凱旋門の近くにあった在仏ドイツ軍最高司令部
凱旋門の近くには、ドイツ軍の最高司令部が置かれていた建物があるので紹介しておきます。それは、凱旋門から伸びるクレベール通り(Avenue kleber)に沿いにあるザ・ペニンシュラパリ(THE PENINSULA PARIS)というホテルの建物に置かれていました。
凱旋門から見て左側の2つ目の角に、そのホテルはあります。当時はマジェスティックというホテルで、その建物をドイツ軍は接収したのでした。また、通りを挟んであるホテル・ラファエル(HOTEL RAFAEL)も当時からあります。ここでは、1944年7月のドイツ国防軍によるヒトラー暗殺未遂事件の時、暗殺に加担していたドイツ軍の将校が成り行きを見守っていたという話もあります。
1944年当時、なぜヒトラー暗殺未遂事件が起きたのか
ドイツの軍隊であるドイツ国防軍は、プロセイン時代からあった伝統的な軍隊でした。諜報機関も設けて、反ドイツ分子に目を光らせていましたが、フランスに限らず占領地域では、国際法に基づいた人道的な統治を理想としていました。そのため、成り上がりのナチスとは相反する将校も多く、ドイツ軍が占領した地域に、ユダヤ人やレジスタンスを一掃するためにやってきたナチスの親衛隊の行為を苦々しく思っていたのでした。
国防軍の幹部が、主導するヒトラー暗殺計画を企てたのも、その流れの中であったのです。
共産党系レジスタンスの活動がきっかけとなった場所
レジスタンスの中には、自由フランスとは別に共産党系の団体もありました。ただ、当初はドイツが独ソ不可侵条約を結び、ソ連と友好関係にあったこともあり、積極的な活動には出られませんでした。しかし、1941年6月22日、ドイツが条約を破ってソ連に侵攻すると、ドイツ軍へ反抗するようになります。
同年7月22日、パリ市内のストラスブール・サンドニ交差点で共産党のデモ隊が騒動を起こすと、ドイツ側は2人を逮捕して処刑してしまいます。
その報復に、地下鉄のバベロス・ロシュシュアール(Barbes Rochechouart)駅でフランス共産党員によって、ドイツ軍の海軍見習士官が殺害される事件が発生しました。
この事件を受けてドイツ側は、もしドイツ軍将兵に危害を加えたら、人質のフランス人をそれに応じて殺害するという声明を発表します。しかし、共産党系のレジスタンスの活動は衰えることはありません。自由フランス配下のレジスタンスは、この行動に驚愕します。
同じレジスタンスでも、自由フランスと思想的には異なる共産党系は、一時的に手を組むことがあっても対立関係にありました。それはフランスの解放直前になっても続きます。それは、後年ド・ゴールがパリを解放した時に、共産党系のレジスタンスに対しては、労をねぎらうコメントをしなかったことからもうかがえます。
このレジスタンス活動の転機となったストラスブール・サンドニ交差点は、地下鉄3、4、8号線が通っているストラスブール・サンドニ駅を出た所になります。バベロス・ロシュシュアール駅は同じく3号線沿線にあります。
レジスタンスの密会現場が地下鉄の駅だったように、暗殺現場も地下鉄の駅構内でした。
地下鉄の駅は、その暗さや地上よりも人目をはばからないということで密会や待ち伏せに適していたのかもしれません。
余談ですが、筆者はフランス取材のため、バベロス・ロシュシュアール駅近くのホテルに1週間、滞在していました。国鉄の北駅から近く、下町である18区にあるバベロス・ロシュシュアール駅周辺は、日本の感覚だと治安がよくない印象を受けました。
朝から駅前にたむろする怪しげな若者たち、切符を持たず筆者の背中にひっついて改札をくぐる人、出口から地下鉄駅へ強行入場する人、警官の巡回の頻度も多かった印象があります。しかし、それがパリの日常風景なのであって、1週間も滞在すると不思議と慣れてきました。
レジスタンスが処刑されたモンヴァレリアンの丘
パリの西部には、モンヴァレリアンの丘があります。広場にある展示文には、この丘で1,008人のレジスタンスが銃殺されたと記されていました。
銃殺場跡の頂上の広場にはモニュメントには、こう刻まれています。
また炎が消え去ることはない。」
1940年6月18日、ド・ゴールがロンドンからBBC放送を通じてフランス国民に訴えた言葉です。記念碑の前には炎が灯り続けています。
抵抗の炎が灯り続けている両サイドには、7つずつ、計14個の正方形の碑があります。それぞれに意味があります。
その一つは、1944年のイタリア戦線で自由フランス軍も活躍した、モンテ・カッシーノの戦いを表しています。右下の山はモンテ・カッシーノ修道院がある山を表します。
モンテ・カッシーノの戦いについては、「1944年、大激戦で廃墟になったモンテ・カッシーノ修道院」編をご参照ください。
銃殺されたレジスタンスの人達への弔い以上に、フランスは決してナチスドイツの支配下にあっただけではなく、連合軍の一員として勝利へ貢献したことを訴えている気がします。
ド・ゴールが演説した6月18日は毎年式典が行われ、フランスの大統領やド・ゴール派だった元レジスタンスやその家族たちが出席します。
モンヴァレリアンの丘へは、地下鉄1号線の終点ラ・デファンス(La Defense)駅から360番のバスでMont-Valerien(モン・ヴァレリアン)で下車します。所要時間は15分ほどで、バス停を降りて、後方の丘を上がっていくと着きます。
【本記事における参考文献】
「ナチ占領下のパリ」 長谷川公昭著 草思社
「フランス現代史隠された記憶」 宮川裕章著 ちくま新書
< 【第76回】パリの街角に残るレジスタンスの悲劇の痕跡-その1
【第76回】パリの街角に残るレジスタンスの悲劇の痕跡-その2
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
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