ゲルニカ爆撃まで
反政府側が徐々に勢力を拡大
バスクの旅1 ピカソの絵の舞台となったゲルニカの街 前編1936年7月、スペインの植民地だったモロッコに駐在していた、フランシスコ・フランコ将軍率いる反政府側が蜂起してスペイン戦争が幕を開けます。
共和国政府側は、「ノーパラサン!(奴らを通すな!)」を合言葉にマドリード、バルセロナといったスペインの大都市を当初は死守することに成功します。しかし、ドイツ、イタリアの精鋭部隊の支援を受けた反政府側は徐々に勢力範囲を広げていきます。
共和国政府側は、ソ連が国内事情で支援を途中で放棄、各国若者で構成されている国際旅団の兵士も言語の弊害、戦闘経験不足が目立ち戦力になるのに時間がかかりました。そのような事情もあり、反政府側が徐々に優勢に戦争を進めていくのでした。
なぜゲルニカが爆撃されたのか?
ゲルニカはバスク地方にある小都市です。フランス国境と接しているスペイン西北部のバスク地方は古くからバスク人が暮らし、現代も独自の伝統と文化を持っています。現代でも民族独立を巡って、テロ事件なども発生する時もあります。スペイン戦争の際は、独立が認められる可能性が高いと思われた共和国政府側についたのでした。
1937年4月26日、そのゲルニカを反政府側のドイツのコンドル集団の航空部隊が襲い掛かります。諸説がありますが、2つのことがあげられます。
1)ゲルニカは当時、軍隊は駐留していませんでしたが、共和国政府側の通信設備、作戦本部などが置かれていたこと。
2)ゲルニカには、バスク地方の自治と伝統の象徴である樫の木があります。バスク地方の独立宣言、バスク地方の大統領の就任式はその木の下で行われるのです。なのでゲルニカはバスク地方の象徴の街だったこと。
では、ゲルニカの街を歩いてみましょう。
ゲルニカの街に残る当時の面影
バスでも列車でもゲルニカにやってくるとゲルニカ駅前に着きます。
ゲルニカ駅の駅舎は当時と変わらないままです。駅前から伸びる道を真っ直ぐ歩けば、町の中心部に行くことができます。時間軸に紹介したいと思います。
空襲警報の鐘を鳴らしたサンタマリア教会
1937年4月26日の月曜日、大衆市で賑わっていた午後4時半、ドイツ軍のコンドル集団の爆撃機によって爆撃が開始されました。爆撃機は街の上空を何回か旋回して爆弾を投下。その後、3段階にかけて行われた波状攻撃は3時間半にも及びます。
敵機襲来の時に、空襲警報の鐘を3度鳴らしたのがサンタマリア教会だったのです。今でも壁には空襲の弾痕が残っています。サンタマリア教会は街の高い位置にあり、敵機を監視しやすかったのがわかります。
爆撃の第1目標となったレンテリア橋
ゲルニカの街の東南には爆撃当初の目標だったレンテリア橋があります。鎌倉の江ノ電のように家々の間を通るバスク鉄道の踏切を渡ると、ムンダカ川に架かったレンテリア橋があります。川幅も狭く水量も多くないムンダカ川に架かるこじんまりとした橋です。
また、レンテリア橋を渡った左手にはメルセス会修道院もあります。メルセス会修道院もレンテリア橋と同様に爆撃の目標の一つになったと言われています。
しかし、レンテリア橋もメルセス会修道院もたいした被害は受けませんでした。爆撃から3日後、反政府側のフランコ将軍の軍隊がレンテリア橋を渡って、ゲルニカの街に進駐してきます。
第2次世界大戦末期の連合軍が苦戦したドイツのライン川のレマーゲン鉄橋、オランダのアーネムの橋のように、橋の存在は軍の進軍に不可欠なもの。あえて反政府軍は攻撃しなかったのかもしれません。
参考記事
ライン川に架かっていた唯一の橋、レマーゲン鉄橋 編
映画「遠すぎた橋」の舞台となった激戦地、オランダのアーネム 編
ガイドブックにも載っている議事堂、博物館
多くの日本人旅行者が愛用する「地球の歩き方」(ダイヤモンド社)のスペイン編では、 ゲルニカの街が2ページで紹介されています。街のみどころでは市庁舎があるフォル広場にあるゲルニカ平和博物館(MUSEO DE LA PAZ GERNIKA)とバスク議事堂(CASA DE JUNTAS)の2ヶ所のみの既述があるだけです。残念ながら私が訪れた2016年12月31日は年末のため、両方ともクローズしていました。
ホームページを紹介しますので、訪問する際は、チェックしてみてください。
ゲルニカ平和博物館(www.museodelapaz.org)
バスク議事堂(www.jjggbizkaia.net)
ゲルニカ平和博物館があるフォル広場では空襲開始時、市が開催されていて、賑わっていたのでしょう。現代でもフォル広場から道を挟み、観光案内所やお土産屋さんが両サイドに並ぶサンタマリア通りを少し歩けば、市場があり地元の買い物客で賑わっています。市場に足を伸ばして、当時の情景をイメージしてみるのも良いかもしれません。
バスク議事堂については、クローズしていても外側の道から、「ゲルニカの木」のオリジナルと1860年に植え替えられた新しい「ゲルニカの木」を見ることができます。 しかし、このゲルニカの木も爆撃では無傷でした。
ゲルニカ爆撃による死者は、戦後のバスク政府の発表、スペイン戦争中の共和国政府側、反政府側で数百人から1万5千人前後と大きな幅があります。
コンドル集団の爆撃機は40-50機、投下した爆弾は200キロから300キロと言われています。当時の人口は避難民を含めて6000人から7000人だったそうです。 恐らく死者数は数百人というのが正しい数字かもしれません。
また、バスク議事堂の道を挟んで隣のバスク美術館(MUSEO EUSKAL HERRIA)の一角の展示には、ゲルニカ爆撃を扱ったコーナーもあります。
私が訪れた2016年は、ゲルニカは1366年に創設されて650周年でした。
ゲルニカにもある現代の画家が創作したピカソの作品
バスク議事堂の近くの公園には、現代の美術家がゲルニカを描いた彫刻が2点あります。 公園は市民や観光客の憩いの場となっています。また、サンタマリア教会近くには、ゲルニカの絵を再現した壁画もあります。
ゲルニカを周るルート
ゲルニカの街を時系列で紹介してきましたが、ゲルニカの街を効率よく周るルートを紹介します。小さい街なので徒歩で充分に周れます。
ゲルニカ駅
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アドルフォ・ウィルス通り(ADOLFO URIOSTE)通り
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左側に公園の花時計
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そのままアドルフォ・ウィルス通りを登っていくとサンタマリア教会
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教会の目の前には、バスク美術館、左隣はバスク議事堂
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バスク美術館の右手の道を登る
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現代の美術家のゲルニカの彫刻がある公園
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バスク美術館まで戻る→左側の道を歩く
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ゲルニカの壁画
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目の前のサン・ファン通り(SAN JUAN)を下る
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3番目の右角(アルテ通り(ARTEKALEA))
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フォル広場、市庁舎、ゲルニカ平和博物館
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アルテ通りを挟んだサンタマリア通り(SANTA MARIA)
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市場
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市場の前の道を左側にいくと再びサン・ファン通り
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サン・ファン通りを右手に歩く
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レンテリア橋、メルセス会修道院。
紹介した全てのルートを通しで歩いても40分くらいだと思います。あとは博物館などの見学時間に当てれば良いと思います。バスク鉄道のゲルニカ発のビルバオ行きは、1時間に1本の割合なので、ゲルニカ駅に着いたら時刻表を見ておくことをオススメします。
その後のゲルニカ、スペイン
ゲルニカ爆撃から3日後、レンテリア橋から進駐してきた反政府軍はバスク議事堂にフランコ総統旗を掲げます。その後はゲルニカをはじめとするバスク地方も反政府軍の勢力下になりました。
そして、ゲルニカ爆撃から2年後の1939年4月、カリスマ性があるリーダーフランコ将軍の元、ドイツ、イタリアの支援を受けた反政府軍が勝利します。共和国政府側の敗因は各国の支援が消極的で、国際旅団の兵士の戦闘能力の低さにあります。また政府内部でも自由主義者と社会主義者同士の対立などもあり、組織的な交戦にはたくさんの弊害があったのでした。
ゲルニカ爆撃の意義は戦略爆撃の概念を誕生させたこと
スペイン内戦では、ゲルニカが初めて無差別爆撃が行われた町ではありません。 共和国政府側、反政府側も都市を爆撃していました。
ゲルニカが有名になったのは、ゲルニカ爆撃をイギリス、アメリカなどが大きく報道したため、当時、パリにいたピカソをはじめとする有名な芸術家が反応したことによります。
ゲルニカ爆撃によって、世界は大量の爆撃機を使えば1つの街を消滅させ、相手の士気を低下させることができると認識したのです。「戦略爆撃」という概念の誕生です。 それが数年後に勃発する第2次世界大戦でヨーロッパ、日本、中国各地の大都市で連合軍、枢軸国関係なく都市型爆撃が行われます。
(番外)ゲルニカの街角で見た風景
駅前の中華系が経営している商店の一コマ。
学校の友達なんでしょうが、3つの人種の子供たちが談笑しています。スペイン北部ですが、アフリカ系の姿も目立ちます。
日本だとヨーロッパは移民に難色を示していると報道されています。実際には、移民はヨーロッパの文化、社会に溶け込もうと必死に努力していたり、ヨーロッパの人達も彼らを受け入れようと、サポートする人たちもいるようです。
物事には二面性があると思いますが、島国で単一民族の日本人より、国境を陸路で接して、昔から渡洋して移民がたくさん流れてくるヨーロッパの人達の方が、他者に対する理解や配慮が先進的だと感じます。