波乱の歴史!モンテ・カッシーノ修道院
第2次世界大戦以前にも何度も破壊される
529年頃、ベネディクトゥスがイタリアのモンテ・カッシーノに修道院を開きます。修道院とはキリスト教の聖職者が共同生活をしながら学ぶところです。モンテ・カッシーノ修道院では、ベネディクトゥスの戒律である純潔・清貧・服従に従って修行をして民衆へのカトリック信仰を行っていました。「祈り・働け」をモットーに食料は自給自足で農作業や礼拝などをしていたのです。そして、モンテ・カッシーノの修道士たちの生活が各地の修道院のひな型となっていきます。
しかし、モンテ・カッシーノは戦略上の要地のため、過去何度もこの地に侵入してきたもの達によって破壊され、再建されてきた歴史があります。
- 584年 ランゴバルト人によって破壊
- 883年 サラセン人によって破壊
- 1799年 ナポレオン1世によって破壊
そして、第2次世界大戦末期のモンテ・カッシーノの戦いになります。
1944年のモンテカッシーノの戦いとは?
1943年9月のイタリアの休戦宣言以来、イタリアはイタリア駐留ドイツ軍、ファシスト党vsパルチザンの内戦状態になります。
詳しくは「イタリア、パルチザンの痕跡をローマで巡る旅 編」も参照ください。
連合軍もイタリア南部のサレルノに上陸以来、イタリア本土で苦戦が続きます。その大きな理由は山地が多いイタリアの地形にありました。ドイツ軍はその地形を生かしてゲリラ的抵抗を見せていたのです。ドイツ軍は連合軍のローマ侵攻を阻止するために、ダスタフ・ラインという強固な防衛ラインを築いていていました。その中心にあったのがモンテ・カッシーノ修道院だったのです。
上の写真を見ると、青線が上陸地点のサレルノから首都のローマまでの連合軍の進撃ルートになります。
イタリアの休戦宣言翌日の1943年9月9日、連合軍はサレルノに上陸、ナポリまではパルチザンの活躍もあり比較的容易に進撃しますが、ダスタフ・ラインでドイツ軍との睨み合いが続くことになったのです。モンテ・カッシーノ修道院一つを巡って、1944年2月から5月まで4ヶ月間も激戦が繰り広げられるのでした。
今でも現役のモンテカッシーノ修道院
どうやって行く?モンテカッシーノ修道院
モンテ・カッシーノ修道院があるカッシーノ(CASSINO)へは、ローマのテルミニ駅から列車で約1時間~2時間かかります(片道8.2ユーロ)。カッシーノ駅に着く直前に進行方向から見て左側の車窓の山中に修道院が見えてきます。
モンテ・カッシーノ修道院まで徒歩で行くのはほぼ不可能なので、バスかタクシーを使います。参考までに私がモンテ・カッシーノ修道院まで行った方法を紹介します。
行きはたまたま駅前にいた一台だけいたタクシーを使い、帰りは修道院から乗り合いバスで帰ってきました。カッシーノ駅前にいたタクシーは、修道院に行く客を捕まえて修道院と駅を往復するタクシーのようでした。バスは1時間ごとに修道院から駅までのノンストップの直通バスが出ています。駅から修道院へもピストン輸送をしていると思います。タクシーは片道、25ユーロ、乗り合いバスは2ユーロ、共に所要時間は約30分。
※注意 タクシーやバスが見つからないからといって、決して徒歩でモンテ・カッシーノ修道院まで行こうとしないでください。1日かけた登山になってしまいます。駅前にはタクシー乗り場、ちょっと先にはバス停がありますが、時間帯によってはタクシーがいない時もあります。また、バスはバス停からは修道院行きが出ているのではなく、発着は駅前になります(時刻表はなし)。とりあえず駅の前で待っていることをおすすめします。なので、ローマから日帰りで行く場合はなるべく時間に余裕を持って、朝早くカッシーノに着くようにしておくとよいと思います。
観光地となっているモンテ・カッシーノ修道院
まず、バスやタクシーでモンテ・カッシーノ修道院に着くと、駐車場から入ることになりますが、大半の観光客は自家用車や観光バスで来ているのがわかります。
修道院の敷地内に入ると、黒いスカーフ姿の修道士達の姿が目につきます。入り口をくぐり目の前にある芝生や草木の手入れが行き届いた中庭を抜けると、神殿のような広場になります。神殿の上には教会もあり観光客も礼拝できるようになっています。
無料で公開されているのはここまでです。建物の大半は修道院の施設として使われているのです。
お土産を売っている売店がありますが、飲み物以外の食事を取れる場所はありません。またお手洗いも中にはなく駐車場の近くにあります。観光客も多くて賑わっていても、修道院内部に観光客用のレストランやお手洗いがありません。修道院は神聖な場所なことがわかります。
モンテ・カッシーノ修道院を解放したポーランド軍
修道院の広場からは見晴らしもよく、右手に十字架を掘ったお墓の一群のようなものが見えます。これはポーランド人の墓地です。なぜポーランドのお墓があるのでしょうか?
それは、連合軍の中のポーランド軍の部隊がドイツ軍から修道院を解放したからです。その時、犠牲になったポーランド軍兵士の墓地なのです。
1944年2月15日、修道院は山頂にあるため、ドイツ軍の観測所に使われるという懸念がありました。そのためアメリカ軍が修道院を爆撃して破壊させてしまいます。直後、破壊された修道院に廃墟を守るためにドイツ軍は降下猟兵(パラシュート部隊)を投入。ドイツ軍は瓦礫を利用して築いた防御陣地、ダスタフ・ラインの山地という地形を利用して、徹底抗戦をします。修道院のドイツ軍は何度も4度にわたる連合軍の大がかりな攻撃に耐えて、戦いは4ヶ月続いていたのです。
そして、4度目である5月11日~12日にかけての連合軍によるカッシーノへの攻撃は大規模砲撃によって火蓋が切られます。
カッシーノ上方の山地では連合軍の一員であるポーランド軍歩兵隊が3日間、ほとんど前進できませんでした。5月17日、ポーランド軍は山地での攻撃を再開、5月18日にはイギリス軍と合流。また、同日早朝にはポーランド軍の偵察隊が、既にドイツ軍に放棄されている修道院を発見し、連合軍がモンテ・カッシーノでの戦略拠点占領に成功した瞬間でもありました。
そして、連合軍は難航不落だったドイツ軍のダスタフ・ラインを突破し、ローマ解放への道がひらけたのがモンテ・カッシーノの戦いであり、その象徴がモンテ・カッシーノ修道院の奪取だったのです。
モンテ・カッシーノ修道院を奪取したのはポーランド軍、その突破口をひらくのにダスタフ・ラインを脅かす戦いぶりを見せたのはモロッコ人から編成されるフランス軍部隊でした。当時は、ポーランドもフランスもドイツ占領下に置かれていましたが、一部の政府、軍はイギリスに亡命して、連合軍の一員として戦っていたのです。
しかし、その亡命フランス軍にフランスの植民地だったモロッコの兵士、イギリス軍の部隊にはイギリスの植民地だったインドの兵士も参加していました。ナチスドイツのヨーロッパ制覇を阻止しようとするヨーロッパ各国は、一方、自分たちのアジアやアフリカでの領土を維持するために必死だったのです。
駅近にあるカッシーノの戦争博物館
モンテ・カッシーノ修道院周辺では、ポーランド軍の兵士の墓地以外に、1944年の戦いの痕跡は見当たりませんが、カッシーノ駅の近くに1944年の戦争博物館があります。場所は駅前のバス停があるイヴァノエ・ボノーミ通り(VIALE IVANOE BONOMI)を左折して、左側にある3つ目のサイレント・マルコ通りに入った場所にカッシーノ戦争博物館(MUSEO HISTORIALE CASSINO)があります。駅から徒歩で10分弱です。
このカッシーノ戦争博物館は、1グループに1人のガイドが付いて、館内を案内してくれます。日本語の案内はありませんが、英語を堪能にしゃべれるガイドが常駐しています。自由見学はできないので、下記のホームページから予約をしていくとよいと思います。
内容は他のヨーロッパの戦争博物館同様に、まず館内に入ると第2次世界大戦が始まった経緯の展示から始まります。そして、1944年のモンテ・カッシーノの戦いの詳しい展示のコーナーになります。戦闘の様子を描いたジオラマ、連合軍とドイツ軍の配置、進軍の位置を示した地図が豊富ですし、当時の実際の映像とCGを合成した戦闘シーンの映像は、CG部分と実際の映像と区別がわからないほど精巧です。
イントロダクション
住所:VIA S. MARCO, 23, 03043 CASSINO FR
ホームページ:http://www.museohistoriale.org/index.php?/en/
料金:10ユーロ(1人)
海外の博物館では、英語力よりも知識が大切
私は英語を読むことはともかく、話すことと聞くことが非常に苦手です。でも海外の歴史博物館を見学する上で何が大切かというと、語学力よりも歴史知識をつけることが大切だと思います。その理由はいくら英語力があっても知識が乏しくては、ガイドの説明を翻訳できても理解できないからです。仮に知識があれば、英語力が低くても内容を推測できたりすることができます。
イタリアなのに、モンテカッシーノ修道院の裏には広大なポーランド人墓地、戦争博物館にはポーランド国旗も散見される、それはモンテカッシーノ修道院を奪還したのが、連合軍のポーランド軍の部隊だったからです。
モンテカッシーノ修道院の奪還=ポーランド軍の部隊
という事前知識があれば、多少は戦争博物館での見学の際の理解も深まるはずです。