白バラ事件が裁かれた法廷
ヴィッテルスバッハ宮殿の中にあったゲシュタポ本部での4日間の拘留、尋問が終わった後の1943年2月22日。朝からショル兄弟は車で裁判所へ連れていかれます。人民法廷が行われることになったのです。
人民法廷は、ナチス時代に設立された裁判所で、国家への反逆や売国行為に対して行われました。
冷血判事といわれたローラント・フライスラーを裁判長に迎えて、ショル兄妹の人民法廷が始まります。司法宮殿の216号室で行われました。
斬首刑の判決が下された216号室(現在の様子)
216号法廷は、現在でも残っています。ゲシュタポ本部があった場所の交差点から、マクシミリアン広場(Maximilian Square)がある通りを抜けると司法宮殿(Justizplast(Palace of Justice))の建物が見えてきます。
1897年に完成した司法宮殿の建物は、現在でもバイエルン州の地方裁判所として使われています。ゲシュタポの本部から徒歩で10分ほどの距離で、ミュンヘン中央駅からも徒歩圏内です。司法宮殿の中は無料で見学が可能で、空港のようなセキュリティーチェックを受けてから中へ入ります。
司法宮殿のホールに出る
216号室は3階の入り口から見て左側奥にあります。現在は253号室となっていて白バラホールと呼ばれる記念館になっていて、当時の様子を知ることができます。
ショル兄妹の判決
ショル兄妹たちの裁判は、午前9時に始まりました。傍聴席はナチス党関係者で満員となり、ショル兄妹と白バラグループの仲間だったクリストフ・プロープストは、直立不動のまま、裁判を受けていました。
裁判長のフライスラーは、ショル兄妹たちを愚かな犯罪人に仕立てるために、声を張り上げ、激しく席から立ちあがり、彼らを罵ります。弁護人もつけられていましたが、ショル兄妹を弁護する言動をほとんど見せませんでした。
216号室の雰囲気は緊張感で張り詰めます。
初めからこの裁判の結果はわかっていたのです。
青ざめた表情をしながらもショル兄妹たちは、堂々と自分たちの信念を貫き、フライスラーをてこずらせます。傍聴人のナチス党員にもそんな彼らの姿に同情する念をいだいる人もいたかもしれません。
フライスラーが座っていた裁判長の席 |
その前に被告として、ショル兄妹が立たされていた。 壁には白バラメンバーの写真が飾られている |
しかし、午後1時間30分頃、裁判の判決を決める審議のために、休憩が挟まれ、そしてすぐに法廷が始まり、判決が言い渡されます。
この判決を聞いた時、妹のゾフィーは終始、黙っていました。兄のハンスは妻子がいるプロープストの命だけは助けてほしいと、懇願しますが遮られます。自分たちの処遇に対しては何も言わなかったことから、彼らは初めから自分たちの運命はわかっていたのだと思います。
筆者が訪れた時は、訪問者が誰もいなかったのもあり、一見、76年前の緊張感を想像させない静かな雰囲気がありました。しかし、写真を見てもお分かりのように、決して広くない部屋からは、フライスラーの顔を凝視できた場所に立たされたショル兄妹達の恐怖、満員だった傍聴席の張り詰めた空気を想像することができます。
5時間におよぶ裁判は終了して、ショル兄妹は刑が執行されるシュターデルハイム刑務所に移送されます。
司法宮殿(Justizplast(Palace of Justice))へのアクセス
住所 :ElisenStrase 1a
死刑の執行が行われたシュターデルハイム刑務所と墓
ショル兄妹たちの死刑が執行されることとなったシュターデルハイム刑務所は、現在でもドイツ最大の刑務所です。
かつては1922年にビアホールの演説で治安を乱した罪で、ヒトラーも1ヶ月の間、服役していました。「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅7 ~ヒトラーの粛清編~」で紹介したエルンスト・レームも1934年の長いナイフの夜事件で収監され、処刑された場所でもあります。ナチス時代はシュターデルハイム刑務所で1,000人以上が処刑されたといわれています。
午後4時頃、ショル兄妹たちは、看守たちのはからいで、処刑される直前に両親と面会を許されました。ゾフィーは両親から甘いものを受け取り嬉しそうに食べます。
「いただくわ、そういえば、まだお昼を食べてなかったのよ。」
そして、ショル兄妹たちは、斬首台へと消えます。
ハンスは執行直前、「自由万歳!」と叫びます。
ゾフィー21歳、ハンス24歳、プロープスト23歳の生涯でした。
その後も白バラメンバーは、各地で100人以上が逮捕され、8人が処刑されたのです。
シュターデルハイム刑務所へは、ミュンヘン中央駅から地下鉄U2線でGiesing駅まで行き、そこからバスかトラムに乗り換えます(進行方向はGiesing駅を降りて目の前にあるシュバンセ通り(SchwanseeStrase)を左側)。
そして、トラムの終点のSchwanseeStraseで降ります(Giesing駅から10分ほど)。
目の前の交差点を渡って右側に伸びるシュターデルハイム通り(StadelheimerStrase)沿いにシュターデルハイム刑務所あります。
シュターデルハイム刑務所は、今でも現役の刑務所なので中に入ることはできませんが、刑務所内の地下倉庫には、「世界で最も秘密に閉ざされた博物館」があるそうです。そこは刑務所の職員の方々が、仕事のかたわら開設したそうで、小さな部屋に白バラ事件を含め、当時処刑された人々の所有物や処刑記録が保存されているといわれています。
シュターデルハイム刑務所の前には、墓地の入り口が見えます。その墓地はショル兄妹たち、処刑された白バラグループの墓があるパーラッハ森林墓地です。
墓地の入口を入ると管理塔があり、ショル兄妹たちの墓はさらに左奥にあります。
筆者がショル兄妹の墓を訪れた時は、老婆が水をかけていたり、お供え物を整えたりしていました。今でもショル兄妹たちの墓を訪れたりする人たちや、墓の手入れをする人たちがいるのがわかります。
ショル兄妹の両親、プロープスト、彼の母親が眠っている |
ナチスの鍵十字にバツの線を引くバッジ |
シュターデルハイム刑務所(Stadelheim Prison)へのアクセス
住 所 :StadelheimerStrase 12
パーラッハ森林墓地(Perlacher Forst Cemetery)へのアクセス
住 所 :StadelheimerStrase 24
開館時間:8:00-18:00(4月~10月 900-19:00)
ヒトラーを暗殺しようとした家具職人
ミュンヘンでは、開戦直後の1939年、ショル兄妹たちの白バラグループ以外にも、反ナチスで単独でヒトラーを暗殺しようとした人物がいました。それは家具職人、ヨハン・ゲオルク・エルザーです。エルザーのヒトラー暗殺計画については、筆者が2014年にミュンヘンを訪れたい際の記事、「ナチスが誕生した街ミュンヘンを歴史と共に歩く」を参照してください。
暗殺未遂現場である、ミュンヘン一揆の出発地点であるビュルガーブロイケラー(ビアホール。現在は「ガスタイク文化センター」)の入口には、エルザーに関する展示文(ドイツ語のみ)が掲げられています。
ミュンヘン一揆については、「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅4 ~ヒトラーの挫折編-その1~」をご参照ください。
エルザーは、その後スイスに逃亡しようとして国境で捕まります。イギリスの諜報機関の関与を疑うゲシュタポの厳しい取り調べにも、単独犯を主張。1945年4月にミュンヘン郊外の強制収容所で処刑されます。
有名なダッハウ強制収容所
エルザーが住んでいた家
ヒトラーを暗殺するための爆弾を密かに作っていたエルザー。彼が住んでいた家の建物があります。場所はナチス党関係の建物が並ぶシェリング通りと交差するテュルケン通り(Turken Strase)。道を挟んで建物の前の広場は、ゲオルク・エルザー広場と呼ばれています。
ゲオルク・エルザー広場 |
ヒトラーを暗殺するための仕掛けを作っていたエルザーの家から、ヒトラーとエヴァがデートの待ち合わせをしていた交差点はすぐそこです。さらにショル兄妹がビラを巻いて捕まったミュンヘン大学は一つ通りを挟んだ向こう側にあります。
ヒトラーとエヴァが待ち合わせしていた交差点
ヒトラーを倒すために暮らしていた人たちの痕跡と、ヒトラーのゆかりの場所の多くが徒歩圏内にあるのがミュンヘンの街なのです。
ヒトラーとエヴァがデートの待ち合わせをしていた交差点は、「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅6 ~愛人エヴァ編-その1~」でも触れています。
その後のミュンヘン
第二次世界大戦の中盤以降、南ドイツにあるミュンヘンにもイギリス本土から連合軍の爆撃機が襲い掛かります。24歳の芸術家、ヒトラーが生まれて初めてやってきたドイツの街で、彼が芸術にふさわしいと称賛したミュンヘン。そこは、終戦まで他のドイツの大都市のようにいくたびもの空襲によって、瓦礫の街と化します。
ヒトラーがナチスと出会い成長させ、ドイツを掌握するきっかけとなったミュンヘンのナチス時代の最後の姿です。ショル兄妹たちやエルザーにはミュンヘンの未来が分かっていたのかもしれません。
ヒトラーを生んだのは当時のドイツ人です。現在でも合理的な考えを持っているのがドイツ人といわれています。しかし、白バラのショル兄妹に寛大な措置をしようとしたゲシュタポや看守、ヒトラーがミュンヘン一揆で失敗して投獄されたランツベルク刑務所では、囚人だったヒトラーに感銘した看守や裁判官たちがいました。ドイツ人は合理的な考えを持ちつつも、情に流されやすい国民性があるのかもしれません。
だからこそ、ヒトラーを選んでしまった一方、ヒトラーに抵抗しようとした人たちも生まれたのかもしれません。それが凝縮されている街がミュンヘンです。
ぜひ「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅シリーズ」(「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡」の第64回~第72回)もご覧いただき、現地へ足を運んでその空気を吸っていただければ幸いです。
【第74回】ミュンヘンでヒトラーに抵抗した市民の痕跡を巡る は、3ページ構成です。
「その1」から順に読んでいただくと、より楽しんでいただけると思います。
<< 【第74回】ミュンヘンでヒトラーに抵抗した市民の痕跡を巡る その1
< 【第74回】ミュンヘンでヒトラーに抵抗した市民の痕跡を巡る その2
【第74回】ミュンヘンでヒトラーに抵抗した市民の痕跡を巡る その3
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,400円(税抜)