【第91回】ナチスドイツ終焉の地、デンマークとの国境にあるフレンスブルク|トピックスファロー

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2022年11月22日
【第91回】ナチスドイツ終焉の地、デンマークとの国境にあるフレンスブルク

ヒトラーが自殺してナチスドイツが消滅したわけではありません。ヒトラーの遺言で後継者となったデーニッツ提督が終戦内閣を組閣、連合軍との降伏交渉に当たります。デンマーク国境との街、フレンスブルクに政府が置かれました。

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フレンスブルク内閣とは?

1945年4月30日、ベルリンの総統官邸の地下壕でヒトラーが自殺して、そのままナチスドイツが自然消滅したわけではありません。

ヒトラーは生前、後継者に海軍元帥だった、カール・デーニッツを指名していました。

ヒトラーが自殺した日の午後7時、ドイツの北方のブレン市にいるデーニッツは、ヒトラーの秘書だったマルティン・ボルマン(ヒトラーの死後はナチス党党首)から、ヒトラーからの遺言で後継者に任命されたことを伝えられます。デーニッツはその命令を直ちに受命します。

その瞬間、デーニッツは総統の地位をヒトラーから受け継いだことになりました。

総統官邸の地下壕では、ヒトラー夫妻の遺体も焼かれ、国会議事堂にはソ連の旗が掲げられた頃、翌日の深夜、宣伝相のヨゼフ・ゲッベルスからヒトラーの死がデーニッツに告げられます。

ヒトラーが自殺した地下壕の周辺ヒトラーが自殺した地下壕の周辺

5月1日、午後7時、ラジオのハンブルク放送を通じて、デーニッツ自身からヒトラーが亡くなったこと、後継者として引き継いだことを国民に知らせます。ヒトラーの遺志を継いで、ソ連軍との戦いは継続されることを公言して、ドイツ国民の戦意を保つためにも、ヒトラーの死は自殺ではなく、ソ連軍と戦った上での英雄的な戦死として公表したのでした。

これは残存のドイツ軍を蛮行が目立つ東部戦線のソ連軍より、西部戦線のアメリカ、イギリス連合軍の占領地に少しでも移動させてから、降伏させようとする意図がありました。

5月3日、デンマークとの国境に近い、ドイツ北部、ユトランド半島のシュレスヴィヒ=ホルシュタイン州のフレンスブルクに臨時政府を置きます。フレンスブルク政府と呼ばれ、ここがナチスドイツ終焉の地となることになったのです。

フレンスブルクに足を運んでみたいと思います。

フレンスブルクの目抜き通りフレンスブルクの目抜き通り

どうやっていく?フレンスブルク

ドイツ国内からフレンスブルクに行くのに拠点となる街はハンブルクになります。

ハンブルクの中心であるハンブルク中央駅からは、1時間に1本の割合でフレンスブルク行きのローカル列車が出ています。約2時間でフレンスブルク駅に着きますが、キール方面を行く列車と連結されていて、途中のノイミュンスター(Neumünster)駅で分かれてしまいますので、乗車する時は注意してください。

ハンブルク中央駅ハンブルク中央駅

日本でも同じ列車でも連結した車両によって、行き先が違うことはありますが、海外の場合、外国人旅行者だとその判断は更に難しくなります。筆者もそれで何度か失敗して、痛い目にあったことがあります。

ドイツの駅の場合、該当の行き先の車両が停車するホームの場所を、アルファベットの案内表示で確認することができます。それでも間違って乗ってしまった場合、車内の案内表示にその車両の行き先が表記されているので、そこで確認して、切り離される駅で乗り換えましょう。不安な場合、車掌や他の乗客に聞くと良いと思います。

案内表示。フレンスブルク行きとキール行きの表示案内表示。フレンスブルク行きとキール行きの表示

筆者もキールに行く列車に乗ってしまい、車掌に確認して、ノイミュンスター駅でフレンスブルク行きの車両に乗り換えました。似たように移動する他の乗客もたくさんいたようで、乗り換え時間も少ないため、ノイミュンスターダッシュをしてしまいました。

ノイミュンスター駅での切り離し作業ノイミュンスター駅での切り離し作業

キールについては、「【第55回】両大戦の転機となった軍港キールで、水兵が蜂起した痕跡を巡る」をご参照ください。

美しい港があるフレンスブルク

ユトランド半島にある港町フレンスブルク。ユトランド半島はドイツ北部にあるヨーロッパ大陸から角のように突き出していて、北部の先端はデンマーク領です。フレンスブルクはデンマークとの国境のすぐ近くにあり、15世紀からデンマーク王家の支配下にありました。

ユトランド半島の地図、グーグルマップよりユトランド半島の地図、グーグルマップより

1864年
デンマークとオーストリア・プロイセンのドイツ連邦によるデンマーク戦争で、ユトランド半島(シュレスヴィヒ=ホルシュタイン州)を勝利したオーストリア・プロイセンが領有。

1866年
この地域の領有をめぐって起こった、オーストリアとプロセイン間で勃発した普墺戦争で、勝利したプロセインの領土になります。

1918年
第一次世界大戦で敗戦したドイツは、フレンスブルクより北シュレスヴィヒ地方はデンマークに返還しますが、フレンスブルクはドイツ領として残り、デンマーク人も多数住んでいたため、現在でもデンマーク語を母語とする人がたくさんいるようです。

ヨットが横付けされている、街中心の港の歩道から見える、フレンスブルクの旧市街の風景は大変美しく、デンマークというよりは同じ北欧のスウェーデンの首都、水の都と言われるストックホルムを彷彿とさせると個人的には感じました。

海軍学校内にあるフレンスブルク政府の閣議が行われた建物

アクセスとバスの乗降について

デーニッツ総統のフレンスブルク政府の閣議が行われた場所は、街の中心部ではなく北部にあります。フレンスブルク駅前から路線バスを使っていきます。

LINE 21のバスが、平日は1時間に2本、土日は1時間に1本の割合で運行されて、7つ目の停留所(Flensburg,Sportschule)が最寄りとなります。片道、約10分で2.7ユーロでした。

日本のバスでもそうですが、降りる停留所の前に停車ボタンを押さなくてはいけません。降りる人がいなく、停留所に待っている人がいないと通過してしまい、駅から○個目の停留所と数えていても、降りるバス停を特定するのが難しくなる危険性がありますので、降りるバス停の名前をバスの中の案内で見逃さないようにしましょう。

停車ボタン停車ボタン

筆者もそれで失敗して一つ先の停留所で降りることとなってしまいました。歩いて戻っても5分ほどでしたが、海外で路線バスを使いこなすのはハードルが高いです。一番良いのはバスの運転手に行き先を告げて、バスの運転手の近くに座ると、バスの運転手が教えてくれることが多い気がします。しかし、中心部に戻る時、停車ボタンを押しても通過されてしまい、やはり海外での路線バスはハードルが高いと改めて実感しました。

現在、海軍学校のスポーツ学校となっている建物

フレンスブルク政府の閣議が行われた建物は、ミュルヴィク海軍学校内の海軍スポーツ学校の校舎がその現場となります。

校舎するバス停を間違えて5分ほど歩きましたが、周りは緩やかな坂道がある閑静な住宅街でスーパーもあるなど、学校とはいえ軍事施設の近くとは思えないほどのどかな雰囲気です。

閣議が行われた建物は、角の一角にあり、赤レンガの3階建ての長方形型の建物です。当然、学校内の敷地や校舎には入れませんが、敷地に入る門の目の前は本来降りるはずだったバス停があり、門からはスポーツ学校らしく、サッカー場も見えます。

閣議が開かれたスポーツ学校閣議が開かれたスポーツ学校

筆者が訪れた日は、土曜日で休日のため、全く学生の人気(ひとけ)がありませんでした。
日本の横須賀の防衛大学のように、全寮制で週末だけ外出が許されていているのでしょうか。

筆者も準軍事施設ということで、近づいていいのか、撮影して良いのか少し不安でしたが、防犯カメラがある旨の看板はありましたが、公道から全く問題なく写真や動画を撮影することができました。

停留所近くからのスポーツ学校停留所近くからのスポーツ学校

1945年5月4日
デーニッツは、フランスのランスにある連合軍最高司令部に、陸軍のアルフレート・ヨードル大将に向わせる命令を下します。

1945年5月5日
先にランスに派遣した軍使に対する返答として、ドイツ側の条件である、アメリカ、イギリス軍のみへの降伏は認められず、ソ連を含めた全連合軍への無条件降伏以外は認められいとアメリカ側に突っぱねられ、軍使はフレンスブルクに引き返してきます。

ランスの連合軍最高司令部が置かれていた建物ランスの連合軍最高司令部が置かれていた建物

既に東部戦線では、ドイツの将兵、市民に対してソ連軍による過酷な報復が始まっていました。東部戦線で展開された独ソ戦は、政治的イデオロギーの絶対的な対立、人種に対する偏見による絶滅戦争と言われ、近代の国家間の戦争としては最大の死者数を出しました。

先にドイツに一方的に条約を破られ国土を蹂躙されたソ連兵士の報復は、熾烈を極めていました。デーニッツは降伏は避けられないとしても、少しでも将兵と市民をアメリカ、イギリス軍戦線内に逃げ込ませる必要がありました。

フレンスブルクの海軍スポーツ学校内の建物で、降伏交渉の条件、妥協案の激論が展開されます。

ドイツの戦後処理を少しでも早く円滑に進めたいと考える連合軍最高司令官アイゼンハワーは、48時間の猶予を提示します。降伏調印から48時間は戦線を開放して西部戦線に逃げ込めるようにしたのです。

1945年5月7日
降伏調印の権限を与えられたヨードルはランスに向い、降伏文書に署名をして連合軍に無条件降伏。翌日はベルリンのカールスホルストでソ連軍代表を含めて改めて降伏文書に調印。第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は終結したのでした。

ランスの降伏調印の間ランスの降伏調印の間

ランスとカールスホルストについては、以下をご参照ください。
【第81回】1945年5月7日、第二次世界大戦の西部戦線が終結した場所-その1
【第81回】1945年5月7日、第二次世界大戦の西部戦線が終結した場所-その2
【第12回】1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が終結した場所

ナチスドイツは、ヒトラーがベルリンの地下壕で自殺したのが終焉の象徴となっていますが、実際に戦争終結の最終判断が下されたのは、ドイツの最北に位置する、一時的に首都になったフレンスブルクだったのです。

ヒトラーが自殺する前からナチスドイツの幹部たちは、単独でベルリンから離れた場所で、連合軍と接触しようとしていました。当時の国内のドイツ軍の支配地域は、北部地域だけだったのもありますが、フレンスブルクのように国境の近くというのが、交渉の仲介をする中立国との接触に適した場所だったのだと思います。

関連動画
ナチスドイツの終焉の地、デンマークとの国境近くのフレンスブルク
ナチスドイツの終焉の地、デンマークとの国境近くのフレンスブルク(@YouTube)

近くまで行けるフレンスブルクのミュルヴィク海軍学校

フレンスブルク政府の閣議が行われた海軍スポーツ学校の校舎から、街の中心部へバス停1つ引き返すと、ミュルヴィク海軍学校の入口に行く小道があり門の前までは行くことができます。

ミュルヴィク海軍学校ミュルヴィク海軍学校

筆者が訪問した2022年10月は、未だウクライナ紛争が続いています。ドイツはポーランドを挟んでウクライナにも近く、ドイツを始めとした西ヨーロッパ諸国はウクライナ支援の玄関口になります。

また、筆者が訪れた時、ヨーロッパはウクライナ紛争で準有事でもあるため、軍事関係の施設は厳重に警戒されているかと思えばそうでもなく、敷地内に入らない限り、筆者のような外国人が公道にいても警戒される雰囲気はありませんでした。

戦時中、ドイツに留学していた日本人の手記を思い出しました。

「日本は準戦時体制になると、横須賀など軍港のある街には外国人の立ち入り自体を厳しく制限していたけど、ドイツの場合、外国人ですら軍港の街でも軍事施設によほど近づかない限り自由に行動できた。なんでも秘匿主義、制限をする日本と違って、ドイツは必要最低限の部分を制限するだけで、効率性を重視する合理的なドイツ人らしい。」

というようなことが書かれていました。

コロナ渦でも日本では屋内、野外関係なく、マスク着用しますが、ドイツは公共交通機関に着用義務があるだけです。国民性というのは時代が経っても変わらないかもしれません。そんなことをナチスドイツ終焉の地で感じました。

フレンスブルク駅フレンスブルク駅

フレンスブルクに行く時に見ておきたい、レンズブルク鉄道橋

フレンスブルクに向かう時、ノイミュンスター駅を過ぎると、列車が急に高台を走る区間が現れます。そして運河の上を列車が通り過ぎます。

これはレンズブルク鉄道橋といってドイツの技術遺産です。運河はキール運河といって、ユトランド半島を縦断して、北海とバルト海を結ぶショートカットルートになっています。キール運河は19世紀後半、レンズブルク鉄道橋は第一次世界大戦直前に完成しました。

キール運河は、スエズ運河、パナマ運河と並ぶ世界三大運河です。

キール運河キール運河

キール運河によって、北海とバルト海を行き来する船はユトランド半島を迂回せずに済み、運行時間の軽減に繋がりました。現在では国際運河として、海上コンテナ船も通行しています。

鉄道橋を渡ると、レンズブルク駅までは直径600m程ですが、急こう配を緩和するため、ループ式のルートが取り入れられ、円形状に一周するので、列車からも鉄道橋を堪能することができます。

フレンスブルクに行くときは、ぜひ見てみてください。

関連動画
バルト海と北海を結ぶキール運河にかかるレンツブルク鉄道橋
バルト海と北海を結ぶキール運河にかかるレンツブルク鉄道橋(@YouTube)

同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化

同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。

歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。

ヒトラー 野望の地図帳

「ヒトラー 野望の地図帳」
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社     
価格 :1,512円(税込) 

【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)

著者:ヒロマル

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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/wh
2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

▼ご依頼、ご質問はこちらのメールまたはツイッターから
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