サラエボ事件とは?
1914年6月28日、オーストリア=ハンガリー帝国の皇位継承者フランツ=フェルディナント大公と妻ソフィーは、軍事演習を視察するためにサラエボを訪れていました。当時、サラエボがあるバルカン半島は、『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれていました。
その理由は、民族的にはクロアチア人とセルビア人が混在し、宗教的にはカトリック、ギリシャ正教、イスラム教が入り乱れていたからです。
また、思想的には、18世紀頃バルカン半島を支配していたオスマン帝国が衰退していくと、オーストリアは『ゲルマン主義』、セルビアは『スラブ主義』という大義名分を掲げてイデオロギー問題が深刻化していました。
そんな状況の中、サラエボにオーストリアの代表がやってきたのです。
歓迎のパレードの中、皇太子夫妻を乗せたオープンカーがミリャツカ川にかかるラテン橋に通りかかった時、『大セルビア主義』を掲げる団体、青年ボスニア党の青年、カブリロ・プリンツィプによって狙撃されます。
1発目はフェルデナント大公、2発目はソフィーに命中して、2人はほとんど即死でした。
皇太子夫妻の暗殺の一報がウィーンに届いた時、オーストリア=ハンガリー帝国の皇帝フランツ=ヨーゼフ1世は、それを口実にドイツから白紙委任を取り付け、ドイツの後ろ盾を得てセルビアに宣戦布告をします。
それに呼応して『スラブ主義』のロシアがセルビア側で参戦します。そのロシアはイギリス、フランスと3国協商を結んでいたために、イギリス、フランスも参戦することになりました。
その結果、4年間に及ぶヨーロッパを大惨禍に招いた最初の世界大戦が勃発したのです。
第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件、その痕跡がウィーンと事件現場サラエボに残っています。
サラエボ事件の現場と、暗殺された皇太子が乗っていたオープンカーを見に行こう
オープンカーが展示してあるウィーンの軍事博物館
ウィーンの軍事史博物館に、フランツ=フェルデナント大公が、サラエボ事件当日に着用していた制服と、乗っていたオープンカーが展示されています。
軍事史博物館は、2014年12月に開業したウィーン中央駅の近くにあります。博物館の建物は、19世紀後半に兵器所蔵庫として建てられ、ビザンチン様式とネオゴシック形式の重厚な外観となっています。ハプスブルグ帝国時代から第一次世界大戦までの軍事史に関するものが展示されています。
今にも動き出しそうな不気味な黒色のオープンカー、血のりがあり、袖に弾痕が貫通した跡がある皇太子の青色の制服を間近で見ると、100年以上前の出来事であるサラエボ事件の生々しさを博物館で実感することができます。
イントロダクション
住所:3区 ARSENAL OBJEKT 1
料金:6ユーロ (学生・ウィーンカードで4ユーロ)
開館時間:9:00-17:00
サイト:http://www.hgm.at/
ウィーンの見どころ
かつてハプスブルグ家の都として栄えたウィーンは、モーツァルトやベートーベンが活躍した音楽の都として知られています。
国立オペラ座、シュテファン寺院、王宮などウィーンを代表する観光名所は、かつて城壁があったリンクという環状大通りの内側にあります。リンクは1周4Kmほどなので歩いて見て回ることができます。
ちなみに王宮のバルコニーは、1938年ナチスドイツがオーストリアを併合した際、ヒトラーが演説した場所でもあります。
ウィーンで最も観光客が訪れるハプスブルグ家の夏の離宮シェーンブルン宮殿は、リンク外にあるので地下鉄を使っていくのが一般的ですが、リンクから徒歩で行くことも可能です。時間があれば歩いてリンク内とは違う表情を見せるウィーンを堪能してはいかがでしょうか。
また、あまり知られていませんが、隣国スロヴァキアの首都ブラチスラバはウィーンから東へ約50kmほどのところにあり、バスで約1時間で行くことができます。美しい街並みの中にどこか素朴な感じがある旧東欧諸国の首都を、ウィーンから日帰りで堪能することもできます。
サラエボ事件の現場、ラテン橋
ボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボには事件の現場になった橋が今もあります。
サラエボの旧市街の中心にある職人街バシチャルシャ広場は、赤レンガの古い屋根が軒を連ね、観光客で賑わっています。そこから少し歩くとサラエボ市内の中心を東西に流れるミリャツカ川があります。ミリャツカ川に掛かっている橋の中の一つで、石造りのラテン橋(Latinska cuprija)がサラエボ事件の現場となります。
青年ボスニア党は複数の暗殺者を用意しており、皇太子夫妻が暗殺される直前に暗殺者が投げた手榴弾が、皇太子夫妻の後続の車に命中して10人ほどの随員が負傷しました。
それにより皇太子夫妻は急遽予定を変更して、負傷した随員を見舞うためにルートを変更し、病院へ向かうことにします。そこで通ることになったのがラテン橋だったのです。
橋の近くの喫茶店で青年ボスニア党の青年カブリロ・プリンツィプが昼食を取っていました。
そして、偶然にも皇太子夫妻が目の前に現れたために引き金を引いたのでした。
暗殺に成功したカブリロ・プリンツィプは自殺を図りますが、失敗してすぐ捕まってしまいます。
ラテン橋は一時期、彼の名前の『プリンツィプ橋』と呼ばれていたこともありました。
ラテン橋のすぐ近くにはサラエボ博物館があり、事件の詳細な展示されています。
事件現場と共に博物館も訪れてみれば、サラエボ事件への理解が一層深まるでしょう。
90年代の内戦の痕跡も残っているサラエボの街
第一次世界大戦が勃発した当時、様々な民族、宗教、イデオロギーが重なって『ヨーロッパの火薬庫』と呼ばれていたバルカン半島は、現在でも基本的に状況は変わっておらず、紛争が絶えない地域です。
サラエボは1990年代前半、独立を唱える各共和国とそれを阻止するセルビア人勢力との内戦状態に陥りました。現在ではだいぶ復興してきて観光客も増えてきていますが、その爪あとが今でもサラエボ市内に残っています。
・スナイパー通り
サラエボ市内を東西に流れるミリャツカ川と併走するスナイパー通りでは、セルビア人狙撃兵によって、女、老人、子供含めて動くもの全てが狙い打ちされました。
スナイパー通りには今でも弾痕の跡が無数残っています。
・サラエボ冬季五輪スタジアム跡
サラエボ市内の北側に、内戦直前に行われた1984年冬季オリンピックスタジアムが残っています。内戦中、犠牲者を墓地に運ぶことができなかったため、犠牲者の墓地がスタジアム内につくられました。施設跡に残る平和の象徴である五輪マークと無数に広がる墓地とのコントラストがとても皮肉です。
・青空市場
バルチャルシャやラテン橋から近い通りにある青空市場は、内戦中、砲撃砲が打ち込まれ、68人の市民が死亡した現場です。今ではその跡もなく活気を取り戻しています。青空市場は日本のテレビ番組がサラエボの内戦を取り上げる時、必ず登場する場所でもあります。
サラエボ事件を探る旅のルートを考えてみる
東欧は激動の歴史を駆け抜けてきて、昔のヨーロッパの香りを残す魅力的な国々がたくさんあります。学生など時間がある人はじっくり時間をかけて陸路で東欧を縦断することもできるでしょうが、多くの人は旅行する時間に制約があると思います。
そこで、少しマニアックですが、サラエボ事件の痕跡がある2都市を巡るルートを考えてみたいと思います。
日本から直行便があるオーストリアの首都ウィーンは、東欧へのゲートウェイとして最適です。その後、ウィーンからLCCや欧州系の航空会社でサラエボに飛ぶのが最短ルートになります。
オーストリアとボスニア・ヘルツェゴビナの周辺には、クロアチア、ハンガリー、スロベニア、セルビアの国などがあります。バス、列車で行く場合はこれらの国々を経由することになります。
最短ルートは、ウィーン~ザグレブ(クロアチア)間(バスで約6時間)、ザグレブ~サラエボ(バスで約8時間、列車で約9時間)になります。
各ルート共に1日に数本あるので、夜行の時間帯のバスを使ったりすれば、ザグレブでも1日観光ができて、2都市を短期間で周ることができると思います。
本来なら、周辺国と合わせて旅行したついでにサラエボ事件の痕跡を巡るのが良いと思います。東欧へ訪れた時にはぜひ足をのばしてみてください。