ヴェルダンの戦いまでの経緯
20世紀初め、バルカン半島のサラエボ事件を引き金に勃発した第一次世界大戦は、ヨーロッパを大惨禍に招きます。
詳しくは「第一次世界大戦の引き金となった、サラエボ事件を探る旅」編をご参照ください)
20世紀の科学技術の進歩により、何百万人もの死傷者を出してしまいます。
「戦争を終わらせる戦争」と言われるほどの大戦争となってしまいました。
第一次世界大戦の中で最大の激戦地と言われるのがヴェルダンの戦いです。
それまでの経緯を振り返ってみます。
シェリーフェン計画
第一次世界大戦が開始された当初、ドイツ軍は、西をフランス、東をロシアに挟まれていたため、二正面作戦を強いられます。
そのため、ドイツ軍参謀は、兵力の70%を西に、30%を東に置く計画を立てます。
ロシアは戦争準備にもたつくだろうから、 まず西側に主力兵力を置き、6週間ほどの短期決戦でフランスを叩いて、その後、西側の兵力をロシア側に向かわせる、という作戦でした。これが有名なドイツ軍の「シェリーフェン計画」です。
ドイツ軍は戦争開始と共にベルギーの平原、フランドル地方へ進入し、パリから50キロの地点まで到達します。しかし、フランスのマルヌの会戦でフランス軍に敗れてしまいます。それによって、短期決戦でフランスを片付けることは不可能となり、シェリーフェン計画は頓挫してしまいます。
塹壕戦
ドイツ軍のシェリーフェン計画が失敗に終わると、戦線が硬直化しフランスとドイツ国境付近は、北は北海から、南はスイス国境まで、塹壕が掘られます。その距離は約600キロ、東京~岡山間に相当しました。
その後、戦争はこの「塹壕戦」が基本となります。
塹壕線は、守り中心の膠着した戦いとなり、中々決着がつきませんでした。
両軍、無駄に戦死傷者が増えていき、戦場は累々たる屍で埋め尽くされてしまいます。
その数ある激戦地の中で、一番多くの戦死傷者を出したのが、フランスのロレーヌ地方での「ヴェルダンの戦い」(1916年2月~12月)です。
戦死者は両軍合わせて、70万、100万人にも上ると言われた戦いです。
ヴェルダンが激戦地となった経緯
(1)ドイツ側の事情
ヴェルダン付近でのフランス側の塹壕線が∩上に突出していました。そのため、ドイツ側は包囲ができるので攻撃しやすい。
(2)フランス側の事情
ヴェルダンは「パリの玄関口」と言われていました。攻略されたらパリまで遮るものがないので、なんとしても死守しなければならない。(3)ドイツ、フランス側双方の共通事情
ヴェルダンという地名は、第一次世界大戦の激戦地以外にも「843年 ヴェルダン条約が結ばれた場所」と、世界史の教科書に記載があります。
中世ヨーロッパを支配していたフランク王国が分裂して、ヴェルダンで条約が結ばれました。その結果、東フランク(ドイツ)と西フランク(フランス)に別れることになります。これがドイツとフランスのはじまりです。
その後、ヴェルダンは、領土争いでドイツ領やフランス領になる歴史を繰り返してきたので、両国民の関心が高い街でした。
歴史的な由緒を考えてもヴェルダンは 両国とも譲れない場所だったのです。
戦間期、第二次世界大戦での独仏国境については、「【第39回】ドイツ軍に敗れたフランスが誇る難攻不落の要塞、マジノ線」をご参照ください。
どうやって行く?ヴェルダンまでの行き方
ヴェルダンから一番近い主要都市は、ロレーヌ地方の中心都市メッスになります。
パリからメッスまでTGVで1時間半ほどかかります。ヴェルダンはそのメッスからローカル線かバスで1時間半ほどの場所にあります。
ロレーヌ地方の鉄道のローカル線は本数が少ないので、季節や時間帯によってはバスが代行運転しています(メッス~ヴェルダン間の片道のバス代は9ユーロです)。
また、パリからヴェルダンへのアクセスはよくないので、パリから日帰りで訪れることはあまりオススメできません。
日帰りで訪れる場合は、メッス、もしくはメッスから列車で50分ほどで着くルクセンブルグを拠点にすると良いと思います。
ヴェルダンのツーリストインフォメーション
ヴェルダンは中世の面影が残る小さな街のため、1時間もあれば徒歩で中心部を周ることができます。
フランス国鉄のヴェルダンの駅前には、大型のショッピングモールがあり、地元の買い物客で賑わっています。いまや地方の街にショッピングモールができているのは、日本をはじめ世界的なトレンドとなりました。
駅から真っ直ぐ歩くとムーズ川に着きます。そのムーズ川の両側が、街の中心部となります。
ムーズ川を渡ると、ツーリストインフォメーションと戦死者記念公園があります。その戦死者記念公園の前には5人の兵士の像があります。
ツーリストインフォメーションは観光パンフレットや古戦場の地図が充実していて、職員の方も親切に観光の相談に乗ってくれます。
「ON NE PASS PAS(ここは通れない)」を合言葉に、ペタンは攻撃より守りを得意とする軍人でした。
ペタン将軍の前にある5人の兵士の像はその「ON NE PASS PAS」を表現しています。それは、ヴェルダンが守りによって、陥落しなかったことを意味しています。
ペタンは、敵が突破してきた時に、わざと自軍を退却させ敵を充分に引き付けておいて、両脇から一気に攻撃をする縦深陣地戦術を取りました。
当初、フランスは守りに入らないで、攻撃に出る戦術を取り、苦戦していました。
ペタンの守りの戦術によってヴェルダンを防衛することに成功したのです。
攻撃よりも守りに入ったほうが、敵に損害を与えることができるというのが当時の戦争の常識でした。
しかし、英雄ペタンは20年後の第二次世界大戦では、売国野郎として、死刑判決(後に終身刑)を受けてしまいます。
第ニ次世界大戦でも再び、ペタンが司令官に任命され、ナチスドイツに立ち向かいます。しかし、時代は日進月歩進んでいました。
先の世界大戦と同じ戦術で戦ったために、ナチスドイツによる戦闘機と戦車が一体となった攻撃型の電撃戦に対して、フランスは有効な対策を立てることができず、降伏してしまいます。
その後、ペタンは、ナチスドイツによって樹立された新生フランス政府(ヴィシー政府)の首相に任命されます。
ヴィシー政府は、国体こそ独立国家で中立を守っていましたが、実質はナチスドイツに協力する傀儡政府でした。
戦時中、ナチスドイツと戦うためにロンドンに亡命して、レジスタンス組織「自由フランス」を創設したド・ゴール将軍によって、戦後、裏切り者として、死刑判決を受けることになるのです。
しかし、最近のフランスではヴィシー政府を再評価する傾向があるようです。
表向きはナチスドイツに協力しながら、上手く中立を守り、破壊が免れたおかげで、戦後のフランス社会の基盤ができたという見方もあるようです。
ヴェルダンの街にペタンの像があることは、ヴェルダンの戦いの英雄だからなのか、 もしくは、近年のヴィシー政府を再評価する動きによって、建てられたものなのかを考えさせられます。
第二次世界大戦、ペタン元帥によるヴィシーフランスの首都、ヴィシーを巡った記事になります。ぜひご参照ください。
「【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その1」
郊外のレジスタンスの墓をヴィシーから歩いて行ってきました。
「【第78回】ヒトラーに協力したヴィシーフランスの首都、ヴィシー-その2」
1940年10月、ヒトラーとペタンが初めて会談したモントワール駅について。
「【第79回】ヒトラーに対独協力の誓いをした駅舎跡とモントワール精神」
【第14回】昭和天皇も訪れた第一次世界大戦の激戦地「ヴェルダン」-その1
> 【第14回】昭和天皇も訪れた第一次世界大戦の激戦地「ヴェルダン」-その2