1940年10月、専用列車で外交の旅に出たヒトラー
1940年6月、ヒトラーはフランスを屈服させ、7月にはドイツの傀儡政権であるヴィシーフランスを誕生させます。ヨーロッパ大陸の国々の大半はナチスドイツの支配下か同盟国でした。まさにヒトラーが絶頂の時期でした。
残されたイギリスの降伏も時間の問題かと思われましたが、この年の夏のドイツ空軍によるイギリス本土爆撃にも耐えて、孤軍奮闘をしていました。そこでヒトラーは、イギリスに圧力をかけるために、参戦していない同盟国の首脳たちと会って、対英参戦を促す外交を行います。
1940年10月23日、ヒトラーは総統専用列車「アメリカ号」で、スペインのフランコと会談を行います。場所は占領下のフランスで、スペインとの国境であるアンダイエ駅。しかし、フランコから参戦の同意を得られなかったヒトラーは、その足でフランスのモントワール(MONTOIRE)へ向かい、ヴィシーフランスのペタンとの会談に臨みます。
ヒトラーとフランコの会談については、「【第47回】バスクの旅3 スペインを破滅から救った舞台となった国境駅 前編」、「【第48回】バスクの旅4 スペインを破滅から救った舞台となった国境駅 後編」をご参照ください。
モントワールはパリの南西部にあるロワール=エシェール県にあり、南部のヴィシーフランス領内と北のドイツ軍占領地域の境目に近いドイツ軍占領地域にありました。
10月24日、モントワール駅でペタンと会談したヒトラーは、フランコ同様にのらりくらりと対イギリスへの参戦は断られてしまいます。しかし、この会談によって、ヒトラーは、ペタンから対独協力(コラボラシオン)の言質を得ることには成功します。ペタンは会談後、ラジオでフランス国民に向かって、誠実なドイツへの協力を訴えます。それが「モントワール精神」といわれています。
後世から見ると、フランスにとっては屈辱的だったかもしれませんが、ヴィシーフランスの中立を守れたので、ナチスドイツと共に敗戦国として破滅するという、最悪の事態は脱がれることができました。モントワールはフランスを救った場所とも言えるかもしれません。
そのモントワール駅の現在を紹介します。
ちなみにその後、ヒトラーは、ベルリンへ帰る予定を変更して、イタリアがギリシャへ侵攻する情報が入ったために、ムッソリーニと会談するために、アメリカ号でフィレンツェに向かいます。
そのフィレンツェでの会談は「【第51回】ヒトラーが2度訪れた、花の都フィレンツェ」編をご参照ください。
現在のモントワール駅
パリからモントワールへの行き方
結論から先にいうと、現在、モントワール駅は存在しません。モントワール駅があった場所は駅舎が残されていて、そこが博物館となっています。
そのため、パリの駅でモントワール駅までの切符を買うことはできません。モントワールへは、まずパリのモンパルナス駅からヴァンドーム(Vendome)という街まで行きます。
ヴァンドームはTGV(フランス新幹線)の駅とフランス国鉄の在来線の駅があります。街の中心部は在来線の駅にありますが、TGVの駅は郊外にあるので離れています。在来線だと何度も列車やバスを乗り継いだりするので、モンパルナス駅から45分で行けるTGVで行くのが無難です(フランスレイルパスを所持していたとして、追加料金は片道20~30ユーロ)。
※ヴァンドームに停車するTGVは少ないので、事前に時刻表はしっかり調べておいてください。
フランス国鉄(SNCF)のサイトで時刻表を検索することができます。
https://www.sncf.com/fr
モントワール駅舎跡まで、バスを含めた公共機関で行くのは極めて難しいです。代わりに使えるのが、駅前にいるタクシー。TGVのヴァンドーム駅からモントワールの駅舎跡までは、タクシーで約20分(料金は30ユーロ~35ユーロほど)です。
モントワールの中心街は、ロワール川のほとりにあり、広場と教会を中心に商店やカフェが立ち並んでいる小さい田舎町です。そんな田舎町に2つの国のトップ同士の会談が行われることになったのです。
駅ではなく博物館となっているモントワール駅舎
タクシーでモントワール駅舎に着くと、駅前はロータリーになっているので、今でもフランスの田舎の駅のような感じもします。ロータリーにはレストランや駐車場があります。
モントワール駅舎跡の裏側は、かつてホームがありました。現在も単線の線路は敷かれていますが、当時は5番ホームまでありました。
駅舎から直接行けるホーム(おそらく1番線)、線路を2本挟んでホームの両面が乗り場となっている島式のホームがあり、更に1本線路を挟んで島式ホームがありました。
下の写真を見比べると、駅舎の2階建ての中央部分は当時のままで、両サイドにあった1階だけの部分は無くなっています。
ヒトラーの「アメリカ号」は、駅舎から見て右側に牽引する機関車を先頭に3番ホームに停車していました。そこで後から来るペタンを待っていたのです。
当時のモントワール駅のホームは、5-6両編成の列車が停まるのがやっとくらいの長さしかありませんでした。対して、ヒトラーの「アメリカ号」は10両編成以上。ホームから大きくはみだして停車していたそうです。
総統専用列車、アメリカ号でのヒトラーとペタンの会談
1940年10月24日、フランコとの会談を終えたヒトラーは、ペタンより一足早くモントワールに到着して、アメリカ号の中で待っていました。
ペタンは軍服に身を固めて、モントワール駅の入口でヒトラーの側近の出迎えを受けます。
モントワール駅の入口前から駅舎の中を抜けて、アメリカ号が停車している3番ホームまで赤い絨毯が敷かれていました。ペタンは入口の両サイドに並ぶドイツ軍の儀杖兵の前を通り、絨毯の上を歩き駅舎を抜けます。
ペタンが駅舎からホームに出るとヒトラーが出迎えていました。ヒトラーが片手をさしのべて2人は握手します。その時間は18:55でした。
ヒトラーの専用車両に案内されたペタンは、通訳を交えて会談を行います。
ヒトラーがモントワールでペタンに一番要求したかったことは、ヴィシーフランスをドイツ側で対英参戦をさせることでした。
しかし、ペタンは二百万人の捕虜がドイツ国内にいることや、ドイツとの戦争が終わったばかりでフランスは再び戦争を始める状態にないことを理由に断ります。
これは密かにスペインのフランコがペタンに警告していました。
いずれアメリカも参戦するだろう。
そうなればドイツに勝ち目はない。
勝ち目のない戦争に巻き込まれる必要はない。」
ペタンもフランコ同様に、ヒトラーの要求をのらりくらりとかわしたのです。当然、ヴィシーフランスは主権国家といっても、ドイツの敗戦国にすぎませんから、一方的に断ることはできません。
モントワールでの会談の数日後、ペタンはラジオ放送を通じて、対独協力(コラボラシオン)名誉を持って受け入れると、フランス国民に語ります。
また、忍耐強く自信に満ちた努力を必要とする、私に従え。
永遠のフランスを信ぜよ。」
この対独協力宣言が「モントワール精神」といわれています。
ペタンは、ナチスドイツに協力するという形をとる一方、それを隠れ蓑にドイツ側での参戦を拒否する芸をしたともいえます。フランスは結果的に、第二次世界大戦で連合軍側から寝返った敗戦国という汚名を免れることになります。
フランスの破滅を阻止したのが、このモントワール駅での会談だったのかもしれません。
博物館になっているモントワール駅舎
現在の駅舎の中は小さい博物館になっています。ペタンとヒトラーが握手をした時間(18:55)を指す駅の時計や会談当時のモントワール駅の模型が展示されてあります。
英語とフランス語を話すスタッフが1人常駐していてガイドもしてくれます。
筆者も渡仏する前は、モントワール駅は現存していて、この会談についての痕跡は残っていないと思っていました。しかし、駅は廃止になったにも関わらず、ペタンとヒトラーの会談の痕跡を残すために、駅舎を残して博物館にしていることに驚きました。
それは現在のフランスが、ナチスドイツと手を組んだ歴史も認めているということです。その瞬間がこのモントワール駅舎でした。博物館内は、フランスのドイツ側での参戦を阻止したというよりは、手を組んだ歴史的瞬間を伝えることに重点が置かれていると感じました。
ペタンがいたヴィシーフランスの首都、ヴィシーに関しては、「ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その1」編、「ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その2」編をご参照ください。
後方に見える駅舎は当時は貨物専用。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
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