ヒトラーが失脚するキッカケとなった「ミュンヘン一揆」
ヒトラーのパフォーマンスでナチスがミュンヘンで勢力を増す中、1923年、ドイツ経済に大打撃を与える事件が起こりました。
1月、ドイツがヴェルサイユ条約の賠償金の支払いが滞っているのを理由に、フランスとベルギーは軍を使って、ドイツ西北部の工業地帯、ルール地方を占領してしまいます。
ドイツ経済の中心部を占領してしまった、フランス、ベルギーに対して、ドイツ国民はストライキなどで反発、そのおかけでドイツマルクは大暴落して、凄まじいインフレーションが発生して、国内は大混乱となってしまいました。
ヒトラーはこの混乱を利用します。夢だった大ドイツ帝国統一に向けて、ヒトラーと同じく右翼派の指導者がいるバイエルン政府と共に、ベルリン進軍を行い中央政権の奪取を試みました。
しかし当時のバイエルン政府は、バイエルンを中央政府(ワイマール共和国)から独立する選択肢も考えていました。元々ドイツは統一されるまで、各地域の諸邦(自治権を得た君主を中心とした国家)の集まり。その中でもバイエルンは特に、保守的、国粋主義的な気質であったことが影響しています。
バイエルンのヴィテルバッハ家は、中央政府のベルリンがあるプロイセンのホーエンツォレルン家より、歴史が古いこともあり、バイエルンの人達はプライドが高く、反プロセイン的な感情を持つ人が多かったのです。そのため「中央政権を奪取=プロイセンをバイエルンの配下にする(バイエルンの一部とする)」という意見と同じくらい、「独立する=プロイセンとは一線をひく(一切の関わりを持たない)」といった意見が根強かったといえます。
ヒトラーはその保守的なバイエルンの世論を変える必要があったのです。そこでバイエルンの高官と武力をちらつかせて直接交渉する強硬手段にでます。
1923年11月8日、ヒトラーは突撃隊を引き連れて、バイエルン政府の代表団が集会を開催していた酒場ビュルガーブロイケラーに乗り込みます。しかもこの時ヒトラーは、自分と同じく中央政府に反対していた、第一次世界大戦中の国民的英雄エーリヒ・ルーデンドルフ将軍も仲間に連れていました。
ルーデンドルフもヒトラーと同じく、先の大戦で負けた原因は、背後からの一刺し説を唱えていたのです。ルーデンドルフは主張が同じであるヒトラー率いるナチスという新興勢力、ヒトラーはルーデンドルフの威光を利用することによって、国民の支持を得ようとしました。その結果、お互いの利益が合致して彼らは戦闘同盟という同盟を結んだのです。
背後からの一刺し説は、「両大戦の転機となった軍港キールで、水兵が蜂起した痕跡を巡る」編を参照してください。
これが「ミュンヘン一揆」といわれる事件の始まりです。事件の顛末と共にそのルートを紹介します。
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11月8日はヒトラーにとって欠かせない日(@YouTube) |
ヒトラー一行が行進したミュンヘン一揆のルート
酒場(ビュルガーブロイケラー)からの出発
バイエルン政府が集会を開いていたビュルガーブロイケラーは、現在、ガイタイク文化センターとなっています。
ヒトラーとナチスが出会った場所
ヒトラー一行は、目の前の緩やかなローゼンハイム通り(RosenheimStraße)を下り、信号を左に進みます。目の前にイザール川にかかる橋を渡ります。イザール川の真ん中は島になっていて、島の上にあるドイツ博物館が左手に見えてきます。当時からある博物館で現在では第二次世界大戦中の航空機などが展示されています。
橋を渡り、そのまままっすぐローゼンハイム通りを進むと、右にカーブすると、イザール門が見えてきます。イザール門の手前右手にある、トラム(路面電車)が走っているティールシュ通り(ThierschStraße)は、ヒトラーが後に出版する著書「我が闘争」を発行した出版社の建物(後述)や、ヒトラーが1920年代に住んで家があります。
イザール門を潜ると、タール通り(Tal)となり、ヒトラーがナチスと初めて出会った酒場(シュテルエッカーブロイ)がすぐ左に見えてきます。ヒトラーはこの時、どのような気持ちで4年前のナチスに入るきっかけとなった場所を眺めながら行進していたのでしょうか?
シュテルエッカーブロイは左から5番目の建物。
奥の尖塔は旧市庁舎。
旧王宮方面へと進む
彼らはタール通りを進み、旧市庁舎の建物の潜るとマリエン広場が見えてきます。新市役所があるマリエン広場は群衆で溢れ、当時走っていたトラムも立ち往生していたそうです。そのため、マリエン広場には入らず、新市庁舎の右側のディナー通り(DienerStraße)をヴィテルバッハ家がいた旧王宮方面に向かいます。
【第67回】ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅4 ~ヒトラーの挫折編-その1~
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