ムッソリーニが処刑されたベルモンテ荘
ムッソリーニが処刑されるまで
「ムッソリーニの生涯を巡る北イタリアの旅 前編」でも説明しましたが、1943年、イタリアが連合軍に降伏して以降、南イタリアは連合国側のパドリオ政権、北イタリアは枢軸国側のムッソリーニ政権に2分されます。
そして、1945年4月、ヨーロッパを圧巻した枢軸国も終焉の時が近づいていました。
ムッソリーニはミラノでパドリオ政権やパルチザンの代表と和平交渉をするも決裂、側近や愛人クラーラ・べタッチを連れて中立国スイスに逃れようとしたのでした。
ミラノから北に位置するコモ湖の左側を通り、スイスへ向かいます。途中、コモ湖畔でドイツへ撤退するドイツ軍の一団と合流してスイスを目指しますが、ドンゴ村というところでパルチザンに見つかり捕捉されてしまいます。
地方のパルチザンには重荷すぎる超大物の捕獲だったため、ミラノの国民解放委員会に連絡しました。連絡を受けた国民解放委員会は、ムッソリーニを捕獲した最も近い場所で裁判にかける命令を受けたというヴァレリオ大佐を派遣します。
愛人クラーラと共に農家に監禁されていたムッソリーニは、ヴァレリオ大佐によってメッツェグラ村という場所に連行されることになります。
ヴァレリオ大佐は前もって決めていたメッツェグラ村のベルモンテ荘の塀の前に2人を立たせました。
1945年4月28日午後4時10分。
ヴァレリオ大佐は軽機関銃で2人をめがけて発砲、ムッソリーニ60歳、クラーラ32歳でした。
そんなムッソリーニが最期の時を迎えたベルモンテ荘は現存します。
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#15 地元の人たちに愛されている、ムッソリーニ(@YouTube) |
どうやっていく?ベルモンテ荘?
コモから遊覧船
ベルモンテ荘があるコモ湖はアルプスの南山麓に広がるイタリアの湖水地方です。長さ50KM 最大幅4.4KMの大きな湖で周囲は山々に囲まれ風光明媚なので、多くの観光客が訪れます。
コモ湖の基点となる街は南端にあるコモ(COMO)。ベルモンテ荘があるメッツェグラはコモから遊覧船で行くことになります。
コモへはミラノ中央駅からイタリア国鉄が、片道約35分(片道4.8ユーロ)で1時間に1本の割合で出ています。イタリア国鉄のコモ・サン・ジョバンニ駅は街の西側に位置して、駅前の階段を降りて300メートルほど進むと、街の中心部に到着します。
ミラノから私鉄ノルド線でもコモまで行くことができます。駅は街の中心にありますが、 ミラノからは1時間かかります。
中心部のカブール広場の船乗り場から遊覧船が発着していて、メッツェグラ(MEZZEGRA)の最寄りの船乗り場は「LENNO」です。
カブール広場のチケットオフィスは、1ヶ所しかないので長蛇の列ができていますが、LENNOまで行く分には、船の中でも直接、船員からチケットを購入できます(チケットオフィスはクレジットカード使用可、船の中は不可)。
高速船の船内は、観光用というよりコモ湖畔に住んでいる人たちが利用している感じで、席が簡素に置かれているだけです。一方、遊覧船の船内は、高速船よりも広くデッキにも席があり売店もあり飲食もできます。
ミラノから日帰りでベルモンテ荘に行くだけなら、コモへはお昼過ぎには着けるようにすることをオススメします。午前中はミラノ観光に当てることも可能です。
コモ湖遊覧船の詳しい時刻表は下記のサイトを参照してください。 www.navigazioneleghi.it
レンノの船着場からベルモンテ荘への行き方
レンノ(LENNO)の船乗り場から右方面がベルモンテ荘のあるメッツェグラ村です。 ベルモンテ荘までの行き方を紹介します。船乗り場の目の前の坂道を登ると、車が通る2車線の道に出ます。そこを右方向に進むと(歩道が狭いので車に注意)、メッツェグラ村になります。メッツェグラ村に入ると、山側に行く坂道が左手にあります。ベルモンテ荘はその坂道の途中です。坂道を登り左手にある自動車の修理工場を過ぎると、右手にベルモンテ荘があります。船乗り場からベルモンテ荘まで徒歩で15-20分ほどです。
閑静な住宅街にあるベルモンテ荘
ベルモンテ荘は木に覆われた木陰の中に姿を現します。
門がある両サイドの低い壁の左側がムッソリーニが処刑された現場になります。 銃痕の跡が残っており、黒い十字架が掲げられ「BENTO MUSSOLINI 28 APRIL 1945」とあります。ブレダッピオ村のムッソリーニの墓のようにイタリア国旗のリボンで結ばれた花束が無数にあり、お参りに来る人が絶えないことを物語っているのです。右側の壁には愛人クラーラの写真と花束が掲げられています。
門を挟んでムッソリーニは左側、クラーラは右側に立たされて銃殺されたのかもしれません。処刑された瞬間の2人の姿には色々な説がありますが、2人とも銃痕がある左側に並ばされたのではないかと考えます。
銃殺する現場のイメージは、石塀は人の高さあり、平地という固定観念でしたが、現場に来てみて、石塀が低いということと坂道だったのが想像と違っていました。
また、ベルモンテ荘には今でも人が住んでいますし、不思議と処刑現場というきな臭い雰囲気も全くないのです。近隣の住民の方々も処刑現場の場所を尋ねてもフレンドリーに答えてくれました。
ベルモンテ荘の近くには、イタリア語で書かれたムッソリーニの処刑現場を案内板もあります。
ムッソリーニの遺体が吊るされた広場
コモ湖からミラノまで運ばれた2人の遺体
コモ湖湖畔で銃殺されたムッソリーニと愛人クラーラの遺体は、翌日の4月29日、ヴァレリオ大佐によってミラノのロレート広場まで運ばれました。そのロレート広場にあるガソリンスタンドで2人の遺体は逆さ吊りにされます。ロレート広場には数千人の群集が集まり、遺体に罵声を浴びせるも人、石を投げつける人など、興奮のるつぼとなりました。
ロレート広場で晒し者にされるムッソリーニの光景が、ラジオ放送で世界に向けて発信されます。ベルリンの地下壕にいたヒトラーは、そのラジオ放送を聴いたのでした。ヒトラーは、ムッソリーニのような晒し者になりたくないから、自分が自殺した後の遺体は燃やしてくれと、側近に遺言を残します。
なぜロレート広場がムッソリーニを晒し者にする場所に選ばれたのか?
15人の反ファシストの政治犯が、ファシスト銃殺隊によって銃殺され、見せしめのために数日間、ロレート広場に遺体が放置された事件がありました。 ヴァレリオ大佐は処刑された仲間の報復のためにも、同じロレート広場でムッソリーニの遺体を晒し者にさせたかったのです。
ミラノの交通の要となっているロレート広場
ロレート広場は、ミラノ中央駅から徒歩で約10分、地下鉄で緑のM2線で2駅目です(LORETO下車)。
ロレート広場の位置は、ドゥオーモなどがある観光の中心部から北東になります。付近はピザやパスタなどが食べられる軽食店、カフェなどが多く、観光客よりも地元の人が多い感じがします。
現在のロレート広場は、ロータリーになっていて、中央部分は草木が生い茂っています。 東西南北、7つの道の交通の要になっているので、ひっきりなしに車が行き交います。
現在はムッソリーニが吊るされたガソリンスタンドは存在しません。私はロレート広場を1周歩いてみましたが、歴史の痕跡を示す案内板なども一切なく、ガソリンスタンドがあった場所も特定できませんでした。
ロレート広場付近は、見回りの警官もいたりして、ちょっと陰気くさい感じもします。
しかし、ロレート広場の一角にカフェが何軒かあるので、一服してロレート広場を眺めながら、当時の状況を瞑想してみるのも良いかもしれません。
ミラノのムッソリーニゆかりの地
ミラノの観光客が必ず訪れる場所に、ムッソリーニと関係がある場所がいくつかありますので紹介します。
ドゥオーモ前の広場
1936年11月11日、ムッソリーニはドゥオーモ広場で「ベルリン=ローマ枢軸」演説を行います。
前年のイタリアのエチオピア侵略、ドイツのラインラント進駐で、両国が接近し、スペイン戦争では両国ともフランコ将軍を支援します。
「枢軸AXISとは扉や車輪の回転軸のことで、従って中心になる軸は、ベルリンとローマである。ベルリンとローマが世界の回転軸になる。」
という趣旨の演説をして、枢軸国という言葉が生まれます。
その後、日本も加わり日独伊3国軍事同盟が結ばれ、第2次世界大戦中は連合軍に対して、この3国は枢軸国と言われるようになります。
大司教館
ドゥオーモ広場を背にして左側には旧王宮があり、旧王宮の左側の建物は大司教館(PAL.ARCIV)になります。
1945年4月25日、大司教館の大広間で、ムッソリーニを初めとしたファシスト首脳と、パルチザンからなる国民解放委員会が、シューステル枢機卿が仲介して、和平交渉の会談が行われます。
国民解放委員会はファシスト側に無条件降伏を要求。ムッソリーニは回答を一旦保留にして解散、その後、スイスに脱出する決意をして、逃避行の最中にコモ湖でパルチザンに捕まってしまうのです。
この時点でファシスト側の敗北は明らかでした。会談が行われている大司教館の隣のドゥオーモ広場やスカラ広場では「自由イタリア万歳!」とミラノ市民が一斉蜂起する大集会が開かれていました。
司教・・・カトリック教会の位階の一つで、一定地区の司教区を監督する聖務職
大司教・・・教会行政上特定の司教に与えられる栄誉称号
枢機卿・・・カトリック教会における教皇の最高顧問
ミラノ中央駅
現在の重厚なミラノ中央駅の建物は、ムッソリーニのファシスト時代にリニューアルされました。ファシストの権力の象徴として、重厚で豪華絢爛な建物にしたのです。その建物が現代でも現役の駅舎となっています。
ヨーロッパの大都市のターミナル駅はどこもそうですが、スリなどがいて治安があまりよくないと言われます。ミラノ駅構内は、見回りの警官も常駐しており、ホームには切符を持った乗客しか入れないシステムになっています。ミラノ中央駅からムッソリーニが吊るされたロレート広場まで徒歩圏内で、中心部と違ってあか抜けた感じがありませんが、必要以上に身構えることもないと思います。
ヨーロッパの大都市は、テロが多発している昨今の現状を踏まえ、警備体制が強化されています。一般的な旅行の治安という面では安全になった印象を個人的には感じます。
地元の人達のムッソリーニの評価は?
プレダッピオ村や、コモ湖を周って感じたことは、ムッソリーニは地元の人達からは親しみを持たれているということです。
プレダッピオ村で、墓の場所を民家のおばさんに尋ねたら、
「ドーチェの墓はまっすぐ行ったところにあるわよ」
メッツェグラ村で、処刑された場所を修理工場で働くおじさんに尋ねたら、
「ベニートは俺だよ!」と言って、右手を斜めに挙げるファシズムの敬礼をするムッソリーニそっくりな陽気なおじさん。その姿をみて、大笑いするたまたま通りかかった近所のマダム。
「ムッソリーニ」とは言わず、当時の愛称の「ドーチェ(総統)」、ファーストネームの「ベニート」と呼ぶ地元の人達。
ドイツではヒトラーやナチスは絶対的な悪として見なされています。
しかし、イタリアでは若干事情が違って、ムッソリーニを再評価する世論もあるようです。
元来、イタリアは都市国家の時代が長く続き、国家統一されたのは19世紀末でした。そのため、統一後も郷土意識が強く、国家としての国民の意識は薄かったのです。そこで第1次世界大戦後、ファシズムという概念を作り出し、「イタリア人」という意識を高めてくれたのがムッソリーニなのです。
そのような歴史の解釈もあるでしょうが、剛健質実なドイツ人と違って、イタリア人のラテン気質の陽気さがあるからこそ、ムッソリーニを再評価できる気質があるのだと感じます。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
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