レマーゲンの奇跡とは?
1944年6月のノルマンディー上陸、パリ解放と、順調にドイツ軍を撃退していた西部戦線の米英連合軍。オランダでのマーケットガーデン作戦、ベルギーでのバジルの戦いで、予想外のドイツ軍の抵抗にあっていたものの、1945年に入るとついにドイツ領土内に侵攻します。
連合軍は、ドイツの軍事生産能力に止めを刺すために、ドイツ北西部のルール工業地帯を制圧する計画をしますが、その目前にはドイツを南北に流れる大河、ライン川がありました。ドイツ軍は連合軍の侵攻を妨害するために、ライン川に架かる橋を全て破壊して退却していました。そのおかげで連合軍100万人の兵士がライン川の目の前で足止めを喰らっていました。
そのような状況の中、ボンの南東のレマーゲンという街に奇跡的に残っているルーデンドルフ橋をアメリカ軍の部隊が発見します。 ルーデンドルフ橋を破壊しようとするドイツ軍、確保しようとするアメリカ軍による攻防の末、アメリカ軍は橋を制圧することに成功します。これが「レマーゲンの奇跡」です。
どうやって行く?レマーゲン
レマーゲンの街は、ライン川沿いの主要都市であるコブレンツとボンの間にあります。日本からも直行便があるフランクフルトからは列車で約2時間、コブレンツ、ボンからは其々約20分ほどです。
レマーゲンの駅前は、カフェが何軒かあるロータリーとなっております。 駅前の道を真っ直ぐ歩くと、左右にレマーゲンの商店街が広がる道(マーケットシュトラッセ:MARKETStraβe)に出ます。その道を左に進むと三角州に市庁舎が見えてきます。市庁舎の前にはレマーゲンの観光案内所もあるので、地図などをもらっておくと良いでしょう。市庁舎の右側から伸びる坂道(ピントガッセ:PINTGASSE)を下るとライン川が眼下に広がります。ライン川沿いは歩道になっていて、ライン川クルーズの乗り場やレストランが軒を連ねています。
ルーデンドルフ橋は、ライン川沿いの歩道を1キロほど左に歩いた場所にあります。
ルーデンドルフ橋と平和博物館
ライン川沿いに歩道を歩いていくと、川の両サイドに橋の塔跡が見えてきます。 それが旧ルーデンドルフ橋の塔です。現在ではレマーゲン側の橋の塔は平和博物館となっています。ルーデンドルフ橋の建設から第二次世界大戦中、戦後の歴史を写真入りで紹介されています。また、ルーデンドルフ橋だけではなく、現在の紛争地域について触れた展示もあります。
平和博物館
住所:Rheinpromenade Remagen,Bachstrasse2,53424 REMAGEN
ホームページ:http://www.bruecke-remagen.de/
使用言語:英語、ドイツ語、フランス語
入場料:大人3.5ユーロ
カフェテリア:無
ルーデンドルフ橋建設~第二次世界大戦中
ルーデンドルフ橋は、第一次世界大戦中に建設されました。橋の名前は、当時のドイツ軍の将軍ルーデンドルフにちなんで名付けられます。ルーデンドルフ橋は、レマーゲンの街から対岸の街、エルピルのトンネルに通じる複線の鉄道橋でした。橋の長さは325メートル、石作りの橋脚が4個あり、両端には砲陣地に使用できる塔がありました。
第一次世界大戦後、レマーゲンはアメリカ軍の占領地になり、当時のアメリカ軍はこの橋を渡ってドイツ領内に進駐しました。アメリカ軍は第二次世界大戦でも再度、ルーデンドフル橋を目指すことになるのでした。
第二次世界大戦末期になると、連合軍によって何度かルーデンドルフ橋やレマーゲンの街が空襲されますが、ルーデンドルフ橋は損傷しつつも耐えていました。 平和博物館には当時の様子を撮影した写真がたくさん展示されています。
1945年3月2日、ランバージャック作戦を発動
1945年3月2日、アメリカ軍の第1軍は、ライン川西岸からドイツ軍を一掃する「ランバージャック作戦」を発動。この作戦の最大の目標は、ライン湖畔の大都市ケルンでした。大攻勢の末、3月6日には、ケルンを占領することができました。しかし、ライン川にかかる巨大な鉄橋「ホーヘンツォルレン橋」は退却するドイツ軍によって破壊されていました。
大聖堂は連合軍の度重なる爆撃によって廃墟となりましたが、橋の破壊は、連合軍の爆撃ではなくドイツ軍の手によって行われたのです。
その他にもライン川に架かるほとんどの橋は、連合軍の侵攻を妨げる為に、ドイツ軍によって破壊されたのでした。
ケルンでは当時の廃墟の写真が、お土産としてステッカーなどになって売られていたり、 大聖堂の前でちょっとした写真展が行われていたりします。
*ホーヘンツォルレン橋は、1936年3月7日、ヒトラーが、非武装地帯とされていたライン川西岸に最初に軍隊を侵入させた橋でもある。
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1945年3月7日のレマーゲン
しかし、ケルンを占領した翌日の3月7日、ケルンから南東に45キロにあるレマーゲンの街で、アメリカ軍の第3軍に所属するカール・ティマーマン少尉に率いられた先遣隊が無傷で残っている橋を発見します。
それがルーデンドルフ橋でした。
退却するドイツ軍はライン川の東岸へ部隊を収容するために、最後まで破壊を遅らせていたのでした。レマーゲン防衛と橋の爆破を命じられていた第67軍団のシュラー副官は、アメリカ軍がレマーゲンの街に現れたのに気づきます。
そして、アメリカ軍には「午後4時にドイツ軍が橋を爆破する」という情報がドイツの民間人から入ってきていました。
アメリカ軍、ドイツ軍共に一刻の猶予もありませんでした。
午後2時半 ドイツ軍が橋の西側を爆破する
ドイツ軍の工兵隊長フリーゼンハーン大尉とその部下が、予め仕掛けておいた爆薬を点火して、橋の西側にある橋導入部のアーチを爆破します。これは成功して石のアーチが崩れ、アメリカ軍がたやすく橋に侵入できないようになりました。
この時、爆破された橋導入部は、西側の平和博物館の裏に残っています。平和博物館の後ろから伸びているあぜ道を上がると見えてきます。
フリーゼンハーン大尉達は、すぐさま橋を渡り東側のエルピナのトンネル内に避難します。
対岸のトンネル内には、ドイツ軍の小部隊、敗走兵、民間人など約200人のドイツ人が避難していました。
この対岸のエルピナへもライン川を渡っていくことができます。
レマーゲン、エルピナ間には、所要時間5分程の30分に1本の割合で小型フェリーが運航され、地元の人達の交通手段になっています。乗り場はライン川沿いの歩道を戻ると見えてきます。
フェリー:往復1.5ユーロ
エルピナ側のルーデンドルフ橋の塔跡も残っており、そのすぐ後ろは鉄道の線路となっています。トンネルは塔と線路を挟んだ後ろ側にあり、現在イベント時以外は閉鎖されています。
エルピナ駅は無人駅で本数も少なく、ケルン方面、フランクフルト方面に行く場合は、 レマーゲンに戻った方が良いでしょう。
午後3時半 ドイツ軍が橋本体の爆破を試みる
アメリカ軍が橋に近づいてきます。シュラー副官が、トンネル入口付近にある爆破装置の前で待機する、フリーゼンハーン大尉に橋の爆破を命じます。フリーゼンハーン大尉は、爆破には文書命令が必要だと拒否しますが、もはや時間の猶予がないと判断すると爆破装置を作動させます。
フリーゼンハーン大尉「橋を爆破せよ!爆風に備えよ!」
爆発が起らず、2度3度トライしますが、橋に異常はありませんでした。
フリーゼンハーン大尉は、せめて橋のアーチ手前の非常用爆薬に点火したいと考え、志願したファウスト軍曹が向かいます。ファウスト軍曹が戻ってきた時、爆薬が爆発し、爆音が大気をゆすり、煙と破片が舞い上がります。
フリーゼンハーン大尉「やった!これでアメリカ軍は来られない。」
しかし、ルーデンドルフ橋は、爆風で一瞬浮いたものの工業用爆薬が弱かったので、 健在だったのです。
その瞬間、アメリカ軍のティマーマン少尉が「今だ進め!」の合図を出し、渡橋を開始。
東側の塔やトンネルの丘の上、川の小型船から銃弾が飛来して、次々にアメリカ兵も倒れていきましたが、戦車が応戦すると、塔の砲撃は中断し、小型船も白旗を上げました。
再び塔からの砲撃も始まりましたが、デリシオ軍曹が最初に橋を渡りきり塔を制圧、その後、ティマーマン大尉も東側に辿り着きました。
午後4時過ぎ ドイツ軍の降伏
トンネルの丘の上ではドイツ軍の機関砲が火を噴いている中、次々に橋を渡るアメリカ軍の部隊が橋の確保に成功します。トンネル内のドイツ軍は降伏。これが「レマーゲンの奇跡」と言われる概要です。
その後のルーデンドルフ橋
ドイツ軍も爆撃機や長距離砲など使って、ルーデンドルフ橋の破壊を試みますが失敗に終わっていました。しかし、3月17日午後3時頃、突然轟音と共に橋が崩れます。連合軍の爆撃、3月7日の攻防、ドイツ軍による奪回の攻撃などで、橋は痛めつけられ弱体化していました。その時、橋で作業をしていた200人のアメリカ軍工兵隊員がライン川に流され、28人が命を落としました。
ドイツの屈指の観光地、ライン川沿いにあるレマーゲン、ライン川沿いの主要都市を周るついでに、途中下車をして訪れてみてはいかがでしょうか。