【第34回】1945年、独ソのベルリン最終決戦の跡地を散策|トピックスファロー

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2016年4月25日
【第34回】1945年、独ソのベルリン最終決戦の跡地を散策

ナチスドイツ崩壊間近の1945年4月21日、ついにソ連軍はナチスの首都、ベルリンへの総攻撃を開始。今回の記事では、ベルリン決戦に関係したテーマで、ベルリンに残る遺構を紹介します。

戦争遺跡ライター
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ソ連軍、ついにベルリンへ突入

1945年4月16日から4月19日までの4日間で、ベルリン最終決戦の序章と言われるベルリン郊外のゼーロウ高地の戦いも終わりました。4月20日、ソ連軍はついにベルリン市内に攻撃を開始します。

ゼーロウ高地の戦いについては、「旧東ドイツにあるベルリン最終決戦の火蓋が切られたゼーロウ高地」をご参照ください。

ソ連軍の攻撃が始まる前から、スターリンのオルガンと恐れられた「カチューシャ」ロケット砲の炸裂音が、ベルリン中心部に響き渡っていました。戦争の初期から連合軍の連日昼夜を問わない空襲によって、ベルリンは瓦礫の山と化していました。 そんな中、4月20日、ベルリンの総統官邸の地下壕では、ヒトラーの56回目の誕生日が盛大に開かれていたのです。ナチスの要人達が集まり、ヒトラーに最後の挨拶をした後、彼らはベルリンを離れていきます。

ソ連軍50万人の兵力に対して、ベルリン守備隊は、ヴァイトリンク陸軍大将下の5師団の4万5千人でした。そして、国民突撃隊と言われる10代のヒトラーユーゲント少年兵、少女連盟、老年兵が4万人ほどでした。 その中で特に活躍したのが、最後までヒトラーに忠誠を尽くしていた少年兵でした。 ソ連軍の戦車に肉薄して携帯対戦車兵器で攻撃し、地雷を抱えて戦車に飛び込む少年兵もいたくらいです。

そんなドイツ軍の最後の死に物狂いの抵抗も、圧倒的なソ連軍の兵力の前に次第に追い詰められていきます。

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なぜ米英はベルリン総攻撃に参加しなかったか?

ベルリン総攻撃はソ連軍単独による戦いになります。なぜ米英軍はベルリン攻撃に参加しなかったのか?

米英軍に、ヒトラーがドイツ南部の山岳地帯のベルヒデスガーデンに篭り、最後の抵抗をするという誤った情報が入ってきていました。西部戦線では、勝利目前と思われていたにもかかわらず、オランダのアーネムの戦い、ベルギーのハジルの戦いでドイツ軍の思わぬ反撃に遭い大きな損害を蒙りました。そのため、同じ過ちを繰り返すことを恐れた米英軍首脳は情勢判断に保守的になっていたため、ベルリン攻撃には消極的でした。

連合軍最高司令官であるアイゼンハワーは、ソ連のスターリンに、ベルリン占領の意志がないことを伝えていました。

一方、イギリスの首相チャーチルはベルリン占領の政治的重要性を理解していたため、ベルリン進撃を主張しましたが、第二次世界大戦のフィナーレの主役はソ連軍が務めたのでした。

ベルリン散策は、1日乗車券を使って周ろう

ロンドン、パリ、ベルリンなどヨーロッパの大都市は地下鉄の路線が複雑に入り組んでいます。

慣れない街では、逆の路線に乗ってしまったり、降りる駅を間違えてしまったりします。その都度、切符を買いなおしていては、時間とお金のロスです。ベルリンの戦跡散策では、ABCゾーン有効の1日乗車券を購入することをオススメします。

7.2ユーロ(約1000円)で近郊の街、ポツダムを含むベルリン市内全域の地下鉄(Uバーン)、近郊列車(Sバーン)、バスが乗り放題になります。

35 ベルリンのUバーンの環状線は、右回りか左回りかがわかりやすい

激戦地となったテンペルホーフ空港跡地

ベルリン市内南部のトルコ人街、クロイツベルグの近くにあるあるテンペルホーフ空港は、ワイマール共和国時代の1923年に開港します。1930年までにはヨーロッパで最も乗客が乗り降りする空港となりました。ナチスが政権を取ると、テンペルホーフ空港を世界の空港、ヨーロッパの交通の中心とする計画が進められます。1935年に拡張工事が開始され今のデザインになりました。

第二次世界大戦中は、ナチス幹部やヒトラーも前線やベルヒデスガーデンの山荘との行き来をすることがありました。

1945年のベルリン決戦では、4月26日、第56機甲師団の一つ「ミュルンベルグ」機甲師団は、テンペルホーフ空港の防備に当たっていました。この師団は10両ほどの戦車と30両ほどの装甲運搬車を持っていましたが、増援部隊を受け取ることはありませんでした。ソ連軍は、空港の南側から用心深く、火炎放射器で焼き払いながら進んできます。ミュルンベルク師団は夜の間は持ちこたえますが、圧倒的なソ連軍の戦車の波によって、4月27日午後には後退を始めました。

ベルリンを防衛する各師団は東西南北から街の中心部に追い詰められていきます。ミュルンベルク師団は4月28日、総統官邸の南1キロほどにあるアンハルター駅にいました。 アンハルター駅の地下のプラットホームには、逃げてきた女、子供、負傷兵であふれていたのでした。

アンハルター駅については、「ベルリンの中心部に眠る、ナチス時代の遺産を巡る散策 後編」をご参照ください。

4月29日、ミュルンベルク師団は、現代では観光客で賑わうポツダム広場まで後退します。

ポツダム広場は、総統官邸の目と鼻の先で、ヒトラーの命運は尽きようとしていました。

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テンペルホーフ空港跡地へのアクセス

テンペルホーフ空港の最寄り駅は、地下鉄(Uバーン 6)のPLATZ DER LUFTNRUCHE駅となります。駅の出口を出ると、交差点になっており、その横は小さい公園になっています。

その公園には獣のような手の柱が3本伸びています。これはベルリン大空輸の経路を表しているそうです。そして、公園の向こう側にテンペルホーフ空港の正面玄関が見えてきます。テンペルホーフ空港は、2008年に閉鎖するまでベルリンの国際空港の一つとして現役でした。

現代では、広大な滑走路跡は公園として解放され、市民の憩いの場となっています。 地平線がかすむほど広大な空港跡は、ジョギングやBBQをする市民、時にはコンサートも開催されます。

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3つの負の歴史があるテンペルホーフ空港

ゲルマニア計画の遺産(ナチス時代)

テンペルホーフ空港は、ヒトラーのベルリンを大改造するゲルマニア計画の一環として、デザインされました。ゲルマニア計画はドイツが戦争に負けてしまったため、ほとんど実現しませんでした。

その中で現在、見ることができる数少ないゲルマニア計画の跡なのです。旧社会主義国の街中にあるような画一的な権威主義的である建物のテンペルホーフ空港は、見る人に威圧感を与えます。

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ベルリン大空輸の舞台(東西冷戦時代)

第二次世界大戦後、ベルリンは4ヶ国によって分断統治されることになります。

ベルリンの東側をソ連、西側をアメリカ、フランス、イギリス3ヶ国による分断統治となっていました。西ベルリンはソ連が統治する東ドイツの中で、孤島のように存在していたのです。西ベルリンを手中に収めたいソ連は、西ベルリンへの物資供給ルートを遮断して、食料、電気など、生活品の供給を停止させてしまいます。

これに対し、西側は1948年から1949年にかけて、テンペルホーフ空港をハブ空港として、物資供給を実行、ソ連の物資遮断作戦を空輸によって打破したのです。西側の空輸を待つベルリン市民の写真は教科書にも載っています。

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シリアからの難民収容施設(現代)

2015年からテンペルホーフ空港は、シリアの内戦によって、ドイツへ避難して来た難民の収容施設となっています。兵士、消防士、ボランティアなどによって格納庫に設置したテントがあり、そのテントの中で難民が収容されているようです。そのため、建物の中から外出する難民の姿も見られます。

いつまで難民を収容するのかはわかりませんが、ナチス時代、東西冷戦時代、空港としての役目が終わった2010年代と、負の歴史を抱えることになったのです。ベルリンにはナチス時代、ベルリンの壁など冷戦時代の遺産は数多くあります。一つの建物で3つの負の歴史があるのも大変珍しいと思います。

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ヒトラーが自殺した現場、総統地下壕跡

「ベルリンの中心部に眠る、ナチス時代の遺産を巡る散策 後編」では、ナチスの各省庁が集まっていた官庁街、ウィルヘルム街を紹介しました。総統官邸や総統官邸の地下壕についても触れました。4月30日、ソ連軍が迫り来る総統官邸の地下壕で、愛人エヴァ・ブラウンと挙式を挙げた後、ヒトラーは夫婦で自殺を遂げます。今回はヒトラーが自殺した地下壕への詳しいアクセスを紹介します。

45 ウィルヘルム街

総統官邸の大理石が使われている最寄りの地下鉄の駅

最寄り駅は、地下鉄(Uバーン2)のMOHRENStraβe駅となります。この駅は壁、ホームの椅子、柱が茶色の大理石でできています。

これは隣にあったヒトラー総統官邸に使われていた大理石と言われています。地上からとても浅い位置にあるMOHRENStraβe駅、大理石によってどこか荘厳な雰囲気が漂っています。荘厳な建物で訪問者を圧倒したと言われている総統官邸の大理石だとすると、尚更、特別な空気が地下鉄の駅を包みます。

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地下壕跡への行き方

MOHRENStraβe駅を下車して地上に出ると、ウィルヘルム通りとフォス通りの交差点があります。その2つの通りの角にあるアパートが目に入ってきます。そこがヒトラーがいた総統官邸跡です。

アパートの1Fには中華料理「大和飯店」がテナントとして入っています。駅を出てそのままフォス通りを真っ直ぐ進みます。中華料理屋の隣は保育園となっていて、あのヒトラーがいた総統官邸跡が、庶民的になっているのはちょっと微笑ましいです。1番目のゲルトルート=コルマール通りを右折します。この通りは、ナチス時代はヒトラーの側近だった、ヘルマン・ゲーリング通りと呼ばれていました。左側の1番目のイン・テン・ミニスターゲルテン通りと交差する右側が総統の地下壕の跡です。

49ゲルトルート=コルマール通り

ひっそりとあるヒトラー最期の場所にある案内板

地下壕があったことを示す案内板も立っており、その案内板の説明文を読む観光客の姿も目につきます。今はアパートの住人の駐車場となっています。この場所はしばらくの間、ネオナチによる「ヒトラー崇拝」の場所となるのを恐れて隠されてきました。ソ連は2度ほど地下壕を爆破しましたが、あまりにも頑丈で完全に破壊することはできませんでした。

コンクリートの残骸を地中に残したまま駐車場にしたのです。2006年、民間団体「ベルリン地下世界」がこの案内板を設置しました。

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関連動画
観光地化されている?!ヒトラーが自殺した地下壕跡
観光地化されている?!ヒトラーが自殺した地下壕跡(@YouTube)

ソ連国旗が翻った国会議事堂

「ベルリンの中心部に眠る、ナチス時代の遺産を巡る散策 前編」

では、ヒトラーが政権を握るきっかけとなった、1933年の共産党員による国会議事堂の放火事件を紹介しました。

国会議事堂はソ連軍がナチスドイツを崩壊させたシーンとしても有名です。それは、ヒトラーが自殺した翌日の5月1日に撮影されたと言われる、ソ連兵士の1人が国会議事堂の石造の一つに上がってソ連の国旗を振る写真です。さてその石造はどこでしょうか?

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ソ連国旗が翻った石造

この写真は、国会議事堂から近い、ブランデンブルク門の最寄り駅「BRANDENBURGER TOR」に展示してあった1930年代の国会議事堂周辺の上空写真です。

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今では大きな空き地のような広場になっている正面は、整備された庭園のようになっています。右サイドは現在と同じくティアルガルデン、ソ連国旗を振る兵士の前には廃墟となった建物があります。そのため、ブランデンブルク門側ということがわかります。

このソ連兵士が立っている石造りは、国会議事堂の正面の反対の左側になります。

当時の写真を見ると、向こう側から人間の像が2体、石造が4つ見えます。その4つ目に ソ連兵士が上がっています。そして現代の国会議事堂も、当時と同じ位置間隔で人間の像2体と石造が4つあるので、場所を特定できます。

後ろ側の真正面は駐車場になっていて立ち入りできないので、ブランデンブルク門側からソ連国旗が翻った石造をじっくり堪能しましょう。

54 正面 55 反対側 56 右から4番目の石造の上で赤軍の旗が振られた

ヒトラーの遺志によって死後、総統の地位は、海軍の提督だったデーニッツに譲られます。ヒトラー自殺後もベルリン市内で散発的な戦いは続きますが、5月7日にドイツ軍は連合国軍に無条件降伏をして、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線は終結します。

降伏調印場所のベルリンのカールスホストは、「1945年5月8日、第二次世界大戦のヨーロッパ戦線が終結した場所」をご参照ください

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トレプトウ公園(ソ連軍戦勝記念公園)

ベルリン市内の南東には、第二次世界大戦のソ連軍の勝利を記念して造られた公園があります。シュプレー川沿いに広がる旧東地区最大の公園です。ベルリン市内の中心部に広がる公園、ティアルガルデンと違って、木々が植えられている間隔が長く、開放感があります。

最寄り駅は、ベルリンを走るSバーンの環状線沿線のTREPTOWER PARK駅になります。

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ソ連戦没者慰霊碑へのアクセス

その公園の一角にソ連軍兵士の戦没者慰霊碑の広場があります。TREPTOWER PARK駅は無人駅で、駅周辺には地図もないので、慰霊碑までの行き方を説明します。

TREPTOWER PARK側の出口を右手に出ると、プチスキナール通り(PUSCHKINALLE通り)に出ます。その通りを左に進み、右手に凱旋門型の石造りのアーチが見えてきます。そこが慰霊碑への入口です。駅から徒歩で約10分ほどで着きます。

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強調されるソ連軍の戦い

入口の両サイドにはソ連の国旗型の彫刻と「1941-1945」という西暦が掘られています。第二次世界大戦が始まったのは1939年ですが、独ソ戦は1941年から始まりました。始まりを1939ではなく1941としている部分にソ連の戦いということが強調されています。

慰霊碑がある広場は空中写真でみると線対称になっていて、社会主義国家らしい威圧的で無機質な造りとなっています。

慰霊碑の広場に入ると説明文の案内もあり、ロシア語、ドイツ語、英語で表記されています。

ドイツ軍が降伏した4周年の1949年5月8日、この公園で行われた落成記念イベントの模様の写真も展示されています。

1945年4月-5月のベルリンでの戦いでは22,000人のソ連兵が亡くなりました。このうち7000人以上の戦死者の墓地となっているようです。

ベルリン決戦は、崩壊寸前のドイツ軍に対して、ソ連軍の一方的な攻撃だったイメージがありますが、ソ連軍も22,000人の死者を出したのでした。ドイツ軍も最後の徹底抗戦をしていたのが分かります。

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トレプトウ公園にもある総統官邸の大理石

説明文の案内板を過ぎると、慰霊碑に向かってお祈りしている女性像が出迎えてくれます。そのまま慰霊碑の方に向かうと、広場の中央には、左右に赤色の大理石があり、ソ連軍の兵士が剣を片手にヘルメットを取ってひざまずいている彫刻があります。この大理石も総統地下壕、最寄の地下鉄のMOHRENStraβe駅と同じく、総統官邸の大理石だそうです。

その大理石を超えると、両サイドには均等に7つの白い石碑が並んでいて、ソ連軍の兵士やソ連の民衆の苦悩の絵が書かれています。中にはレーニンの顔も見かけます。

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ソ連軍兵士の立像

そして、広場の中央奥にそびえ立っているのが、高さ12メートルほどのソ連軍兵士の立像です。右手に子供を抱いて、左手に剣を持った兵士が、破壊されたナチスの鍵十字を踏みつけています。ソ連がファシズムを打倒したことを表しています。

東ベルリン時代は、毎日、ソ連の衛兵が慰霊碑を見張っていました。

また、慰霊碑のある広場以外の広大な公園を散策するのも良いでしょうが、人気があまり感じられないのでちょっと注意が必要です。

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【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第1回~第100回)
【連載】ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡(第101回~)

著者:ヒロマル

戦争遺跡ライター
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1979年神奈川県生まれ、神奈川県逗葉高校、代々木ゼミナールで1浪、立教大学経済学部卒業。

大学在学中からヨーロッパ、アジアなどを海外放浪してハマってしまい、そのまま新卒で就職せずフリーターをしながら続ける。その後、会社員生活をしながらも休み、転職の合間を利用して海外放浪を続ける。50ヶ国以上訪問。会社の休暇を利用して年に数回、渡欧して取材。

2012年からライター業を会社員との二足のわらじで開始。
2014年からwebメディア(株)フォークラスのTOPICS FAROで2つのシリーズを連載中。

▼もんちゃんねる(You Tube)
https://www.youtube.com/channel/UCN_pzlyTlo4wF7x-NuoHYRA

▼「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」シリーズ
https://topicsfaro.com/series/warruins
ヨーロッパ各地を取材し、第二次世界大戦に関する場所を紹介。
軍事用語などは極力省き、中学レベルの社会の知識があれば楽しめる記事にしています。
同シリーズが2017年に書籍化。
「ヒトラー 野望の地図帳」(電波社)から全国書店の世界史コーナーで発売中。

▼「受験に勝つ!世界史の勉強法」シリーズ
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2018年から主に世界史を中心とした文系の勉強方法について執筆。
大学受験だけでなく、大学生や社会人の大人の教養としての世界史の勉強方法にも触れて、
高校生、大学生、社会人とあらゆる世代を対象としています。

世間の文系離れを阻止して、文系の学問の復権に貢献することが、2つの連載の目的です。

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