ヒトラーがいた時代のミュンヘン
ミュンヘンは南ドイツのバイエルン州の州都です。
ドイツは1871年にドイツ帝国として統一されるまで、各地域の諸邦(自治権を得た君主を中心とした国家)の集まりでした。ミュンヘンはヴィッテルスバッハ家バイエルン王国の王城の地として、12世紀中頃からの歴史があります。ハプスブルク家やホーエンツォレルン家には、政治や経済力で劣るものの、芸術の都として花が開きました。現在でもミュンヘンには、多くの美術館や劇場があります。
1918年、ドイツが第一次世界大戦で敗戦。中央政府があるベルリンでは、皇帝のヴィルヘルム2世が退位します。ミュンヘンでは共産主義者でユダヤ人のクルト・アイスナーが革命を起こして、最後の君主、ルートヴィヒ3世は逃亡。ヴィッテルスバッハ家は終焉、バイエルンは自由州となりました。
アイスナーを首班とする臨時革命政府は、ソ連型の土地改革計画を進めていました。つまり、社会、経済より芸術に労力を費やしたヴィッテルスバッハ家時代からの、バイエルンが抱える社会問題を解決するものではありません。
バイエルンの州都・ミュンヘンの政治が混迷の度合いを深める中、アイスナーは暗殺され、ミュンヘンは飢餓や殺人などの無法地帯と化します。その反動で反ユダヤ主義、反共産主義の牙城になり、右翼的な民族主義、国家主義の政党が沸いて出るように誕生していました。
その中の一つがドイツ労働者党、のちにナチスと呼ばれる政党です。
1918年のドイツについては「両大戦の転機となった軍港キールで、水兵が蜂起した痕跡を巡る」編も参照してみてください。
ヒトラーがナチスと出会うまでの痕跡
ミュンヘン、ドイツと出会った24歳のヒトラー
ヒトラーが生れて初めてミュンヘン中央駅に降り立ったのは、第一次世界大戦が始まる1年前の1913年5月でした。
ヒトラーがウィーンからミュンヘンへ移住してき理由は、オーストリアでの徴兵を逃れるためであるといわれていますが、画家という触れ込みでやってきて警察にも画家として登録しています。
ウィーン時代は、「オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 青年時代編」を参照ください。
画家、ヒトラーは着いた瞬間からヴィッテルスバッハ家によって芸術の街となったミュンヘンに対して、愛情を感じます。初めてのミュンヘン、そして後に運命を共にするドイツとの出会いでした。
ヒトラーがミュンヘンで初めて下宿した家
ミュンヘンにやって来たヒトラーは、ミュンヘン中央駅の北側にあるシュライスハイマー通り(Schleisheimer Strase)の オーゼフ・ポップの仕立屋に辿り着きました。
「家具付き、貸し部屋、紳士に限る」という手書きの張り紙を見つけて、3階に部屋を借ります(日本風にいえば4階。ドイツでは日本の1階は「地上階」と表し、2階を1階と表現)。そこでヒトラーは自分の絵を売ったりして、生計を立てて暮らしました。
その建物が現存しています。
ミュンヘン中央駅から徒歩で15分くらい。ミュンヘン中央駅に降り立ったヒトラーが、ポップの仕立屋にどのようにして辿り着いたかはわかりませんが、ミュンヘンの街並みを感じながら駅から歩いてみましょう。
現在地上階のフロアーは、子供服を売るお店となっています。偶然かもしれませんが、昔と同じ洋服の仕立て関係のお店が入っているのが面白いです。
「オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 青年時代編」でも紹介しましたが、100年以上経った今でも、ヒトラーが入所していた施設は営業中です。昔のものでも使えるものはそのまま使うヨーロッパの文化。それが現在でも歴史ある街並みが多く残っている所以かもしれません。
ヒトラーの足跡を巡っていても、ヨーロッパの街並みの歴史を感じることができます。
住所:Schleisheimer Strase 34
兵役逃れで捕まるヒトラー、そして第一次世界大戦
1914年1月、シュライスハイマー通りの家の部屋を威圧的なノックをする人が現れます。ドアの外に立っていたのはミュンヘン警察でした。徴兵検査逃れの容疑で、オーストリアの警察から捜査の手がおよんだのです。
ミュンヘン警察に連行され、オーストリア領事館に連行されます。オーストリアのザルツブルグで兵役検査を受けますが、衰弱していた健康状態でヒトラーは不合格。ミュンヘンに戻り絵を売る、細々とした生活を続けます。それ以外は図書館で本を読んだり、カフェに行って議論に加わったりなどして過ごしていました。
同年6月28日、ヒトラーの人生を変える出来事が起こります。この日、部屋から路上が賑わっているのを見たヒトラーは、階段を下りていくと、家主のポップ夫人が叫びました。
「オーストリア皇太子が殺されたのよ!」
サラエボ事件が発生したのでした。第一次世界大戦の勃発です。
1914年8月1日、ドイツは総動員令を発令して開戦します。
開戦のニュースを聞いたヒトラーは、
「私は狂喜と感激に圧倒されて地にひれ伏し・・・・・」
と後世、語っています。
ヒトラーはオーストリア人でしたが、幼少の頃から同じゲルマン民族として、ドイツの民族主義にあこがれていました。その理由は、ヒトラーに厳しかった父親が、熱心なオーストリアのハプスブルク家の熱心な支持者だった反動ともいわれています。そのためヒトラーは、夢見ていたドイツ大帝国が実現できるとして、熱狂したのでした。
後年、ヒトラーがドイツで政権を握ってオーストリアを併合して凱旋した時については、「オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 青年時代編」を参照してください。
開戦に熱狂した群衆がオデオン広場に繰り出します。その中にいたヒトラーが偶然撮影された写真が残っています。
ヒトラーはドイツと同盟国として戦う生まれ故郷のオーストリアの軍隊に入るのを拒否して、ドイツ軍の第一バイエルン歩兵連隊に入隊します。
その際、家主のポップ夫妻に、戦死した場合は妹に知らせて遺産を渡してほしい、妹が拒否したらポップ夫妻に受け取ってもらいたいという遺言を残して、ミュンヘンを去り戦場へ向かったのです。
同シリーズが「ヒトラー 野望の地図帳」として書籍化
同シリーズが書籍化され、各書店の歴史の棚の世界史やドイツ史のコーナーに置かれています。web記事とは違う語り口で執筆していて、読者の方々からは、時代背景が簡潔でわかりやすい、学者とは違うテイストが新鮮、という感想をいただいております。
歴史好きはもちろん、ちょっとマニアックなヨーロッパ旅行をしたい方々の旅のお供になる本です。
著者名:サカイ ヒロマル
出版社:電波社
価格 :1,400円(税抜)