「アウシュビッツの控えの間」といわれたドランシー強制収容所
ドランシー強制収容所跡への行き方
パリ郊外には、ユダヤ人を収容するための収容所がいくつかありましたが、1941年8月から収容所の主力となったドランシー強制収容所があります。ここでアウシュビッツなどの死の強制収容所などへ向かう絶望的な日々を送ることになります。
そのドランシー強制収容所に使われた現在でも建物が残っています。パリから北東へ10.8km先にあるドランシー市にあります。
シャルル・ド・ゴール空港とパリ市内を結ぶ、RER(高速郊外列車)青のB線沿線にあります(ZONE 3)。パリ北駅(GARE DU NORD)から4つめのドランシー(DRANCY)駅が最寄り駅になります(所要時間は15分ほど)。
ドランシーの街の中心部は、ドランシー駅から少し離れていています。駅の改札から右手に伸びる貨物の引き込み線をまたぐ鉄橋を渡り、そのままアナトール・フランス通り(Rue Anatole France)をしばらく歩くと、ショッピングモールがある街の中心部の噴水の広場に出ます。
広場に出たら、ジャン・ジョレス通りを左折してしばらく歩くと、左手にドランシー強制収容所跡が見えてきます。
ドランシー駅から広場まで徒歩で約15分、広場からドランシー強制収容所跡まで約5分。
駅からは徒歩で20~25分ほどの距離と考えていただければいいと思います。
労働者の街で観光客の姿を目にすることはほとんどありません。移民も多いということで治安の問題も指摘されていますが、昼間なら必要以上に警戒することはないのではないかと思います。
ドランシー駅前からドランシー強制収容所跡までのバスは出ていませんが、一つ前のル・ブルジェ(Le Bourget)駅前からは143番のバスで行くことができます。ドランシーの街を一人で歩くのが不安な人や冬季など寒い時期は、バスを利用した方がいいかもしれません(SQUARE DE LA LIBERATION下車、目の前がドランシー強制収容所跡)。
現在もアパートとして利用されているドランシー強制収容所
「コ」の字型を5階建てのアパートがドランシー強制収容所だった建物です。元々は低所得者向けの住宅でしたが、ナチスがそれを改装して収容所にしました。現在でも低所得者向けのアパートとして使われています。
ここで1940年から1944年まで約6万人が拘束された後、近くの駅舎から順次、ガス室がある死の強制収容所(アウシュビッツ)に送られたのです。脱走を防ぐため有刺鉄線が張り巡らされ、監視塔が設置され、警備にはフランス憲兵隊が担当していました。
生還したユダヤ人はほんの数パーセントにすぎませんでした。
中庭には、フランス国旗が掲げられるモニュメントとユダヤ人の移送に使用された同型の貨車が記念碑として、展示されています。
筆者が訪れた時は、平日、月曜の午前中ということもあり、人気もまばらでした。アパートとはいえ、住人が住んでいる気配はあまりしませんでしたが、ドランシー強制収容所を見学する地元の学校の社会見学の一団を見かけました。
この時代に関するヨーロッパの博物館や記念館で、社会見学の学生たちの姿を目にすることがあります。資料や筆記用具を持ちながら、普段の教室の授業を抜け出した解放感で、はしゃいでいるような子も目にします。自分たちの子供時代も郊外授業の社会見学は、遠足気分で高揚したものですが、悲惨な歴史の現場の見学とはいえ、子供たちにとっては、楽しいひと時なのかなと、彼らの姿を見るたびに思います。
【第77回】パリのユダヤ人強制連行と迫害の歴史。その痕跡を追う は、3ページ構成です。
「その1」から順に読んでいただくと、より楽しんでいただけると思います。
< 【第77回】パリのユダヤ人強制連行と迫害の歴史。その痕跡を追う-その1
【第77回】パリのユダヤ人強制連行と迫害の歴史。その痕跡を追う-その2
> 【第77回】パリのユダヤ人強制連行と迫害の歴史。その痕跡を追う-その3