第二次世界大戦を導くことになってしまったミュンヘン会談
ドイツは第一次世界大戦で敗戦した際に、1919年、戦勝国と結ばれたヴェルサイユ条約によって、軍備の保持を厳しく制限されました。1920年代のワイマール共和国時代のドイツは、表向きはそれを守り、国際協調を重視しながら外交政策を進めていました。
しかし、1933年にヒトラーが率いるナチスが政権を握って以来、再軍備の準備を着々と進めていきます。一方、ヴェルサイユ条約を主導した戦勝国のイギリス、フランスはドイツに対して強く出られませんでした。
理由は主に以下の2つです。
- イギリス、フランスも戦勝国とはいえ、第一次世界大戦で国力が疲弊していた。さらに、1929年の世界大恐慌の影響を受けて、ドイツに干渉できる余裕がなかった。
- 第一次世界大戦中、革命によって初の共産主義国のソ連が誕生。反共産主義を掲げるヒトラー率いるナチス党が政権を取ったドイツを、共産主義勢力の防波堤にしたかった。
ヒトラーはその状況を利用して、着々とドイツ帝国再建へ向けて動き出します。第一次世界大戦で失った領土やドイツ系住民が住んでいる地域の割譲を要求します。
1938年、ヒトラーは自身の生まれ故郷であり、ドイツと同じゲルマン民族が住むオーストリアを併合することに成功します。
オーストリアの併合については、「オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を巡ってみる 青年時代編」をご参照ください。
その後、ヒトラーはドイツ系住民が住んでいるチェコスロバキアのスデーテンランドの併合を要求します。12世紀、当時のボヘミア国王が技術力をもったドイツ人のスデーテンランドへの入植を奨励して以来、長い間、ドイツ系住民が住んでいたからです。
ヒトラーはその状況に目を向け、スデーテンランドのナチス党を援助して独立運動を煽ります。当然、スデーテンランドを割譲すれば、国力の低下を招くチェコスロバキアは大反対しました。ヒトラーは、チェコスロバキアに対して武力をちらつかせます。
これにより、ヨーロッパに再び戦雲が立ちこめます。
しかし、もしまた戦争になれば、周辺各国も巻き込まれる可能性があります。第一次世界大戦後の傷が癒えていない国々は、新たな争いを抑えるため、チェコスロバキア問題について話し合うための場を作りました。
ドイツのミュンヘンで、ヨーロッパ主要国の首脳が集まったのです。
それが後世、第二次世界大戦の布石となったとされるミュンヘン会談です。
当時のチェコスロバキアについては、「1942年プラハ、ラインハルト・ハイドリヒ総督暗殺事件を巡る旅」編をご参照ください。
ミュンヘンのナチスの官庁街
1938年9月29日から30日にかけて、ヒトラー、イギリスのネヴィル・チェンバレン首相、フランスのエドゥアール・ダラディエ首相、イタリアのベニート・ムッソリーニ総統が、ミュンヘンに集まります。
会談が行われたのは、ケーニヒス広場に面したミュンヘンにおける総統館という建物でした。ミュンヘン中央駅の北側に、ケーニヒス広場とブリーナー通り(BriennerStraße)で結ばれているオベリスクがあるカロリーネン広場があります。この一帯は、党本部の建物など、政権を取ってからのナチスの官庁街でした。
総統館の隣には、「褐色の家」といわれたナチスの党本部がありました。1930年、シェリング街にあった党本部を移転させたものです。
シェリング通りの党本部は、「ミュンヘンでヒトラーの面影を追う旅6 ~愛人エヴァ編~」をご参照ください。
第二次世界大戦の原因となった会談
1938年9月29日、4人の首脳が集まり会談が始まります。主導権を握ったのは4ヶ国語を話せるムッソリーニでした。この日の午後に始まった会談は昼食と夕食の休憩を2回挟んで、日付がまわった午前の1時30分、スデーテンランドのドイツへの割譲が認められた協定が結ばれます。
ダラダラと会談が続けられましたが、ムッソリーニが提案したチェコスロバキアがスデーテンランドから段階的に撤退するという案に合意しただけでした。チェンバレンもダラディエもチェコスロバキアを本気で守る気持ちがなかったのです。
暖炉の前で4人の首脳達が並んで取られた写真は、ミュンヘン会談の象徴の写真として有名です。
午前2時過ぎ、チェンバレンとダラディエは、会談の最中、部屋の外で待たされたチェコスロバキアの代表2人にその内容を伝えるという嫌な仕事が残っていました。協定内容の写しを彼らに見せたのです。2人は涙を流すのに対し、ダラディエは大きなあくびをしていたといわれています。
チェコスロバキアは会談の当事者にも関わらず、会談に参加できなかったのは、当時は大国が国際社会の外交をリードしていたことを意味しています。第一次世界大戦後に結ばれたヴェルサイユ条約での民族自決の原則により、独立を果たしたチェコスロバキアとはいえ、当時の新興国の立場はその程度だったのです。
住所:
ArcissStraße 12
そして、第二次世界大戦へ
チェンバレンとダラディエは本国に帰国。新たな争いを防いだとして、ヨーロッパの平和の使者として、国民に熱狂的に迎えられます。
しかし、スデーテンランドをドイツのものとすることが、ヒトラーによる最後の要求ではありませんでした。その後、チェコスロバキアからスロバキアを独立させ保護国にし、それに乗じてチェコ本国も併合してしまいます。チェコスロバキア全土が事実上のドイツの領土となってしまいました。
さらにヒトラーは、ミュンヘン会談でイギリス、フランスの弱腰に味をしめて、ドイツ系住民が住むポーランドのダンツィヒ(現在のグダンスク)の返還を要求します。さすがにイギリスもフランスも、もう騙されるわけにはいきませんでした。そうして、第二次世界大戦が始まってしまったのです。
ダンツィヒについては「第二次世界大戦の火ぶたが切られた街、ポーランドのグダンスクを歩く」編をご参照ください。
争いを収めるはずのミュンヘン会談のイギリス、フランスの譲歩こそが、ドイツを勢いづかせる結果となり、さらには第二次世界大戦を引き起こした遠因にもなったともいえます。
歴史に深く関わった建物の、現在の姿
ナチスの党本部だった「褐色の家」
現在は褐色の家があった場所には、「NS文書センター」というナチス時代の歴史を展示する資料館になっています(2015年に開館)。この資料館では、第一次世界大戦後からナチスが政権を取るまでのワイマール時代、ナチス政権下の時代、戦後から現在まで、と3つの時代のミュンヘンをテーマに歴史の継続がわかるようになっています。
住所:
Max-Manheimer-platz 1
NS文書センターの公式サイト
http://www.inside-munich.com/ns-documentation-center.html
ミュンヘン会談が行われた部屋
総統館といわれた建物は現在、音楽大学の建物として利用されています。本来は部外者の立ち入りは禁止ですが、警備の方のはからいで、筆者は建物の中に入り、ミュンヘン会談が行われた部屋の鍵を開けていただき、見せてもらうことができました。
部屋は入口上にある2階の真ん中です。
窓からはケーニヒス広場を見渡すことができます。
当時は観葉植物の絵が至る所に飾られ、大理石の暖炉の上にはかつてのドイツの宰相、ビスマルクの肖像画が飾られていました。
現在では、音楽大学らしくピアノが2台置いてあり、仮設の椅子やテーブルも備えられて教室として使われているようです。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,400円(税抜)