永世中立国スイスの苦難の歴史
第二次世界大戦のスイスの話をする前に、スイスの歴史に軽く触れてみたいと思います。
ヨーロッパの中央に位置して、登山電車から美しい山々が見える観光立国スイスは、シーズンを問わず世界中からツーリストが押し寄せます。
「スイス=中立国、平和」というイメージが強いスイス。しかし、その平和を守るためにスイスは多大な労力を払っています。それは歴史からも、うかがい知ることができます。
スイスには海がなく、四方八方、隣国と国境で接しています。現在、スイスと国境を接している国は、ドイツ、オーストリア、フランス、イタリア、リヒテンシュタインの5ヶ国です。そのため、公用言語が複数あります。たとえば、ドイツやオーストリアと近い、中央部や東部はドイツ語。フランスと近い西部はフランス語。イタリアと近い南部ではイタリア語などが使われています。
筆者は今回の取材で、ジュネーブ、ベルン、ルツェルン、チューリッヒと西部から東部へとスイスを横断しました。列車で約1時間半の距離のジュネーブからベルンに移動した時に、列車の車内放送がフランス語からドイツ語に変わっていることに気づきました。
ジュネーブではフランス新幹線TGVも乗り入れる
スイスは同じ言語の周辺国の情勢に世論が影響されやすい一方、連邦制で地方自治を尊重した国づくりをしています。狭い国土に複数の言語の民族が混在するスイスは、他国から侵略される可能性を考慮しながらも、外国との商業取引、時にはビジネスライクな外交で中立を守ってきました。
傭兵を各国へ送り込んで外貨を稼いでいた
現在では、美しい山々の景観で人々を魅了するスイスも、19世紀ころまでは、険しい山だらけの醜いものと、ヨーロッパ人は感じていました。不便な山地で暮らすスイス人は、外国へ出稼ぎに行く人がたくさんいました。主に傭兵として各国で雇われることが多かったのです。不幸にもスイス人同士の戦いも行われたと言われています。
スイスの中央にあるルツェルンの観光名所には、ライオン記念碑があります。1792年のフランス革命の際、ルイ16世を守るために命を落とした786名のスイス人傭兵を弔うために造られたのです。1815年、ナポレオン戦争の処理をしたウィーン会議で、スイスの永世中立国が認められると、傭兵を輸出する文化は終焉を迎えます。
そして、19世紀の中頃。ヨーロッパで産業革命が起こると、都市部では工業化が進み、人々は自然にあこがれるようになりました。それにより、スイスのアルプスは観光資源になっていったのです。中立国である平和のイメージもあり、今日のスイス像が形成されていきます。
宗教改革の舞台となって産業が発展
16世紀、ヨーロッパで宗教改革が起こると、カトリックが優勢なフランスから多くのプロテスタントがスイスへ逃げてきました。1536年、ジュネーブでは、ジャン・カルヴァンが招かれ教会改革が進められます。
カルヴァンは予定説を主張します。
天国に行けることを神から予定されている人なら、敬虔な生活を送っているはずだ。
敬虔な生活とは、与えられた職業に励むことという禁欲的職業論のことです。
この考え方は、プロテスタントの中のカルヴァン派として世界各地に受け入れられます。それまでのカトリックでは働くことは卑しいこととされてきましたが、カルヴァンの職業倫理が、今日の資本主義の発展につながったと指摘されています。
スイスへ逃れてきたプロテスタントは、結果的にスイスに財産と技術をもたらすこととなり、それが今日でも盛んな金融業や時計産業が発達するきっかけとなったのです。徐々に傭兵として出稼ぎをしないで済むようになっていきました。
ジュネーブはカルヴァン派の総本山となり、ジュネーブではカルヴァンのゆかりの地が観光名所となっています。現在の私たちの「働く」という概念が形成された場所がジュネーブだったとも言えます。
戦間期には国際連盟の本部が置かれる
20世紀になるとヨーロッパでは2つの大きな世界大戦に見舞われます。
第一次世界大戦では、スイスは直接戦乱に巻き込まれることはありませんでしたが、周辺国が全て戦争に参戦していたので、経済的な危機に陥ってしまいました。その教訓は次の大戦の時に生かされます。
第一次世界大戦後、アメリカのウッドロウ・ウィルソン大統領の提唱によって、紛争を各国間で話し合うための国際機関である「国際連盟」が設立されます。その本部は中立国であるスイスのジュネーブに置かれました。
現在でも第二次世界大戦後に設立された国際連盟の後釜である「国際連合」のヨーロッパ本部もジュネーブにあります。
国際連盟の本部だったパレ・ウィルソン
1920年~1936年まで、ジュネーブのレマン湖沿いの「パレ・ウィルソン」という建物が国連連盟の本部でした。現在でも国際連合の組織の一つ、国際連合人権高等弁務官事務所の建物として使われています。
ジュネーブの中央駅(コルナヴァン駅)からも歩けますし、モン・ブラン橋からレマン湖沿いにモン・ブラン通り、ウィルソン通りを歩いていけば、約20分で着きます。
パレ・ウィルソンの隣には、プレジデント・ウィルソンという名前のホテルがあります。
通りの名前といい、ホテルの名前といい、現在でも国際連盟を提唱したウィルソン大統領の名前が付けられています。
国際連盟は、実質的にヨーロッパの加盟国の利害を優先する機構となり、第二次世界大戦を防ぐことはできませんでした。第二次世界大戦後に設立された国際連合は、国際連盟を反面教師として作られたイメージがあったので、ウィルソンの名称がたくさん出てくることに違和感がありました。
しかし、現在でもパレ・ウィルソンは国連の建物として使われています。また、1936年からは、現在の国際連合のジュネーブのヨーロッパ本部が国際連盟の本部として使われました。
国際連盟は第二次世界大戦を防げなかった汚点というよりは、第二次世界大戦後から現在に至るまで存続する国際連合に受け継がれる遺構ということを、ジュネーブを歩いていると実感します。
イントロダクション
パレ・ウィルソン
住所:Quai Wilson 47,1201
サヨナラ演説で国際連盟を脱退した日本
世界史・日本史と共に教科書に記載されているパレ・ウィルソンでの有名な出来事があります。
日本が国際連盟を脱退するきっかけとなった、1933年2月24日、松岡洋右のサヨナラ演説です。
1931年に中国の東北部で起きた満州事変の処理を巡って、パレ・ウィルソンで連盟総会が開かれます。
1932年暮れに始まった連盟総会では、日本を支持する加盟国がほとんどない中、松岡の卓越した英語力とユーモアを交えたウィットな演説で、日本側への同情的な空気が生まれてきました。特に1932年12月8日の「十字架演説」では、非難にさられている日本を十字架に架けられたイエスに例えて満州国の正当性を主張して、イギリスやフランスの代表団から握手を求められるほどでした。
日本への妥協案も生まれますが、最終的には満州国は否決されて、松岡がサヨナラといって連盟総会を退場するシーンは、当時の日本が国際社会から孤立した象徴となっています。
満州事変や満州国の痕跡は、「No.24:旧満州国の痕跡を歴史背景と一緒に追いかける旅-その2」。
国際連盟脱退までの経緯は、「No.24:旧満州国の痕跡を歴史背景と一緒に追いかける旅-その3」をご参照ください。
ジュネーブには国際連盟の連盟総会に参加していた松岡洋右をはじめ、日本全権が宿泊していた当時の最高級ホテル「メトロ・ポール」は今でも営業中です。
ジュネーブの旧市街側のモン・ブラン橋を渡ったイギリス公園の目の前にあります。
松岡も連盟総会の前には、朝の散歩でレマン湖を眺めながら、イギリス公園を散策して、その日の議題について考えていたのかもしれません。
スイスのジュネーブに本部が置かれた国際連盟は、その後もドイツ、イタリアが脱退して、第二次世界大戦を防ぐことができませんでした。そして、中立国スイスにも戦争の影が近づいていきます。
「第二次世界大戦中のスイスを追う旅2」では、第二次世界大戦中のスイスを紹介します。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,512円(税込)