ヒトラーが溺愛した姪、ゲリ・ラウバル
ヒトラーには、異母姉アンゲラ・ヒトラーの娘でゲリ・ラウバル(本名はアンゲリーカ・マリア・ラウバル、ニックネームはゲリ)という姪がいました。
1924年、16歳のゲリは、ミュンヘン一揆で失脚して、ランツベルク刑務所に服役しているヒトラーの元を訪れました。その時、早くに父親を亡くした思春期のゲリはヒトラーに好印象を抱いたといわれています。
一方、ヒトラーも幼少の頃、父親を亡くしたゲリを娘のように溺愛します。美人のゲリを自慢するかのように、男性だけしか許されてなかった党の会合に連れて行ったりもしました。しかし、ヒトラーはその可愛さからか徐々にゲリの自由行動、趣向を制限していきます。
ゲリに自分以外の男の影を感じると、ゲリに監視を付けたりします。
ゲリが海水浴に行こうとした時、かつては芸術家であったヒトラーが、自らデザインした水着を着せようとします。そのスケッチを見た瞬間にゲリは激怒したという、ゲリを束縛するエピソードがたくさんあります。
そして、1929年、21歳の時、ゲリはヒトラーの住居に引っ越してきます。 しかし、ゲリも窮屈さを感じることも多く、ヒトラーと口論をすることも多くなりました。そして悲劇が起こります。
ヒトラーがミュンヘンで3番目(最後)に住んだ家で自殺
1931年9月18日、ヒトラーとゲリは激しい口論になります。その原因が何なのかはわかっていませんが、ヒトラーはその後、出張のためニュルンベルクに向かいます。
そして、家ではゲリがヒトラーの部屋に入りピストルを取り出し、自分の部屋のソファに腰を下ろして、心臓に向かって引き金を引きます。午後5時ころだったそうです。翌朝、家政婦がゲリが倒れているのを発見します。23歳で生涯を閉じました。(ゲリの死には自殺説、ヒトラーが暗殺説、偶発的な事故説など諸説あります。)
ゲリが亡くなっているのを発見した家政婦の証言では、死の直前、ゲリはヒトラーの部屋で1通の手紙を見つけて、持っていたと証言しています。
その手紙は、エヴァ・ブラウンという女性からのものでした。
「親愛なるヒトラー様 楽しかった劇場へのご招待ありがとうございます。
・・・・・またお目にかかることを楽しみにしております。 エヴァ」
ゲリはヒトラーへの嫉妬と同時に、自分を拘束する一方で他の女性と仲良くしていたことに対するジレンマがあったのかもしれません。
そのゲリが自殺した場所であり、ヒトラーがミュンヘンで3番目に住んだ家が、現在でもあります。
ゲリを失い悲しみにくれるヒトラー
ヒトラーは連絡を受けて、急遽、ニュルンベルクからミュンヘンに戻ってきます。ゲリの死で錯乱状態になったヒトラーはしばらく仕事に手がつかなくなりました。側近たちはトラーが後追い自殺するのではないかと心配するようになります。
ヒトラーは後年、ゲリと過ごすことができたこの時期が生涯で一番幸せだったと言っていたことからわかるように、その時のヒトラーは憔悴しきっていたことがうかがえます。
現存するプリンツレゲンテン広場のヒトラーの家
場所はプリンツレゲンテン広場という場所にあります。ミュンヘン中心部からはイザール川を越えた東部になります。最寄り駅は、ミュンヘン中央駅から6つめの地下鉄U4線のPregentenplatz駅です。
駅を出て地上に出れば、そこはプリンツレゲンテン広場で、ヒトラーが住んでいた家は広場に面して立っています。
ヒトラーは、1929年にティールシュ通りの家から引っ越してきます。周囲は今でもミュンヘンの高級住宅街。今まで紹介した家の中で、一番立派な建物に住むことができるようになったのです。現在は警察署となっています。
ヒトラーがドイツの政権を取った1933年以降は、活動の舞台を首都のベルリンに移しますし、ミュンヘンから近いベルヒデスガーデンの山荘にこもることが多くなります。そのため、ヒトラーが総統になってから、プリンツレゲンテン広場の家に滞在することはあまりありませんでしたが、家賃は戦争が終わるまで払い続けていました。
ティールシュ通りの家は、「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅4 ~ヒトラーの挫折編-その2~」。
最初の家は、「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅1 ~ドイツとの出会い編~」をご参照ください。
ヒトラーの部屋やゲリが自殺した部屋があったのは、日本風にいえば3階になります(ドイツでは日本の1階は「地上階」と表し、2階を1階と表現)。2人の部屋は、広場側の正面から見ることはできませんが、左側の広場に面してない場所にありました(反対側は中庭になっているようです)。
3階の正面のバルコニーから右側にあたる部屋は、ヒトラーの図書室がありました。1945年5月にこの建物はアメリカ軍に接収されます。その時、押収されたヒトラーのプライベートな本は、ワシントンのアメリカ議会図書館に貯蔵されています。その図書室にある本棚は今では、この警察署のサッカーチームが優勝した時のトロフィーが飾られているそうです。
オーストリア各地、ミュンヘン各地にヒトラーの家がそのまま残っているように、ヨーロッパの人たちは、それが負の遺産だろうと使えるものは使うという発想があります。だからこそ、ヨーロッパはどこに行っても歴史を感じられる街並みなのでしょう。
第二次世界大戦が始まると、ミュンヘンも連合軍の爆撃を受けるようになります。1942年には、家の地下にはブンカーと言われる防空壕が完成して、現在もあります。
現在は警察署となっているので一般人は立ち入ることはできませんが、いずれ見学できたら良いなと思っています。
関連動画 |
#14 1931年9月18日、ヒトラーの姪ゲリが亡くなった日に、満州事変が発生(@YouTube) |
ヒトラーの強さ
ゲリを失ってから数日後、ヒトラーはハンブルクの演説で、いつものように力強く大聴衆を魅了させます。過去、第一次世界大戦で兵士として生死をさまよったり、ミュンヘン一揆で政治生命を絶たれたり、数々のピンチから立ち直ったヒトラー。絶望の淵から這い上がるたびに活力を増すことが、ヒトラー独特の再生パターンなのかもしれません。
次はゲリが自殺するキッカケを作ったかもしれない、ヒトラーへの手紙を書いたエヴァ・ブラウンについて迫っていきたいと思います。
【本記事における参考文献】
ヒトラーをめぐる女たち(TBSブリタニカ)
著:エーリヒ・シャーケ
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,400円(税抜)