パリから北東に約80キロに位置するコンピエーニュは、パリから列車で気軽に行くことができるため、日帰りで訪れる人が多い街です。コンピエーニュは、中世の城や宮殿等がある街としてガイドブックには紹介されています。
戦争の歴史からみたコンピエーニュは、第1次世界大戦において、ドイツがフランスに降伏調印した場所であり、第2次世界大戦では、反対にフランスがドイツに降伏調印をした場所です。
コンピエーニュ郊外の森には、両大戦の休戦条約が結ばれた場所が、記念館(THE ARMISTICE CLEANING)として公開されています。
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休戦条約が調印された、コンピエーニュの森の食堂車があった所までヒッチハイクしました。(@YouTube) |
ドイツとフランスが休戦条約を結ぶまで
ダンケルクからイギリス、フランス軍が撤退を完了した翌日の1940年6月5日、ドイツ軍は、一斉にパリ方面への進撃を開始。
ダンケルクからの撤退作戦については、「奇跡の撤退作戦が行われたフランスの港町、ダンケルク 編」と「ヨーロッパ大陸から最も近いイギリスの港町ドーバーを歩く 編」
フランス政府は南部のボルドーへ首都を移して、徹底抗戦の構えを見せようしますが、 ポール・レイノー首相は辞任して、第1次世界大戦の英雄フィリップ・ペタンが首相に就任。ペタンはドイツと休戦協定を結ぶ交渉を始めます。
ヒトラーがフランスに突きつけた領土の条件は、アルザス・ロレーヌ地方をドイツ領として、パリを中心としたフランス北部は、ドイツ軍占領区とすることでした。
また、フランス南部は、ヴィシーを首都とした、ペタンを国家主席とする中立国として主権を与えられます(ヴィシーフランス)。ドイツは戦争継続のための、物資の供給を要求しましたが、フランスの植民地や残存軍隊などは、そのままヴィシーフランスに継承されることになりました。
ヒトラーは、ヴィシーフランスをドイツの従属国家として今後の戦争に利用するために、主権国家として面目が立つ形で、フランスの処遇を決めたのです。
一方、ヴィシーフランスに反発するド・ゴール将軍は、イギリスへ亡命して、自由フランスを設立。ドイツと戦う姿勢をとり、フランス国内のレジスタンスに呼びかけを行います。
そんなドイツとフランスが停戦交渉を行った場所が、パリの郊外コンピエーニュの森にあります。
そこは、1918年、第1次世界大戦が終わった時、ドイツがフランスに降伏の調印した場所でもあったのでした。
そして、1940年、フランスに1918年の屈辱を味あわせるために、ヒトラーは、降伏調印した独仏両大戦の因縁の場所を選んだのです。そして、調印の舞台には当時と同じ食堂車を使うという執念深さでした。
6月22日、午後3時15分、ヒトラーは、副総統ヘス、外相リッベントロップ、航空相ゲーリングらナチスの高官を引き連れて交渉の場に臨んだのです。
どうやって行く?コンピエーニュ
パリ北駅から列車で40分~1時間10分ほどでコンピエーニュ(Compiègne)駅に到着します。パリ北駅からの列車の本数も多いです。
駅を出てオワーズ側を渡って10分ほどで街の中心広場PL.De l’Hotel de Villeに着きます。広場には、文化遺産に登録されているゴシック様式の市庁舎が建っており、その隣には観光案内所があります。観光案内所ではパンフレットも充実しているので覗いてみると良いでしょう。休戦条約調印の記念館までの地図もあります。
コンピエーニュの見どころ
コンピエーニュには、見どころがいくつかあります。
コンピエーニュ周辺は王族の狩猟地だったので、王族関係のお城が観光の目玉となっています。
フランス君主制最後のブルボン王朝の宮殿、「コンピエーニュ城」が中心広場から歩いてすぐの場所にあります。内部はナポレオンの部屋、マリーアントワネットがデザインした部屋も見学できます。
駅前からバスに乗って郊外へ行くと、小高い丘の上に建つ軍艦のようなピエルフォン城があります。ナポレオン3世が改修させた城で、中世の雰囲気を漂わせ、「ジャンヌダルク」など多くの映画のロケに使われています。
両大戦の休戦条約の記念館「THE ARMISTICE CLEANING」
両大戦以外にも19世紀の普仏戦争、大戦間に起きたフランス軍のルール工業地域占領など、幾たびも紛争が絶えなかった国境を接するヨーロッパの大国、ドイツとフランス。永遠のライバルといえます。
第2次世界大戦でフランスに勝利した時、前大戦の屈辱を知るドイツ国民は熱狂しました。ヒトラーもまた第1次世界大戦では、伍長として前線で戦い苦汁を味わっていました。そこで、ヒトラーは、フランスに降伏調印させる場所として、第1次世界大戦でドイツが降伏調印した因縁の場所であるコンピエーニュの森を選んだのです。
記念館へのアクセス
コンピエーニュ駅を背に左側のオワール川沿いの道を、約10KM弱ほど、ひたすら進めば記念館に着きますが、とても歩ける距離じゃありません。(私は徒歩で行こうとしましたが、記念館まで6KMの表示を見た瞬間に降参して、ヒッチハイクして辿りつきました。)路線バスもないので、駅からタクシーの利用をオススメします。
タクシーは片道10数ユーロほどです。帰りは記念館の係員に言えば、タクシーを呼んでくれます。
詳しくは、「戦争遺跡ライターが辿りつくのが難しいと感じた3つの戦跡」編も参照してください。
森の中にある記念館
森の中にたたずむ記念館、「THE ARMISTICE CLEANING」。広場には食堂車が置かれていたレールが残っています。戦車の複製もあったりして軍事博物館っぽい雰囲気もあります。アクセスもよくないので見学客もほとんどいません。
その奥にポツンとあるフランス国旗が3つ飾ってある建物が、記念館となっていて見学できます。
私が訪れた時、空いているかな?と不安でしたが、ドア開けたら、開館していて係りのおばちゃんが一人いただけで、館内にも見学客は誰もいませんでした。
館内は、両大戦の調印に使われた食堂車が実物大で復元されて置いてあり、1918、1940年、当時の調印の様子の写真が展示されています。また、1940年、食堂車がパリの博物館からコンピエーニュの森まで運び出される経緯を撮影した写真も展示されています。
1940年に調印した後、食堂車は、フランスへの雪辱の象徴として、ベルリンへ運ばれドイツ国民に向け展示されます。しかし、ドイツの旗色が悪くなった戦争末期、再びこの食堂車で、フランスに降伏の調印をさせられるのではないかと恐れたヒトラーは、食堂車を破壊させたと言われています。
館内は広くないのでじっくりみても数十分で見学できます。見学者は自分以外いませんでしたが、係りのおばちゃんにこの博物館に1年で何人訪れるのか?と聞いたら、8万人は来るという(本当か?)。
入場料: 5ユーロ
言語: フランス語のみ(英語なし)
記念館内部は撮影禁止
お土産コーナー有り
ホームページ:http://www.musee-armistice-14-18.fr/#/le-wagon/3160813
コンピエーニュの森は独仏の因縁が生んだ?
手塚治虫の「ヒトラーに告ぐ」でも、コンピエーニュでの休戦調印の場面が描かれています。ヒトラーが調印に出向いた際、石碑に1918年のドイツの敗戦を記されている言葉を読み上げ、怒りながら、ヒトラー自らの手でその石碑を壊します。その横で前大戦で従軍していたヒトラーの老運転手が涙ながら「総統は仇をうってくれたのじゃ」ってしゃべっているシーンがあります。
わざわざこんな手の込んだことをしたのは、ヒトラーの狂気じみた政治的宣伝の利用のための行為、といった評価があるこの降伏調印。今回この記念館を訪れたり、今までヨーロッパ周って感じたことを考えると少し違った見方もできます。
20世紀の両大戦のみならず、19世紀の普仏戦争、大戦間に起きたフランス軍のルール工業地域占領など、幾たびも紛争が絶えなかった国境を接するヨーロッパの大国、ドイツとフランス。両国は常にヨーロッパ紛争の火種でした。
今は「EU」という政治共同体で、通貨もユーロで統一され、事実上国境がなくなっているヨーロッパ。その起源は戦後、その火種である独仏国境(アルザス地方)にある石炭を独仏で国際機関の元、共同管理することになります。「EU」というのは、繰り返してきた戦争の反省から生まれた政治的意図から始まった概念だったのです。
ドイツ、フランスというのは、長年の根深い因縁がある両国。20年前と同じ場所同じ食堂車を選んだのは、ヒトラーの狂気だけでは説明がつかない、当時の両国民の感情の裏返しでもあるのではないでしょうか。
パリ市内の観光のついで、1日だけパリからコンピエーニュに足を伸ばしてはいかがでしょうか。大都会パリとは違ってのんびりとした街、コンピエーニュ、近現代のドイツとフランスの因縁の場所や、ナポレオンゆかりの場所を訪れてみてください。
コンピエーニュの森で休戦条約に調印したヒトラーは、翌日、パリ観光をするのでした。 「ヒトラーのパリ観光のルートを巡る旅 編」に続きます。