現代のアンダイエ駅の構内と周辺
スペインへの出口となるアンダイエ駅
バスクの旅3 スペインを破滅から救った舞台となった国境駅 前編アンダイエ駅はフランス国境側なので、フランス国鉄(SNCF)の駅となります。
ヒトラーとフランコの会談が行われた1940年10月23日は、フランス国境というより 「ドイツ統治下のフランスの国境」という表現の方が正しいかもしれません。
駅構内は待合室、キオスク、切符売り場、インフォメーションと、各国の新幹線クラスが停車する標準的なヨーロッパの駅といった感じです。
スペイン国鉄の線路の軌道(1668MM)とその他西ヨーロッパの国の線路の軌道(1435MM)は異なるので、鉄道の軌道が変わる分岐点の駅となります。これはスペインがフランスと戦争になった時、侵入されないようにするためです。旧ソ連の国々とも同じ理由で軌道が違います。
参照「独ソ戦が始まった日から激戦地になった、ベラルーシのブレスト要塞編」
アンダイエ駅のホームは6番線まであります。駅舎奥の1番線ホームがフランス国内へ向かう列車が発着する止り式ターミナルです。駅舎前の2番線ホームから地下道へ潜る階段を降りると3,4番線ホームに行くことができます。3,4番線ホームの間には柵があり、1,2,3番線ホームはフランスからの列車、4番線ホームはスペインからの列車が止まります。
ヒトラーとフランコの会談を再現?
① ②ヒトラーがフランコを出迎える2枚の写真です。
この写真から私が当時のヒトラーとフランコのアンダイエ駅での出会いを憶測で推理をいたします。
まず②の写真です。駅舎の正面の2番ホームなのがわかります。後ろの列車は恐らくヒトラー専用列車「アメリカ号」でしょう。その根拠はフランス側の2番ホームですし、駅舎と一番近いホームに主役であるヒトラーの専用列車が入線しているのは、常識的に考えて妥当だと思います。そして、フランコは会談開始の時間より遅れていたので、その間、ヒトラーは「アメリカ号」の中で待機。
そして①の写真です。フランス側に一番近い4番ホームにフランコの列車は入線してきたと思われます。フランコを待ち浴びていたヒトラーが4番ホームまで出迎えにいったところでしょう。このフランコのにこやかな表情もヒトラーに対する心理作戦の1つのように感じます。当時も3.4番線ホームに行く地下道はあったかもしれません。しかし、さすがに国のトップの人間達が地下道を歩いてくるはずもなく、ヒトラーとフランコは列車を降りて線路を横切って2番線ホームに向かったと思われます(ヒトラーはフランコを迎えに行く時も。)。
②の写真に戻ります。そこで2番ホームで音楽隊の演奏に乗せて、駅構内で会談を開始するセレモニーを行っている最中なはずです。
会談はヒトラーのアメリカ号で行われました。夕食晩餐会もドイツ側がスペイン側を招待してアメリカ号で行われました。
①②の写真は独破戦線様のサイトより
http://ona.blog.so-net.ne.jp/
アンダイエ駅構内にひっそりあるバスク鉄道の駅
そのフランス国鉄のアンダイエ駅構内の片隅にバスク鉄道の駅舎がひっそりとあります。 壁沿いに1番ホームのみあるというとても地味な駅です。
フランス国鉄の駅舎からバスク鉄道の駅舎まで足マークのタイルが貼ってあります。
駅表示もスペインの「HENDAIA」となっていて、このバスク鉄道の駅舎のところだけ治外法権のようにスペイン国内になっています。ヨーロッパ各国の国鉄では隣国の国境の街までその国の列車や車掌が乗り入れしています。また、バスク鉄道のようにローカルな私鉄の列車が隣国の国境駅まで運行している光景もあります。
参照 ドイツ、ポーランド国境については「旧東ドイツにあるベルリン最終決戦の火蓋が切られたゼーロウ高地編」
フランス国鉄のアンダイエ駅構内にもバスク鉄道の時刻表を案内する電光掲示板があります。私が訪れた時は、日中、夕方までなぜか国鉄もバスク鉄道も事故か何かの影響でほぼ全ダイヤがストップしていました。バスク鉄道の電光掲示板にはその情報を知らせる更新がないのです。
「フランス国鉄の改札の駅員にバスク鉄道はいつ動くのか?」と尋ねたら、 「多分動いているんじゃない?」の一点張り。
日本ですとJRと私鉄が乗り入れしている駅では、大概、遅延の情報は共有しています。しかし、ヨーロッパですと同じ構内にあっても、鉄道会社が違うと丸投げだったりします。
実際にフランス国鉄の駅員もバスク鉄道のことを「SMALL TRAIN」と呼んでいました(笑)。
アンダイエ駅近くにある国境歩道
アンダイエ駅を出てバスク鉄道の線路沿いに右の道を7、8分ほど歩くと、フランスとスペインの国境があります。
ビダソア川を挟んでフランスとスペインにわかれます。ヨーロッパでは川を国境線にしていることが多いです。国境と言っても、現在はEU加盟国ならシェンゲン協定によって、国境審査は廃止されているのでただの歩道です。地元の人が犬を散歩させて国境歩道を渡る姿も見られるほどのどかです。
橋を渡りスペイン側に入ると、アンダイエ駅から数百メートルしか離れていませんが、バスク鉄道のスペイン国境側の駅があります。
アンダイエの街の中心部は駅からだいぶ離れていますが、フランスのアンダイエ駅からスペイン領内の街の方が近いのはちょっとしたトリビアです。
駅周辺にはバーを兼ねた軽食屋、ホテルが若干あります。ヨーロッパの田舎の国境の街のバーは、危険とまでは感じませんが、スロットマシーンがあり、怪しい感じの人たちがビールを飲んでいたりする光景に出くわします。でも私はそんな雰囲気の国境のバーが好きです。
橋を渡りスペイン側の国境には地味な記念碑があります。1936年にスペイン内戦が始まった時、スペインからの避難民がこの国境歩道を渡る写真がありました。
かつて国境を巡って戦争を繰り返したヨーロッパ、今日ではEUの統一、シェンゲン協定によってその国境は形がい化しているのです。第2次世界大戦の時のナチスドイツは一時期、西ヨーロッパの大半の国に侵攻して統治下に置きました。ナチスドイツの統治下では通貨をドイツマルクで統一しようとする計画もありました。当時のナチスドイツが現代のヨーロッパの原型になっているのも何か皮肉です。
対岸に見えるスペインの街、オンダリビア
アンダイエ駅を国境とは反対の左側に進んで10分弱ほど歩くとスペインの街が一望できるスポットがあります。
線路に架かっている鉄橋を渡り、3つ目の左角を曲がると、ビダソア川の対岸、スペインのオンダリビアの街が現れます。
オンダリビアのカルロス5世城、サンタマリア教会、また、オンダリビアの空港も見えて飛行機の離発着の光景が堪能できます。中世の小さい街と現代の力、空港のコントラストが面白いです。
ここは遊歩道になっていて、ジョギングや散歩している地元の人達の姿が見られます。アンダイエの街の中心部からボートでオンダリビアに行くことができますが、街の中心部はアンダイエ駅から若干遠いです。
オンダビリアの街はバスク地方の伝統的なカラフルな家々が立ち並んでいます。オンダビリアへはサン・セバスチャンからバスで行くこともできます。
アンダイエを訪れる人は、ビルバオ、サン・セバスチャンからのエスカーション、スペインからフランス(またはその逆ルート)で抜ける人が駅で乗換え時間を潰す人が大半だと思います。ですから、アンダイエ駅周辺の散策には、国境とオンダリビアの遊歩道をオススメします。
その後のスペイン
第2次世界大戦中の中立国、スペイン
アンダイエ駅でのフランコの巧みな交渉術のよって、スペインは第2次世界大戦に参戦せずに中立国の立場を維持しました。
そのおかげで他のヨーロッパの国々のように国土が戦場になることがなく、スペイン戦争の復興を進めていくことができました。
戦争中のスペインは中立国として、連合国、枢軸国側の外交官、または諜報部員が敵国の情報を得ようとしたり、和平交渉をするために暗躍する舞台となります。
太平洋戦争が始まった時、スペインは日本側の利益代表国となります。在米の日本大使館員の日本への帰国交渉などをアメリカ側の利益代表国、スイスを通じて行ったりもしました。
当時、ドイツのベルリンに勤務していたある日本大使館員は、マドリードに出張に行った際、灯火管制がないスペインの明るい街並みは良いなと述べています。
また、1941年6月独ソ戦が始まった時、スペインはドイツ側に1個師団だけ送っています。老獪なフランコらしく、ドイツ側の要求を完全に拒否するわけでもなく、さりげなくわずかな軍隊をゲストとして提供して、ヒトラーの顔も立てたのです。
最後のファシズム国家として残った戦後のスペイン
第2次世界大戦が終わると、敗戦国となったドイツ、イタリア、日本などのファシズム国家は消滅します。しかし、戦後もスペインはフランコによるファシズム体制がとられました。
フランコは、戦後も民主主義や共産主義国家を批判しますが、各国から反発を喰らいます。し
かし、フランコはヒトラーとの会談の時のような狼狽さを戦後も見せます。フランコは、表向きは各国への批判発言を控え、1955年、スペインは国連への加盟を果たしました。その後、スペインは順調に経済発展を遂げますが、停滞し始めると国民から不満の声が上がります。そのような状況になるとフランコは、国内的には検閲の廃止や結社の自由を認め、対外的にはソ連や中国といった共産主義国家とも国交を回復させます。
フランコは現実感覚に富み、国内、世界情勢に敏感に反応する柔軟さがあったのでした。
ヨーロッパという列強国がひしめき合う地域の中でも隅に位置するのがスペイン。 その地理的な状況を生かして、冷静に国際情勢を見ることができ、一歩置いて付き合えることができたのかもしれません。
ロシア、中国、北朝鮮など、大国や独裁国家が近隣にありますが、島国の日本の外交にもフランコの外交術からヒントが見えてきそうですね。
1975年フランコが死去すると、後継者として指名していたフアン・カルロス国王1世がスペインの元首に就任。その瞬間に世界で最後のファシズム国家は終止符を打ち、スペイン立憲君主国家となり、現代に至ります。
立憲君主国家となってからは、観光にも力を入れます。
世界トップクラスのサッカー、ガウディの建築、フラメンコ、闘牛を観に日本をはじめ世界各国から情熱の国、スペインに観光客が訪れています。