ウィーンで画家を目指していた青年時代
ヒトラーの少年時代は、オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 少年時代編
ヒトラーが18歳になった1908年、リンツを出てウィーンに上京してきました。
ヒトラーは画家になるために、ウィーン造形美術アカデミーを2回受験しますが、2回とも不合格になります。その間、母親の遺産も底を尽き、浮浪者同様の生活で下宿先を点々とします。その一方で、ヒトラーはウィーン中を歩き、建築物の絵を書いて、収入を得ることもありました。進学先、就職先も決まらないまま、時々、アルバイトで小遣い稼ぎという、今の日本で言うと、ニートのような生活をウィーンでしていたのです。
ウィーンの観光地は、かつて城壁があったリンク沿いと外に別れます。ヒトラーの痕跡もリンク内と外にあります。
ウィーンのヒトラー散策のルートは「第一次世界大戦の引き金となったサラエボ事件を巡る旅」編も参考にしてみてください。
観光客が訪れるリンク沿いには、青年時代、総統時代とヒトラーと関わりがあった場所が4ヶ所あります。4ヶ所を巡っても徒歩で20分以内なので、一気に見てしまった方がよいでしょう。総統時代の場所は後で紹介します。
時々訪れた国立オペラ座
まず、リンク沿いの観光の拠点となるのが、ヨーロッパの三大オペラ劇場の一つ、国立オペラ座。ウィーンを訪れた観光客が必ず目にする建物です。ヒトラーも時々、オペラ座を訪れてオペラを鑑賞していたと言われています。
ちなみにヒトラーとは関係ありませんが、第二次世界大戦中、駐独大使だった大島浩は、真珠湾攻撃の時、モーツァルトの記念音楽祭に招待され夫妻で国立オペラ座にいました。
鑑賞中に真珠湾攻撃の報を聞いて、すぐさまベルリンに戻ったのです。
大島大使は「ベルリンに残るナチス時代の遺産と日本」編を参照
国立オペラ座2度受験に失敗したウィーン美術アカデミー
ヒトラーが受験に失敗したウィーン造形美術アカデミーの建物は、学校ではなく造形美術アカデミー絵画ギャラリーという美術館になっています。美術館は国立オペラ座から歩いて数分の場所リンク沿いの外側にあります。建物は当時の雰囲気を残していて、美術に興味があれば中に入ってみると良いかもしれません。最大の見ものは、奇才ボッシュの「最後の審判」。これを観るために訪れる人もいるようです。
ウィーン美術アカデミーウィーンのリンク外にあるヒトラーが住んでいた家
リンクの外にあるヒトラーが住んでいた家に足を運ぶその前に、ヨーロッパの大都市を観光する場合、地下鉄、トラム、近郊列車、バスが乗り放題の1日乗車券を買うのをオススメします。
ウィーンの場合、ウィーン24時間フリーパスが1日乗車券になります。7.6ユーロ、日本円で1000円くらいです。切符を買う手間、慣れない街での乗り間違えを考えたら、絶対におトクです。検札も頻繁にありますので、最初に乗る前に時間を刻印するのを忘れずに。
これから紹介するヒトラーが住んでいた家は、全て地下鉄のU6沿線にあります。 半日もあれば周れると思います。
ウィーンの地下鉄内の路線図ウィーンに上京して初めて下宿したアパート
リンツから一緒に上京してきた親友のグビツェクと共に住んでいたアパートが、ウィーン西駅の近くにあります。
ウィーン西駅は、かつてウィーンを発着する国際列車の玄関口でした。2014年に完成したウィーン中央駅にその役目を譲っています。ウィーン西駅へは、地下鉄のU2とU1を乗り継いで行けば着きます。ウィーン西駅は止め式の駅で、ウィーン西駅の正面を出た場所が地下鉄の入口です。
そこを出発地点にしましょう。地下鉄駅を正面に見て、左手に進むと線路と平行して走っていたマリアフィルファー通り(MARIAHILFER Straβe)を左側に進みます。最初の交差点の右側は、シュトゥンパーガッセ通り(STUMPERGASSE)になり、そこにヒトラーが下宿していたアパートがあります。
シュトゥンパーガッセ通りシュトゥンパーガッセ通りは若干の下り坂になっていて、両サイドには路上駐車されている車が並びます。ターミナル駅が近いとはいえ、昼間でも人通りは少ないです。両サイドには、アジアエスニックの料理屋が目立ち、日本語らしき表記もあります。ヒトラーが下宿していたアパートの住所は、「STUMPERGASSE 31」です。番地の表札を順々に見ていけば右側にあります。リンツの家と同じく、4階建ての建物で、1階はワインショップとなっていますが、他のフロアには人気がありません。ちなみに目の前は美容院です。
ヒトラーのウィーンでの最初の下宿先 その下宿先の前にある美容院この建物の一室で、親友のグビツェクは音楽の世界で実力を伸ばしていく一方、ヒトラーは受験に立て続けに失敗して、嫉妬と自己嫌悪に陥っていたのでしょう。 ウィーン西駅はシェーンブルン宮殿も近いので、帰りにでもヒトラーの下宿にフラッと立ち寄るのもいかがでしょうか?
住所:STUMPERGASSE 31
お金が底をつき、収容されていた浮浪者収容施設
名声を上げるグビツェクに嫌気がさしたヒトラーは、シュトゥンパーガッセ通りの下宿先を飛び出し、住まいを転々と変えます。ヒトラーは、まともに働くこともなかったので、ついに母親の遺産を食いつぶし、国立浮浪者収容施設に入ることになりました。
その浮浪者施設は、地下鉄U6のウィーン西駅から4つ目のウィーンマイドリング駅(WIEN MEIDOLING)が最寄り駅です。駅を出て左側のウンダーマイドリング通り(UNTER MEIDLINGER Straβe)を進みます。
ウンダーマイドリング通りウンダーマイドリング通りは左手に墓地、右手に5階建ての建物が続きます。駅から10分弱ほど歩くと、墓地が終わった所の右手が、ヒトラーが収容されていた国立浮浪者施設です。クリーム色の一見学校のような4階建ての建物は、ヒトラーが収容されて100年以上経った現代でも、浮浪者を収容する施設となっています。入口の門柱には、「キリスト教隣人愛による寝る場所がない人の宿」と記されています。利用時間は「平日は18時から8時、土日は18時から9時」となっていて、夜間だけ浮浪者を収容しているようです。駅前には浮浪者の姿もあり、彼らは夜になるとこの建物に中に入っていくのでしょうか。
マイドリングの浮浪者施設 浮浪者施設の前の墓地このマイドリングの浮浪者施設で、ヒトラーは銅版画師のラインハルト・ハニッシュと出会います。ハニッシュはヒトラーに商売を持ちかけます。その商売とは、ヒトラーが絵を描き、ハニッシュが絵を売り、売り上げを2等分するというもの。ヒトラーの絵は売れて、生活は向上し、浮浪者施設を出ることができます。しかし、ハニッシュが売り上げをごまかし、ヒトラーは裁判所に訴えて、喧嘩別れになります。
住所:UNTER MEIDLINGER Straβe 63
ウィーンで最後に過ごした独身男性寮
ヒトラーは絵で生計を立てることができるようになって、高級な独身男性寮に引っ越すことになります。
マイドリング駅から再び地下鉄U6線で、ウィーン西駅に戻る方面の列車に乗ります。 マイドリング駅から14つ目のドレスナー通り駅(DRESDNER STR)が最寄り駅になります(所要時30分ほど)。U6線は地下鉄と行っても地上に出ていることが多く、リンク外の街のウィーンの下町風景を眺めることができます。SPITTELAU駅を通過する時には、建築家フンダートヴァッサーの作品である強烈な色彩のごみ焼却場も目に入ってきます。
ごみ焼却場ドレスナー駅の出入り口は2つあります。マイドリング方面から来て進行方向の出入り口がヒトラーが住んでいた独身寮に近いです。その出入り口を出て、マイドリング側に進んで、最初の右側の曲がり角の道が、独身男性寮があるメンナーハイム通り(MELDENMANN Straβe)で、そこを進むと右手に見えてきます。
メンナーハイム通りヒトラーは20歳の1910年から1913年まで約3年間、この独身男性寮に住むことになります。
読書室、休憩室、暖房を兼ね備えた当時の近代的なアパートで、ヒトラーは読書室で読書したり、絵を描いて過ごしていました。今でもモダンで頑丈な造りで、アパートとなっています。
このような高級な独身寮に住めたのは、ハニッシュに売り上げを誤魔化された経緯はあったものの、ヒトラーの絵がそれなりに売れたからこそ、住むことができたと言えます。受験に失敗したウィーン造形美術アカデミーは、当時、入学するのが超難関でした。だから、入学できなかったからといってヒトラーの芸術的能力が低かったとは言えないのです。ヒトラーは建築の絵が得意で、ウィーン造形美術アカデミーの受験でも、建築の分野に適正があると講評されています。
独身寮 劇画「ヒットラー」にも登場この建物の前は、大学の学食となっていて、平日のお昼時ならランチタイムになっています。窓側の席に座り、約100年以上前、青年時代のヒトラーが絵を描いていた旧男性独身寮を見ながら、ランチするのも良いと思います。学食なのにビールも売っています。
学食ウィーンでは、20世紀前後、建築家オットー・ヴァーグナーらによって建築された建物が現役の集合住宅、施設として使われています。そして、ヒトラーが住んでいたアパートの建物が残っていたり、浮浪者施設が今でも現役であったりします。20世紀初頭にヒトラーが暮らしていたウィーンの痕跡を現代でもリアルに体感することができるのです。
ヒトラーはこの男性独身寮を最後にウィーンを去り、ミュンヘンに移住します。 その翌年、第一次世界大戦が勃発。ヒトラーはオーストリア人であるにも関らず、ドイツ軍に志願して、出征していきます。
住所:MELDENMANN Straβe 27
1938年、征服者としてオーストリアへ凱旋
浮浪者も経験したウィーンを去ってから35年後の1938年、ヒトラーはドイツの頂点に立つ総統として、オーストリアへ凱旋しました。祖国オーストリアをドイツへ併合することに成功し、ヒトラーは、ブラウナウ、リンツ、ウィーンとかつて少年、青年時代を過ごした地に足を踏み込んだのです。
1938年3月12日の午前、ミュンヘンから車でオーストリアに入り、午後にブラウナウ、夕方にリンツに入ります。
ブラウナウとリンツの市庁舎のバルコニーで演説
生まれ故郷のブラウナウに入り、大歓迎を受けた後、午後7時に少年時代を過ごしたリンツに入りました。リンツのハウプト広場には興奮する10万人が出迎え、市庁舎の2階のバルコニーから演説します。
「リンツのみなさん!私はオーストリアに帰ってきました。数百年に渡って引き裂かれていた2つの民族は、運命を乗り越えて一つに結ばれたのです。」
ヒトラーは感激のあまり、リンツの夜は泣き明かしていたと言われています。翌日、リンツ郊外のレオディングの両親の墓を参拝します。その日もヒトラーは、リンツに滞在して、3月13日、午後11時52分、「ドイツ=オーストリア統合法」に署名しました。その瞬間、オーストリア国家が消滅して、ドイツ領オストマルク州になったのです。
リンツとブラウナウの街については「ヒトラーの足跡を辿ってみるオーストリアの旅 少年時代編」
ブラウナウの市庁舎 リンツの市庁舎ヒトラー、青年時代を過ごしたウィーンに凱旋
翌3月14日、ヒトラーはリンツを立ち、各地で歓声を浴びながら、夕方、不毛だった青春時代をウィーンに凱旋しました。
ホテル、インペリアル
その夜、ヒトラーは、ウィーンへ前乗りさせていた愛人エヴァ・ブラウンとホテル、インペリアルに宿泊します。ホテルの前には、大観衆が集まり、バルコニーに何度もヒトラーは姿を現し、歓声に応えました。
そんな中、一緒にリンツを離れ、ウィーンのシュトゥンパーガッセ通りで一緒に下宿していた親友のグビツェクが訪れてきたのでした。
ヒトラーの私室で2人だけで会見します。
当時、グビツェクは音楽家として成功していましたが、大恐慌による不景気で音楽家を辞めて役人として働いていました。2人は久しぶりの再会を懐かしみます。 その後は、ドイツのバイエルン州で開かれていた2人の共通の趣味であるワーグナー際に、ヒトラーが毎年、グビツェクを招待してくれました。
戦後、グビツェクは、アメリカの中央情報局で、この日のことを訊問されます。
係官「あなたはヒトラーの親友だったのは本当ですか?」
グビツェク「本当です。」
係官「金品、美しい婦人、社会的地位のようなものはあてがわれましたか?」
グビツェク「いいえ、何も」
係官「ホテル・インペリアルで会見した時、護衛はつきましたか?」
グビツェク「いいえ、2人きりでした。」
係官「(驚きの表情を見せ)本当ですか?ではなぜあなたは、その時、あの忌まわしい、悪魔のようなヒトラーを殺さなかったのですか?」
グビツェク「なぜって?それは彼が私の親友だったからです。」
ホテル・インペリアルは1873年に建てられ、国賓級の要人が宿泊する最高級ホテルで、天皇陛下皇后夫妻も宿泊されたこともあります。現代でも当時の外観と変わらず営業しています。
絶頂期の真っ只中だったヒトラーが、生まれ故郷の首都のウィーンに凱旋、その夜、旧友と再会して、愛人のエヴァ・ブラウンと枕を交わしたホテル・インペリアル。ウィーンでは、浮浪者も経験したヒトラーが、最上級ホテルに泊まれる立場になって帰ってきたのです。
ホテル・インペリアルは最高級ホテルなので、宿泊料金は法外ですが、1階のレストランカフェは、気軽に利用できます。ハプスブルグ家の皇帝に献上されたケーキ、インペリアルトルテはオススメの一品(5ユーロ)。ウェイターの若いボーイさん達も愛想よいです。
ぜひ、ヒトラーが幸せの絶頂期の一夜を過ごしたホテル・インペリアルで、カフェでもしてみてはいかがでしょうか。
ウィーンでのヒトラー散策を終えた夜にでも、ホテル・インペリアル(レストランカフェの営業時間は23時まで)でお茶でもすれば、更に雰囲気を感じることができると思います。
場所はリンク沿いにあり、国立オペラ座から歩いて5分ほどです。
ホテル・インペリアル インペリアル・トルテ20万人の前で演説した英雄広場
翌3月15日、ヒトラーは、ホテル・インペリアルから歩いて10分ほどのリンク沿いのヘルデンプラッツ(英雄広場)で演説します。その間には国立オペラ座やヒトラーが受験に失敗したウィーン美術アカデミーがあります。かつてハプスブルグ家が暮らしていた王宮と新王宮に囲まれたヘルデンプラッツには、20万人の大群衆が集まりました。
ヒトラーは、人生で最高の時間だったと振り返っています。
オーストリアを掌中に収めたヒトラーは、隣国チェコスロバキアに目を向けます。そして、ポーランド侵攻と、オーストリア併合の約1年半後に第二次世界大戦へと突き進みます。
34 英雄広場旅行中に気軽に読めるヒトラー散策にオススメのマンガ
劇画「ヒットラー」水木しげる ちくま書房
オーストリアやドイツのヒトラー関連の場所を巡る際、持って行きたい一冊。
276ページほどのマンガなので、ヒトラーの生い立ちやナチスの勃興の流れがつかみやすいです。このマンガに登場した場所も「ヨーロッパで訪れたい世界大戦の戦争遺跡シリーズ」でも紹介しています。
ウィーンに上京したヒトラーは、「オーストリアの旅。ヒトラーの足跡を辿ってみる 青年時代」編
ブラウナウとレオディングで感じた地元の人達のヒトラーに対する反応は、「【番外編】戦争遺跡ライターは、身に危険がある仕事なのか?」編