スターリングラードの戦いまで
どこにある?スターリングラード
スターリングラードは、現代では「ヴォルゴグラード」という地名に改名されています。
ヴォルゴグラードは、ロシアの首都、モスクワから飛行機を使って南へ約2時間ほどの場所にあります。ヴォルゴグラードはカスピ海へ流れ出るヴォルガ川の沿岸にある街です。
日本から行く最短ルートは、アエロフロートロシア航空でモスクワまで行き、ヴォルゴグラード行きの国内線に乗り換えます。毎日1便、成田空港からお昼前後に出発して、現地時間の夕方前にはモスクワに着きます。モスクワからヴォルゴグラードへは、毎日4-6便のフライトがありますので、日本を出たその日に着くことも可能です。
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スターリングラードの歴史
ヴォルゴグラードの街が歴史上に登場するのは、16世紀のことです。当時の帝政ロシアが1589年に街を建設して、ツァーリツィンと呼ばれました。ヴォルガ川の婉曲部に位置するために、交通の要所として栄え、周辺民族の間で争いの対象となってきました。
ツァーリツィンは第1次世界大戦後のロシア共産主義革命で、帝政支持派(白軍)と革命派(赤軍)の争いの舞台となります。その時の赤軍の司令官が若き頃のスターリンでした。1920年革命派がツァーリツィンを解放し、1925年のソ連時代に「スターリングラード」と改名されました。さらに工業都市として整備され、第2次世界大戦では大激戦地となります。戦後、1956年のフルシチョフの「スターリン批判演説」を機に、ヴォルゴグラードと改名され今に至ります。
- 1589年(帝政ロシア時代) ツァーリツィンとして街の歴史が始まる
- 1920年(ソ連時代) スターリングラードに改名
- 1956年(ソ連時代) ヴォルゴグラードに改名 現在に至る
第2次世界大戦において、戦局の転換期として「スターリングラードの戦い」は、世界中に知られことになります。日本の世界史の教科書の本文にも太字で登場するほどの地名です。
なぜ?ロシア南部のスターリングラードの戦いが、歴史に残る戦いになったのでしょうか?
ドイツ軍の青(ブラウ)作戦とは?
第2次世界大戦中の1941年6月22日、ドイツ軍が独ソ不可侵条約を破棄してソ連へ侵攻を開始します(詳しくは、独ソ戦が始まった日から激戦地になった、ベラルーシのブレスト要塞 編)。
当初、破竹の勢いで進撃していたドイツ軍ですが、ロシアの一足早い積雪、ソ連軍の抵抗に遭い12月には手前まで迫りながらモスクワ攻略に失敗します。
ドイツ軍は雪解けを待って冬篭りをしなくてはならなくなりました。また、モスクワ攻撃が頓挫したほぼ同時期、太平洋では、日本軍による真珠湾攻撃によって日本とアメリカと開戦、アメリカ軍もヨーロッパ戦線に参戦することになりました。そのため、ドイツは短期で戦争を終わらせる見込みがなくなり、長期戦に備える必要がありました。
そこでドイツ軍は1942年夏以降の青(ブラウ)作戦を立案します。
目的は、ロシア南部のカフカス地方のグロズヌイ(現チェチェン共和国)、バグー(現アゼルバイジャン)の石油産出地帯を制圧し、長期戦に備えることでした。
独ソ戦は、首都のモスクワ攻撃という政治的側面より、経済的側面が強くなっていきます。
ドイツ南方軍集団を、A軍集団とB軍集団にわけます。
カフカス地方へ直接進撃するA軍集団。
A軍集団の進撃を援護するために、カフカス地方の北部を流れるドン川周辺のソ連軍を包囲するB軍集団。
対するソ連軍は、戦略的に撤退してドイツ軍を徐々に広大な領土の奥地に引きずり込んでいきます。ドイツ軍のA軍集団は、マイコプなど一部の油田地帯を占領することに成功します。しかし、ソ連軍の温存した兵力の抵抗や、ドイツ本国から2000キロ以上も離れた伸びきった戦線は限界に達し、グロズヌイ、バグーには到達できませんでした。青作戦の目的は失敗します。
青作戦の失敗は、ヒトラーの威信が大きく低下することを意味していました。ヒトラーは、当初の石油油田を奪取の失敗を埋め合わせる代替として、B軍集団の行く手に横たわるスターリングラードという都市に注目します。
スターリングラードはドン側の西岸にあり、ロシア人が母なる大河として愛しているヴォルガ川の湖畔にあります。また、ソ連の最高指導者の名を冠した都市を占領することで、政治的な面目は保たれるとヒトラーは考えたのでした。
その一方で、撤退していたソ連軍の兵力もスターリングラードに集結していたのでした。
1942年9月13日 ドイツ軍総攻撃開始
1942年8月下旬からドイツ空軍の爆撃によって、スターリングラードの街は廃墟同然となっていました。スターリングラードの街は、ママエフの丘を境に北部の工業地帯と南部の商業地帯に分けられます。最初の戦闘の舞台になったのは駅、フェリーターミナルなどがある南部の商業地帯でした。
スターリングラード市街戦は、パウルスを司令官とするドイツ軍の第6軍と、チェイコフを司令官とするソ連軍の第62軍の戦いとなりました。
最初の激戦の舞台、第1停車場(ヴォルゴグラード中央駅)
スターリングラードへのドイツ軍の地上部隊の総攻撃が始まった時、ヴォルガ河の対岸から、ソ連軍の増援部隊が到着する船乗り場からも近い第1停車場が戦いの焦点となります。第1停車場は街の中心部にある鉄道の駅であり、現在ではヴォルゴグラード中央駅となっています。
9月14日の早朝から18日まで激しい戦いが行われます。当時、駅周辺は引込み線が何本も走る平坦な地形でした。一旦奪取しても保持し続けるのが難しく、5日間で15回も両軍で奪い合うことになりました。戦車20両を投入するなどして9月18日にドイツ軍の支配下になりました。
現代でも中央駅として街の中心部にある旧第1停車場、当時のように引込み線はあまりありません。2013年12月には駅前で自爆テロがあり、16名が死亡する大惨事もありました。駅構内は切符を持った乗客しか入ることができず、乗客にも空港のような金属探査によるボディチェックが行われます。
駅舎の上部両側には「1918」「1943」という文字が彫られています。
これは共産主義革命が達成された1918年、スターリングラードの戦いに勝利した1943年を記念していることになります。
駅周辺は共産主義通りという名の広場になっていて、長距離バスのチケットオフィスやタクシーの客引きの姿が多く見られます。しかし、他のヨーロッパの大都市のように中央駅を降りたら、街の活気が溢れているといったような感じはあまりしません。
ソ連軍の増援部隊が届けられた船乗り場(フェリーターミナル)
中央駅からヴォルガ川までは約800メートル。その船乗り場では、対岸のクラスナヤ・スロボダから続々とソ連軍の増援部隊が送られてきていました。中央駅を占領したドイツ軍は、機関銃を駅周辺に配備して、船乗り場が射程圏内になり砲火を浴びせます。機関銃、ドイツ空軍の執拗な輸送船への攻撃に損害を出しながら、兵士と物資をスターリングラードへ運んだのでした。
駅を出て右側にある通りを歩くと、戦没兵士広場(旧赤の広場)に出ます。戦没兵士広場にあるオベリスクは、1918年の共産主義革命の時に命を落とした兵士のために建てられたものです。
そしてヴォルゴグラードの目抜き通り、レーニン通りを横切り、真っ直ぐ進むとヴォルガ川に続く神殿のような階段があります。その階段を降りた川沿いの通りは戦いにちなんだ第62軍記念河通りと名付けられ、遊歩道となり市民の憩い場となっています。
現在の船乗り場はフェリーターミナルとして、ヴォルガ川クルーズや周辺のショートクルーズの船の発着の場所となっています。クルーズというと華やかなイメージになるかもしれませんが、駅前同様それほど賑わっている感じもしません。売店やレストランも数件ありますが、海水の匂いとゴミのような匂いが混ざり合い、あまり長居していたくない雰囲気です。
フェリーターミナルから右手に進むと、当時の輸送船、ガシーテリ号(鎮圧号)の記念碑があります。
「スターリングラードの戦い中、危険を冒してまで輸送に従事していた船員を記念する」
と記されています。
船乗り場は、ソ連軍の必死の抵抗にも関らず、第1停車場がドイツ軍に占領された4日後の9月22日、ドイツ軍に占領されてしまいます。しかしその間、対岸から多くの増援部隊、補給物資が届けられ、その後のソ連軍の抵抗の石杖となるのでした。
スターリングラードの戦いは第2幕に移ります。