【第32回】オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 少年時代編|トピックスファロー

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2016年3月28日
【第32回】オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 少年時代編

オーストリアはアドルフ・ヒトラー(1889-1945)が生まれた国です。ブラウナウに生まれ、リンツで過ごしたヒトラー。観光名所になっているわけではありませんが、ヒトラーが少年時代を過ごした痕跡が残っています。

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ブラウナウにあるヒトラーが生まれた家

どうやって行く?ブラウナウ

ブラウナウは、日本で販売されている旅行のガイドブックで紹介されていません。 そのため、日本での知名度は低いかもしれません。

オーストリアのオーバーエスターライヒ州の西北に位置するドイツとの国境の街です。サウンド・オブ・ミュージックで有名なザルツブルグや、ドイツのパッサウからは約60キロの位置にあります。

ブラウナウへは高速特急RAILJETが停車する、リンツから向かうことになります。 ブラウナウは、リンツから約115キロ西北にあり、パッサウへ向かう列車で約2時間弱ほどです。リンツからは1時間に1本の割合で列車が出ていて、途中ノイマルクト-カルハム(NEUMARKT-KALLHAM)駅で、シムバッチ(SIMBACH)行きの列車に乗り換えます。ノイマルクト-カルハムからは2両編成の列車のローカル線になり、列車がブラウナウに近づいてくると、車窓が田園風景から工場地帯に変わっていきます。

リンツ~ブラウナウ間 往復乗車券で34.6ユーロ

1ノイマルクト、リンツ間の車窓

ノイマルクト、リンツ間の車窓

ブラウナウの街

ブラウナウ(BRAUNAU AM INN)駅

ブラウナウ(BRAUNAU AM INN)駅は2階建てのローカル駅です。駅舎側から1番線ホーム、2番線ホーム、3番線ホームと並んでいます。2と3番線ホームは人が1人通れるくらいの幅の簡易なホームになっています。駅舎の中は、売店を兼任したオーストリア国鉄のチケットオフィスがありますが、街の地図や観光案内はほとんどありません。駅前はバス停がありますが、住宅街なので買い物をできるようなお店もありません。街の中心部は少し離れており、徒歩で向かいます。

2ブラウナウ駅

ブラウナウ駅

街の中心部への行き方

街の中心部へは、徒歩で約15分ほどかかります。

まず、駅を出て目の前を通るカイザーシュゼン通り(KAISERSCHUTZEN STR)を右に進みます。しばらくすると踏み切りと交差するバーンホフ通り(BAHNHOF STR)に突き当たり、バーンホフ通りを左側に進むと、通りの名前がリンザー通り(LINZER STR)に変わります。

リンザー通りを歩いていると、ピンク、クリーム、緑色の4階建ての家が交互に立ち並ぶ姿が目を楽しませてくれます。そのリンザー通りを抜ければ、ブラウナウの街の中心、スタッドプラッツ(STADTPLATZ)です。

3リンザー通り

リンザー通り

町の中心部、スタッドプラッツ

旧市街であるスタッドプラッツ(STADAT PLATZ)は、約300メートルほどの長さがある道のような広場です。駅から通ってきたリンツ通りのように様々な色の4階立て建物の調和が美しいです。中心部に市庁舎と噴水あり、数件のホテルやカフェ、スーパーなどがあり地元の市民で賑わっています。

広場からは、13世紀に建てられたゴシック様式の聖スティファン教会の尖塔が見えます。ブラウナウの起源は810年に遡り、市の条例は1260年に設定されました。リンツ通りから見て、右側にはイン川が流れ、左側の入口には塔があります。そのイン川に架かる橋(THE INN BRIDGE)と塔は市の条例が設定された1260年に完成しました。その橋を渡れば、隣国ドイツのシムバッチ(SIMBATCH)という街です。ブラウナウが国境の街ということがわかります。ちなみに、観光案内所は、広場のイン川側の端の建物の中に入っています。

4スタッドプラッツ

スタッドプラッツ

ヒトラーが生まれた家

アドルフ・ヒトラーの生家は、スタッドプラッツのすぐ近くにあります。スタッドプラッツの左側の塔を潜ると、ザルツブルガーヴォルスタッツ通り(SALZBURGER VORSTADS)になります。その左側に3階建ての各階に窓が6つある建物が見えてきます。

5ヒトラーが生まれた家

ヒトラーが生まれた家

アドルフ・ヒトラーは、税関職員だったアロイス・ヒトラーの3番目の妻、クララの間に生まれた6人中4番目の息子として1889年4月20日に生まれました。この家で数週間過ごして、3歳の時に家族はパッサウへと移り住みます。 現在、家の前はバス停と駐車場になっています。また、家の前の通りを挟んだ反対側には、スーパーやパン屋があります。 ブラウナウは観光客も少なく、ヒトラーの生家の前で足を止めて見ている人はほとんどいません。

「自由と平和、民主主義のため、ファシズムを繰り返してはならない。何百万人もの犠牲者が教えている。」

生家の前にある石碑に刻まれています。

6石碑

石碑

ヒトラーのヒの文字もありません。観光案内所においてあるガイドにも「MEMORIAL STONE」と表記してあるだけで、「HITLER」という表現は本文中に1回だけ登場するだけです。ブラウナウ市側としても、ネオナチの聖地となるのを恐れて、ヒトラーの生家の取り扱いに困っているようで、直接的な表現は避けているようです。家の前が駐車場なのもネオナチが集まるのを防ぐ目的があるようです。 この石碑はリンツ郊外にあるマウトハウゼン強制収容所跡から運ばれた石が使われています。

ヒトラーが生まれた4月20日には、大勢の警官が集まり物々しい雰囲気になるようです。 だからといって、街中で地元の方や観光案内所で「ヒトラーの家はどこですか?」と聞いても、嫌な顔されるわけでもなく、親切に教えてくれたりします。 この建物は障害者の施設としても使われ、障害者の方々がポストカードやおもちゃを作って販売していました。2015年現在では、借主のオーストリア内務省と家主の間で活用法の折り合いがつかず、空き家になっていて人気がありません。 ヒトラーの父親、アロイスは税関職員でしたが、家が旧市街のすぐ近くということで、それなりに良い暮らしをしていたのではないかと思われます。

ブラウナウは国境の街です。イン川を挟んだ橋(THE IN BRIDGE)の向こうはドイツです。 現代ではヨーロッパ内はEUで統合され、国境の概念が形骸化していますが、当時は橋のブラウナウ側に税関があったのでしょう。そこに父親、アロイスはこの家から毎日、勤務していたのかもしれません。

7イン川(国境)

イン川(国境)

住所: SALZBURGER VORSTADS 15

リンツ市内にあるヒトラーの少年時代のゆかりの場所

リンツ時代のヒトラー

ブラウナウで生まれたヒトラーは、父親のアロイスの仕事の関係で、パッサウ、ハーフェルト、ランバッハと転々とします。ヒトラーが11歳になった1899年、リンツ郊外のレオディングに移り住んできて、リンツでの生活が始まります。

ヒトラーが12歳になった1900年、リンツの国立技術学校(中学校)に入学します。小学校時代は優秀だったようですが、図画以外の成績が相当悪かったようで1904年、退学させられてしまいます。その間にレオディングに住んでいた1903年、父親のアロイスが病気(病名は色々な説有り)によって、65歳で亡くなります。父親のアロイスが亡くなった後の1904年、母親のクララ、妹のパウラと共にリンツ中心部のアパートに引っ越しました。その4年後の1907年にはクララも乳がんにかかっていることがわかりますが、ヒトラーの献身的な看病のかいもなく47歳でこの世を去ります。

学校も退学になり母親、妹と3人でリンツ市内のアパートに住んでいた1905年、の歌劇場で1905年ヒトラーより一つ年上のアウグスト・グビツェクと出会います。彼らは親友となり、1907年、ヒトラー19歳の時、共に芸術家を目指してウィーンへ上京することになります。

両親の死、退学、親友との出会い・・・・、12歳から19歳まで少年時代のヒトラーが過ごしたリンツの街に足を運んでみましょう。

どうやって行く?リンツ

リンツは、ウィーン、グラーツに次ぐオーストリア第3の都市です。

オーストリアの高速特急RAILJETで、首都のウィーンから1時間15分、ザルツブルグからは1時間5分ほど行くことができます。各都市間の鉄道の本数も多いので、日帰りでリンツを観光することも可能です。ヒトラーが生まれたブラウナウにも行く場合は、リンツを拠点とすると便利です。また、リンツ郊外にはナチス時代のマウトハウゼン強制収容所もあり、バスや近郊列車で行くことができます。 隣国、チェコのプラハからは列車だと5時間弱かかり、1日数本、列車が運行されています。

チェコ~リンツ間、片道 32.6ユーロ

8オーストリアの高速鉄道RAILJET

オーストリアの高速鉄道RAILJET

リンツの街並み

リンツ中央駅から街の中心であるハウプト広場(HAUPTPLATZ)までは、少し距離があります。

駅前からトラムに乗って行くこともできますが、徒歩でも20分くらいで到着します。駅からハウプト広場まで伸びるラント通り(LANDO STR)はレストラン、スーパー、カフェなどが立ち並び、観光客や地元の人達で賑わっています。ハウプト広場の東側の市庁舎には、観光案内所が入っています。旧大聖堂、モーツァルトハウス、リンツ城博物館、レントス美術館など、一般的な観光スポットは、ハウプト広場周辺に点在しています。

ベートーベン、モーツァルトにもゆかりがあり、オーストリアの大作曲家、アントン・ブルックナーの出身地でもあるので、芸術関係に馴染みが深いです。 芸術家を目指していた当時のヒトラーは、リンツの芸術的な土地柄からも影響を受けていたのかも知れません。

ヒトラーは、少年時代を過ごしたリンツの街の大改造する計画を持っていました。オペラハウス、巨大な美術館などを建設する予定だったと言われています。戦争末期、旗色が悪くなってもヒトラーは、首都のベルリンやリンツの街の大改造計画の話になると目を輝かせていたそうです。

9ハウプト広場

ハウプト広場

ヒトラーが少年時代を過ごしたアパート

ヒトラーが父親のアロイスと死別してから、母親のクララ、妹のパウラと3人で暮らしていたアパートが街の中心部にあります。 場所は駅からハウプト広場に向かうラント通りを、駅からみて2本右に入ったフンボルト通り(HUMBOLTDT STR.)にあります。ヒトラーが住んでいた家は4階建てのアパートで、ヒトラー家はこの建物の3階の一室を借りていました。現在でもアパートのようで、入口からは住人らしき人が出入りする姿も見られます。また建物の前は、ブラウナウのヒトラーの生家と同様スーパーとなっています。

10ヒトラーが少年時代過ごしていた家

ヒトラーが少年時代過ごしていた家

親友のグビツェクがこのアパートに遊びに時は、母親のクララはよくケーキを焼いてくれたそうです。母親が乳がんになりヒトラーの検診的な看病も実らず、亡くなった時は、大変悲しみました。ヒトラーは、母親の主治医だったユダヤ人医師を生涯に渡って感謝していました。総統になってオーストリアを併合した時も、医師を名誉ユダヤ人として保護します。

住所 HUMBOLTDT STR 31(市民公園右から伸びているゲーテ通り(GOETHE STRとの交差点の近く)

関連動画
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ヒトラーがリンツで住んでいた家のすぐ近くのホテルに泊まった時に不思議?な体験をしました。(@YouTube)

ヒトラーが少年時代に通った学校

ヒトラーが通っていた国立技術学校(中学校)は、フンボルト通りの家から徒歩約10分弱の距離にあります。ハウプト広場に向かってフンボルト通りを進み、5つ目の交差点を右(MONZART STR)に曲がります。そして一つ目のファディンガー通り(FADINGER STR)を左側に進み、2つ目の交差点に伸びるべセヘム通り(BETHEHEM STR)にあります。

11ヒトラーが通っていた中学校

ヒトラーが通っていた中学校

日本の中学校のように校庭はなく、見た目はアパートのようなような建物です。入口にはプレートで「哲学者ヴィットゲンシュタインが通った」と刻まれていますが、ヒトラーが卒業生だということは一切触れていません。中学生のヒトラーが登校したと思われるルートで歩いてみました。

ヒトラー家がフンボルト通りに引っ越してきたのは1904年6月、ヒトラーが学校を退学になったのは1904年9月です。ですから、このルートでは3ヶ月しか通っていないことになります。それまでは、リンツ郊外のレオディングに住んでいたので、バスでリンツまで来ていたのでしょう。

ブラウナウとリンツに行くと、少年時代のヒトラーは、ごく普通の家に生まれて、同世代の子供達と変わらない生活を送っていたのがわかります。リンツで芸術に興味を持ち、19歳になったヒトラーは、ウィーンへ上京したのです。

リンツ郊外のヒトラーの両親のお墓がある教会

リンツ郊外のレオディングという街に、ヒトラーの両親がお墓がある教会があります。 ヒトラー家は、フンボルト通りのアパートに引っ越す前、1899年から1903年までの4年間、レオディングに住んでいました。

教会へのアクセス

レオディングへはリンツ中央駅前のバス停から17番か19番のバスを使います。 共に1時間に2本の割合で運行されています。所用は10分程度(2.2ユーロ)。 LEODING SCHULEというバス停で下車します。バス停を降りれば、教会がすぐ目につきますので迷うことはありません。バス停から歩いて数分で教会まで着いてしまいます。

12教会

教会

教会にある両世界大戦の慰霊碑も

お墓なので、立ち入ることは遠慮させていただきましたが、教会の入口には、第1次世界大戦と第2次世界大戦の戦死者の慰霊碑があります。まず、教会の前にある木の前に第1次世界大戦の「1914-1918」と記されている石の慰霊碑が建っています。その右置くの横の壁には第2次世界大戦の黒い石の慰霊碑があり、戦死者の氏名と生年月日と死亡日が記されています。ざっと見ると数百人の名前が記されていますが、おそらくレオディング周辺の出征兵士なのだと思われます。

13 第1次世界大戦の石碑

第1次世界大戦の石碑

14第2次世界大戦の石碑

第2次世界大戦の石碑

ヒトラー家のお墓がある教会とはいえ、両世界大戦で亡くなった兵士の慰霊碑もあるのは、他のヨーロッパ各地の墓地と同じです。ヨーロッパの街中を歩いていると、思わぬモニュメントや慰霊碑に出くわすことがあります。「1914-1918」「1939-1945」という文言があったら、間違いなく世界大戦に関るものです。オーストリアの場合、第1次世界大戦では、ハプスブルグ家のオーストア=ハンガリー帝国として、ドイツ側で参戦して、次の大戦では、ドイツとして参戦します。

そしてヨーロッパでは第2次のみならず、日本では馴染みが薄い第1次世界大戦の戦跡やモニュメントもたくさんあることに気がつきます。

ウィーンに上京したヒトラーは、「オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 青年時代」編

ブラウナウとレオディングで感じた地元の人達のヒトラーに対する反応は、「【番外編】戦争遺跡ライターは、身に危険がある仕事なのか?」編

【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

▼ご依頼、ご質問はこちらのメールまたはツイッターから
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