の司令部を説得させます。
また、女性、子供を含む一般市民を擁するにわか仕込みの軍隊でもあった国内軍が正規の軍隊であるドイツ軍に勝つためには、同盟国からの支援、援護射撃が必須な状況でした。具体的には、イギリス軍による空輸での補給とソ連軍の進撃による合流です。
しかし、空輸での補給は中々うまくいかず、さらにソ連軍においてはヴィスワ川を前に動くことはありませんでした。
ソ連は戦後、ポーランドを配下の共産主義の国として誕生させる計画がありました。
そのためには首都であるワルシャワの解放は、ロンドンの亡命政府の指揮下である国内軍によってもたらされると都合が悪かったのです。そのため、連合軍の空輸の際、ソ連側の空港の使用を許可せず、国内軍への補給を妨害しました。
国内軍によるワルシャワ蜂起の成否は、ソ連が握っていたことになりますが、ソ連軍が初めから動く気がないということは、結末は見えていたのです。
攻撃する方が出血を強いられる可能性が高いヨーロッパでの市街戦
しかし、ソ連軍も戦術的にも激戦が繰り広げられていたワルシャワ市街地に突入しなかったのは都合がよかったのです。
「【第107回】戦うポーランド! 20年で再び地図から消えるポーランド-その3」でも述べたように、1939年のドイツ軍とのワルシャワ攻防戦でもドイツ軍はヴィスワ川を渡らず、ワルシャワに対して降伏勧告をしました。
石の建物でできたヨーロッパの都市での市街戦は、破壊された建物の中に隠れたりして、ゲリラ戦を展開しやすく、守る側が有利になるからです。ワルシャワ蜂起で国内軍が63日間もドイツ軍に抵抗できたのは、地の利を生かして、ゲリラ戦を展開できたからでもありました。
史実でもスターリングラードの戦い、ベルリン最終決戦でも守る側のゲリラ戦によって、攻撃側に多くの損害を与えているのです。ドイツがソ連を攻めた際、ソ連第2の都市、レーニングラード(現サンクトペテルブルク)にあえて突入せず、食料、物資が無くなって根を上げるのを待つために、何年も完全包囲していました。
ワルシャワの解放とその後の運命
国内軍が降伏後、懲罰的報復としてドイツ軍は反抗分子の処刑は当然として、ワルシャワ市内の残った建物を徹底的に破壊してしまいます。
しかし、ワルシャワ蜂起を抑えることができても、ドイツ軍の劣勢の流れを覆すことはできす、東部戦線ではソ連軍に押し返されていきます。1945年1月12日、ソ連軍はようやくヴィスワ川を越えて廃墟と化したワルシャワに入り解放します。
第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は、その年の5月に終結して、ポーランドも最終的には連合軍として勝者側につきます。しかし、第一次世界大戦後、それに続く第二次世界大戦後のナチスドイツ統治下同様、周辺国の利害関係を大きく受けることになります。ポーランドは同じ戦勝国であるソ連やイギリス、アメリカとの戦いの幕開けともなるのです。
ソ連はワルシャワ蜂起時、国内軍に参加していた司令官や兵士を次々と捕まえて、裁判にかけて処刑していきます。ロンドンの亡命政府の息のかかった勢力は全てソ連に対する反逆分子としたのです。
ポーランドは戦後、「【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4」で説明したようにポーランド人による「ルブリン政府」を首班とした傀儡国家を樹立させます。
ポーランドは第一次世界大戦後、ソ連の衛星国である共産主義国家とし生まれ変わります。
第二次世界大戦中からイギリスやアメリカは、ソ連と同じ連合国の一員として戦いながらも、東部戦線で共産圏の勢力を拡大させるソ連の動向には警戒していました。しかし、英首相のチャーチルも米大統領のルーズベルトも、米英軍が西部戦線での戦端を中々開けない頃から、東部戦線で長年ドイツ軍の軍事脅威を一手に引き受けていた、ソ連の首相、スターリンには強く出られなかったのです。
ロンドンのポーランドの亡命政府は、またもや西側諸国の都合に振り回され落胆します。
ソ連の衛星国となった母国への帰国は、安全面の上でできませんでした。ポーランドの正当な政府も、ソ連の衛星国として独立したポーランド人民共和国が国際的に承認されます。
ポーランド亡命政府は形の上だけ残り、亡命政府のポーランド人はアメリカ等に移住します。ポーランド亡命政府が終焉を迎えるのはソ連が崩壊した1990年になってからでした。
大きく変わった戦後のポーランドの国境線
戦後のポーランドの国境線も大きく変わりました。
上記、写真はWikipediaからの転載になりますが、青い線が第一次世界大戦後、独立したポーランドの国境線となります。南北に引かれたオレンジの線が1939年の独ソ不可侵条約の秘密議定書で分割された分割ライン、赤線が第二次世界大戦後から現在に至るポーランドの国境となります。現在のポーランドの位置は全体敵に東側から西側に移動したことになります。戦間期は、現在のウクライナ、ベラルーシ、リトアニアの一部もポーランド領でした。
ウクライナはロシアだけでなくポーランドとも火種がある?
現在、ウクライナの西部でポーランド国境と近い、リヴィウという町があります。
リヴィウは14世紀のヤギェウォ朝ポーランド王国で黒海とバルト海を結ぶ交易路として栄え、ポーランド文化の中心でした。18世紀のポーランド分割により、オーストリア帝国に組み込まれますが、1918年の第一次世界大戦でオーストリアは敗戦、独立した西ウクライナ共和国となりますが、ポーランド住民が蜂起を起こして(ポーランド=ウクライナ戦争)、ポーランド領として再び復活します。しかし、ポーランド国民はポーランド文化の中心で、かつては戦争してまで勝ち取ったリヴィウが、第二次世界大戦後、ソ連領となってしまうことに落胆したのでした。
ウクライナ領のリヴィウは、2022年から始まったロシアとのウクライナ紛争で、ロシアからのミサイル攻撃の被害を受けたニュースが時々、日本にも届きます(本記事、執筆中の2024年8月現在)。ポーランドはウクライナを支援する前線基地となっていますが、そのポーランドも歴史的に見たら、隣国ウクライナに対して領土に関して、奥底には悩ましい感情があると思います。
このロシアとウクライナの紛争もロシアが西側諸国との防波堤となる緩衝地帯を確保しておきたいからと言われています。旧ソ連の国でありながらEU寄りの姿勢をみせたウクライナを、ロシアは手放したくないのでしょう。
ロシアはかつてモンゴル帝国に蹂躙された過去があるので、国境を接する国に対して歴史的に非常に敏感です。周辺国はロシア寄りの緩衝地帯としたい思惑が強いのです。
今後、情勢の推移がロシアに有利になった時、旧ソ連国で現在はEUに加盟しているバルト三国や長大な国境を接しているフィンランドとの関係も緊張したものになると予想されます。
また、かつてはロシア帝国の領土で、第二次世界大戦後、衛星国としていたポーランドも、その影響を大きく受けるであろうことは言うまでもありません。2024年3月、ポーランドのドナルド・トゥスク首相は、今のヨーロッパは第三次世界大戦になる可能性の危機を訴えています。
ロシア、ソ連の脅威を受け続けてきた、ポーランドとしては当然の反応ですが、一方ウクライナの西部はかつてポーランド領だったこともあって、ウクライナに対しても複雑な感情を抱いているのではないでしょうか。
島国の日本にいると、陸続きの国の国境問題、民族問題はわかりにくいですが、日本もかつては、サハリン(旧樺太)の中間地点で国境を接して、満洲国を建設した時は、ソ連の本土と長い国境線が続いていた歴史もありました。また現在もロシアとの北方領土問題は解決されておらず、日本とロシアの火種もあることは忘れてはいけないと思います。
ソ連の時代はタブー視されていたワルシャワ蜂起
ワルシャワ蜂起はソ連が崩壊する1990年まであまり語られませんでした。ワルシャワでの蜂起というと1943年のユダヤ人によるゲットー蜂起というのが一般的でした。ソ連にとって、ポーランド亡命政府主導で行われた1944年のワルシャワ蜂起は隠してしまいたい歴史だったのです。
当時のポーランドでも観光ガイドはゲットー蜂起記念碑を案内しても、ワルシャワ蜂起に関しては沈黙を守っていました。
1970年、西ドイツの首相、ヴィリー・ブラントがワルシャワを訪問して、ナチス時代の行いを謝罪した時、ゲットー記念碑で跪く姿は世界中に報道されました。しかし、ブラントはワルシャワ蜂起に関しては一切触れませんでした。
ブラントの東方外交については、「【第56回】ドイツ統一、ヨーロッパ統合とリューベックの関係を探る旅」編も参照してください。
しかし、ソ連の言論統制化の中でもワルシャワ蜂起を戦った人たちから、その記憶が無くなることはありませんでした。ソ連の影響力が弱まるにつれて彼らも徐々に声を上げていくようになります。戦うポーランドシリーズで紹介したワルシャワ蜂起の史跡の碑もソ連の影響力が弱まり始めた1980年代以降に建てられたものが多いです。
ポーランドは簡単にナチスに屈したわけじゃない
「【第107回】中学生の時、学校で初めてポーランドのことを知る-その2」でも述べた通り、筆者はポーランドを初めて知った中学生の時、ナチスドイツにあっという間に壊滅してしまい、脆いポーランドという先入観が植え付けられました。
拙著、ヒトラー野望の地図帳の元記事ともなった、「【第28回】第二次世界大戦の火ぶたが切られた街、ポーランドのグダンスクを歩く」の取材でグダンスクに行った時、街中で開戦初日からドイツ軍の多勢に無勢ながら善戦するポーランドの兵士や市民の姿を知りました。そこで筆者は、ナチスドイツに簡単に屈したわけではなかったポーランドの人々を紹介したいと思いました。
今回のワルシャワ蜂起に焦点を当てたこの「戦うポーランドシリーズ」では、そのことを意識して取材、執筆しました。ワルシャワ蜂起でも正規の軍隊であるドイツ軍に対して、劣る武装のポーランド国内軍が孤立無援の中63日間、ドイツ軍と渡り合えた彼らの戦いは伝わりましたでしょうか。
今回の取材では行けなかった場所や訪問したけど紹介できなかった史跡もいくつかありますが、戦うポーランドシリーズの参考文献の一つとして、下記の本が大いに役に立ちました。
ワルシャワ蜂起 1944年の63日
尾崎俊二
東洋書店
長年に渡ってワルシャワ蜂起やゲットー蜂起など第二次世界大戦中のポーランドを取材している尾崎俊二さん、記事で紹介した場所は主に尾崎さんのご著書を精査して訪問しました。尾崎さんの素晴らしい取材と情報量の多さに大変感謝します。
今回の取材の総括の動画です。最終日にホテルの部屋で撮影しました。
関連動画 |
28回目のヨーロッパ、半年ぶり5度目のポーランドを総括(@YouTube) |
<【第107回】人生の転機。9.11テロの時、ポーランドのアウシュビッツにいた-その1
<【第107回】中学生の時、学校で初めてポーランドのことを知る-その2
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<【第107回】戦うポーランド!各国の思惑に翻弄される占領下のポーランド-その4
<【第107回】戦うポーランド!再び世界から見捨てられるポーランド-その5
<【第107回】戦うポーランド!1944年8月1日午後5時-その6
<【第107回】戦うポーランド!ワルシャワの旧市街地区での戦い-その7
<【第107回】戦うポーランド!蜂起軍が駆使していた地獄の地下道-その8
<【第107回】戦うポーランド!国内軍の支配地域を分断させていた難攻不落の駅-その9
<【第107回】戦うポーランド!熾烈を極めたワルシャワ中心部での戦い-その10
<【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 前編-その11
<【第107回】戦うポーランド!ワルシャワのヴィスワ川沿いの戦跡 後編-その12
<【第107回】戦うポーランド!ソ連の支配地域だったヴィスワ川の対岸プラガ地区-その13
【第107回】戦うポーランド!ポーランドはナチスに簡単に屈したわけじゃなかった-その14
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,512円(税込)